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アブデラジィズ・ブーテフリカ
(H.E. M. Abdelaziz BOUTEFLIKA)
1937年3月2日生
ウジダ市(OUJDA、現モロッコ領)
年月 | 職歴等 |
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1956年 | 民族解放軍(ALN)に参加 |
1962年 | 制憲議会議員、青年・スポーツ大臣 |
1963年~1979年 | 外務大臣(在任16年) |
1964年 | FLN(民族解放戦線)中央委委員兼政治局員 |
1979年 | ブーメディエンヌ大統領死去後、後継者と噂されたが失脚 |
1980年 | 政府より追放 |
1981年 | FLN中央委より追放 |
1989年 | FLN中央委委員に再選出 |
1994年 | 大統領候補にあがるが辞退 |
1999年4月 | 大統領選挙により大統領に就任 |
2004年4月 | 大統領選挙により大統領に再任 |
2009年4月 | 大統領選挙により大統領に三選 |
独身(家族の話は話題として避けられている)
読書、サッカー、音楽(特にアラビア音楽)
三回
年月 | 職務等 |
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2000年7月 | 九州・沖縄サミット |
2004年12月 | 公式実務訪問賓客 |
2008年7月 | 北海道洞爺湖サミット |
アラビア語(母国語)、仏語
(1)同大統領はアルジェリア・モロッコ国境の町、今はモロッコ領ウジダの生まれ、18歳で現地のリセ卒業と同時に対仏解放闘争に身を投じた。高等教育を受ける機会は全くなかったにも関わらず、深い教養に裏打ちされたその仏語は仏の最高レベルのインテリのそれであり、アラビア語についても格調が高すぎて一般アルジェリア人には良く理解されないとも言われる程。
(2)身内を側近に配し、弟のサイド・ブーテフリカは大統領顧問を務める。
(3)20代半ばで外相就任、78年までアルジェリアを第三世界、非同盟の雄に押し上げた立て役者。74年の国連総会では新国際経済秩序構想を主張したブーメディエン大統領(当時)の下、総会議長として先進国の反対を押し切って南アの国連からの追放とPLOの国連オブザーバー参加を実現した。その後、政治的理由から約20年に及ぶ海外生活を経て再びアルジェリア政界への復帰を果たした。
(4)92年シャドリ大統領辞任後、国家最高委員会の大臣顧問として挙げられるが辞退。94年には大統領候補にあがるが、右についても辞退。99年、大統領選に出馬し、73.8%の得票率を獲得して大統領に選出。
(5)就任以来、司法、教育、および行政の3大改革のほか、社会の安定(治安と国民和解)と経済改革(市場経済の導入)を図っている。
(6)大統領就任以来、積極的な外交を進めG8を始めとする先進諸国との関係改善に取り組み、90年代の国内テロに襲われた「危機の10年」によって植え付けられたアルジェリアの国際社会におけるイメージの改善に取り組んだ。
(7)2004年4月8日の大統領選挙にて84.99%の得票率で他の5候補を破り、大統領に再選。引き続き社会安定のためのテロとの戦い、市場経済への移行のための民営化等を掲げる。
(8)2009年4月9日の大統領選挙では、90.23%の得票率で3選を果たした(任期5年)。