母がバイク事故に遭い脚を骨折したのは1981年の春のこと。バイクにぶつかったのは事故現場となった病院の職員だった。その縁で桑原病院に入院することができた。
弟と一緒に何度か見舞いに行った。
が、ある時からピタッといかなくなった。
理由は、中学時代のちょっと気になっていた女子が、部活の事故で捻挫して母の隣のベッドに入院してきたからである。
ある日見舞いに行く。ドアが開いていて向こう側によく見慣れた顔が寝ている。A子じゃないか!!!
僕は足を忍ばせて踵を返した。弟はなにがおこったのかよくわからない体で、でもなんとなく自分についてUターンする。
こっぱずかしかったのだ。丸刈りで剃り上げたあの頭で再会するのが。
卒業式には出ていないので、たぶん二月位以来になるのかな。
あれからどうしているの?
こうA子に言われることが、自分には一番きつく、切なく、つらくイライラすることだったと思う。会いたいけど、会いたくなかったのだ。
母からの電話でも「中学で一緒やったK原さんが、隣のベッドに入院しててね」「京くんは元気ですか?なんて言ってたよ」なんてことや、『K原さんの彼氏がギター持ってきて歌をずっと歌っていたよ。左利きで歌もうまい。あれ、山科少年剣道で一緒やったM田 くんやんなぁ」なんてことを聞かされて、なおさら足が遠のいてしまった。
ところで、自分は難関の公立を蹴り私立に行ったことで担任に忌み嫌われていたし、自分が欠席しているときに、担任は実名を挙げてそのことを非難するようにみんなに話したそうだ。
非難されるのは覚悟の上だった。
突然電話があって、だれか一人が泣くことになるんやぞともいわれた。
「そういわれても、その見も知らぬ人の人生と僕の選択には何のかかわりもありません」なんて生意気なことを返した僕は、担任にとって単なる理解しがたい異物、エイリアン、異端児、アウトサイダーに過ぎなかったんだろう。
嫌われていたことは間違いない。
担任のくれた年賀状には「お前なら、トップクラスで公立を突破できるはず」なんて書いてあった。
進学校の公立・東稜に何が何でも入れたかったのだろうな。
自分の名誉かなんかのためだろうか。
一方のA子はというと、どちらかというと牧歌的でのんびりとした洛東に進学していた。
同じ公立でも全く違う。住んでいる場所で、人生が決まるって、こういうことなんだなと、悲しく理解した。
当時の京都市は学区制で、行ける公立の選択肢はなかったのである。
仲がよかった生徒はほぼ洛東に行った。東稜には会いたくも関わりたくもない連中ばかりが来ていた。
なんとなくやるせないけど、少し自由になれる気がするということを頼りに、私立の東山に入学した。
ところで、くすんだ水色の桑原病院の建物の真横を、京津線の線路が通っている。
桑原病院の二階の窓と京津線のドアとの差はそんなに離れていない。
窓際に立つ人の表情も手に取るようにわかる距離なのだ。
京津線は京阪山科を過ぎたらすぐに、御陵までの間のある区間、民家の真横をすり抜けてゆく。
(その後、江ノ電が民家の横を通ってゆくのを経験したときに、それを真っ先に思い出した)。
母は、毎日、決まった時間に登校する、京津線の中の自分に向けて二階の窓から手を振ってくれた。
なぜか知らないけど、でもなんとなくわかるけど、ぽっつりと見舞いに来なくなった自分に向けて。
雨の日もだ。
記憶があいまいなところもあるが、母は笑顔だったと思う。いつも。
退院するまでそれは続いた。
かなり朝早い京阪京津線の出入り口に立ち、やさしく、時に陽気に明るく手を振る母の姿を見ながら、毎日もどかしい気分をかみ殺していたことを、いつまでも忘れることができない。しょっぱすぎて。
今更ながら思う。一度くらいは手を振り返せばよかったのに。
後悔は先に立たない。