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 『烈公の改革と幕末の水戸藩』
        ---水戸の理想と悲劇---





【総題】「烈公の改革と幕末の水戸藩」
        ---水戸の理想と悲劇---について
            水戸史学会会長  名 越 時 正

 水戸史学会の名越でございます。今年は大変暑く、毎日猛暑が続きますが、本日は大勢お出で頂きまして誠に嬉しく存じております。
 今日から第十一回目の水戸学講座が開講されますが、この講座は常磐神社が企画し、主催されたものでありまして、私どもはあくまでお手伝いということであります。水戸史学会では義公烈公を始めといたしまして、水戸の学風、特に歴史学を受け継いで勉強をしておる会でございますので、そのテーマや講師について神社のご相談を受け、五軒公民館とともに共催させていただいております。
 さて今年の水戸学講座の総題は、案内書に書いておきましたように、「烈公の改革と幕末の水戸藩」こういう題に決めました。そしてそれに、「水戸の理想と悲劇」、こういうサブタイトルをつけました。
 水戸藩の理想が、素直に順調に通ればそれは日本のために喜ぶべきことだったのですが、不幸にして色々な障害、圧迫、弾圧をうけまして、水戸の歴史は非常な悲劇を繰り返すという惨憺たる状態となってしまいました。一体、これはどういうことなのか、どうしてこういうふうに水戸藩が非難を受け、或いは弾圧をうけたのか。それは理想そのものに関係があるのか、或いはそのやり方に関係があるのか、或いは他に事情があるのか。そういうことを明らかにしたいのが目的でございます。
 丁度今年は水戸藩が幕府から弾圧をうけました弘化元年から数えて百五十年になります。この弘化元年の五月、幕府は七ヶ条の嫌疑を烈公にかけ、烈公及びそれを補佐した東湖先生、戸田蓬軒先生等に全て幕府の命令によって、非常に重い処罰を与えました。その為にせっかく、これから益々展開しようとした水戸藩の改革を瓦解させ、中止を余儀なくさせてしまいました。こういう事件であります。水戸にとっては甲辰の国難、弘化元年は庚申の年だったので、弘化甲辰の国難とよんでおります。それから以来の動きが水戸の悲劇となるわけです。その悲劇のなかで、一番大きいのはやはり、所謂天狗党、筑波山挙兵の顛末だったと思います。この事件を含めて、水戸の、幕末に於いて果たした役割、あるいは色々様々な悲劇、これを究明していくのが、この講義のもう一つの目的であります。
 しかし、そういう悲劇を繰り返しながらも、明治維新が達成されると改めて水戸藩の功績が見直されて、そして明治六年には常磐神社の創立ということが朝廷においてはじめて許可されました。この常磐神社が今から百二十年前に創建された時には水戸領を始め、この近辺の人達は非常に喜んで、あらゆる建築材料や苗木などを担いでここに集まって建設に協力をしたわけです。こういう事情はなかなか一般の簡単な歴史には書いてございませんで、その裏面に非常に興味深い、また複雑な動きが有りました。
 一口に、義公と烈公といいますが、この義公と烈公とについて、その違い、相違点はよく多くの人があげることですが、面白いことに非常な共通点があります。それは、義公が藩主になられたのは三十四歳、烈公は三十歳です。どちらも、もう青年期を過ぎて円熟した時に、藩主になっておられます。それはいろいろと事情がありましたが、その間の義公烈公のされたこと、これが大きく影響するということを考えます。義公の場合は始めは色々我儘なところがありましたが、十八歳の時に史記の伯夷伝を読んで考えられたことが非常に大きな動機となって、学問、とくに歴史がいかに大事であるかということを知って、それからというものは、亡くなるまで書物を離さないと言うくらいの学者になられました。その藩主になるまでには多くの学者、たとえば京都の冷泉為景というような立派な学者の協力を受けたり、或いは幕府の林読耕斎という良い友人がありまして、色々助けました。そういうことが義公の一生に非常に大きな役割を果たしているのであります。
 一方烈公はどうであろうか、烈公の藩主になられる前のことはあまり良く知られていないのですが、調べてみるとこれはやはり、義公と同じように非常に勉強しておられる。それは藤田幽谷先生とその門下会沢正志斎或いは吉田活堂、藤田東湖、そういうようなグループの間に、烈公は、生涯部屋住みで終わるか自分の将来は分からない立場にもかかわらず、一所懸命勉強されます。ことに幽谷先生は、あの当時の賄賂の非常に流行した、金権政治というものを、非常に激しく、痛烈に批判して藩の改革を主張しています。それと同時に毎日のようにあの長い太平洋海岸、鹿島灘に現れる外国船、この動きが一体何であるのか。世界にどういうことがおこっているのか。ここに注目して研究しておったのが幽谷先生とその弟子達です。ことに会沢先生は烈公の学問相手でしたから、そういう雰囲気の中で烈公は勉強しておられました。従って烈公が藩主となったときにはそういう幽谷先生門下の熱烈な支持をうけて、そして、一気に長年の蓄積を発揮してあの改革を始めました。その改革に当たっては、天下の魁ということを言われます。烈公の詩にも、「雪裏春を占む天下の魁」という有名な詩があります。真先に日本の為に改革を始めよう、こういう気持ちです。これをよく頭に入れて頂きたいと思います。
 ところがそのずっと後にこういう歌を作っておられるのです。「世の中をそろそろ水戸の真似するというこそ国の錦なりけり」今の世の中は水戸の真似をしている、という噂がたっているがこれこそ水戸の誇りなのだ。と、これは実は非常な得意の気持ちだったのだろうと思います。これはいつかといいいますと、丁度水野忠邦の天保の改革が始まった年、天保十二年です。その時に水野がやったことは烈公が十年以上前からやられたこととすっかり同じことである、ということから、世の中ではあれは水戸の真似だ、こういいだした。それを烈公は非常に喜んで、これでいいのだ、天下の魁がこれで始めて達成された、という気持ちになれたのでしょう。しかしその反面幕府側では水戸を邪魔にしはじめ、警戒するようになりました。丁度天保十二年は弘道館が開館した年です。翌年は偕楽園が開かれる。そして天保十四年には将軍の家慶公から呼ばれて大変なごほうびをうけるのです。水戸の政治は非常に立派だ。実に良くやっている。こう言って将軍から表彰をうけ、そして、刀や、或いは馬の鞍や、或いはお米を与えられました。これは、烈公にとっては非常に得意満面な次第であったと思います。ところが例の弘化元年の弾圧というのは、その翌年なのです。それから丁度一年後に一転して水戸藩は幕府の下にすっかり抑えられてしまうのです。改革も破壊されます。烈公は隠居謹慎、改革は一切中止。こういう状態に置かれるるのです。このあたりの幕府の急変の張本人は一体誰だったか、ということを問題にしていただきたいと思います。世の中の人は烈公の悪口ばかり言うのです。しかし幕府は一体しっかりしていたのか、と言うことはあまり論じられないのです。この辺はあとは仲田先生のおはなしに期待していただきたいと思います。そういう悲劇が続きますが、最後にやはり一番水戸藩の改革に感謝したのは誰か。それは諸藩の志士と水戸の領民です。お百姓であり、また、水戸の町民である。そのことを一番最後の、十二月ですが、「水戸藩の改革の余光」こういう題で薗部先生が新しい発見というわけではありませんが、長年埋もれていたものを発見して、皆さんにご披露すると。こういうことで締め括りたいと思います。どうぞ皆さん宜しくご静聴下さってご一緒に考えていただきたいと思います。


   水 戸 藩 改 革 の 余 光

                  薗 部  等



 皆さんお早うございます。只今ご紹介にあずかりました薗部でございます。
 平成六年も早や師走を迎え、八月以来開講してまいりました今年の水戸学講座も最終回ということになりました。今年度の総題は「烈公の改革と幕末の水戸藩」、副題は--水戸の理想と悲劇--でありましたが、既に四人の講師の御話により、その理想と悲劇については、十分語り尽くされたところであります。特に前回、十一月の講座におきましては「水戸藩の悲劇」と題し久野勝弥先生から、大老井伊直弼の登場により将軍継嗣問題や条約調印問題、或いは勅諚問題などで、水戸藩と幕府の対立が激化して、遂に安政の大獄となり、これによって未曾有の悲劇が起きたこと、さらにこうした中で義憤に燃えた志士、烈士による桜田門外の変となり、幕府の権威を失墜させ、王政復古への足取りを早めさせた、等の御話がございました。そして文久二年(一八六二)、勅使の下向により幕府の政治方針も一変し、安政の大獄で処罰を受けた者は生死に関わらず全て無罪となりました。特に烈公はその功績を認められ、孝明天皇より従二位権大納言を追贈されたというところで幕を閉じられたかと思います。しかしながら、その後の元治元年(一八六四)の筑波山挙兵、所謂天狗党の変につきましては今年が挙兵百三十年にあたるということで、さる十月二十三日に記念行事があり、その際にも久野先生から「筑波山挙兵の顛末と意義--水戸藩の理想と悲劇」と題する記念講演がございました。皆様の中にも多数ご参加いただいた方がいらっしゃるので、この部分は割愛する旨の御話でした。実はこの所が水戸藩の最も大きな悲劇であります。しかし僅か二週間程の間に、久野先生にとりまして同様の話をするというのは同じ水戸人として言うに堪えず、また、語るに忍びない出来事であり、またそれ程に悲惨な最期であったことをご理解いただき、本日の話に移りたいと思います。
 前置きがやや長くなりましたが、以上のことを振り返ってまいりますと、烈公の改革が、その高邁なる理想にもかかわらず、幕府からは弾圧され、藩内の保守門閥派からは反対され、為に激しい対立混乱を招いて、幾多の悲劇を生じたこと、そして改革が未完成だったことと併せ、今も尚、甚だ不当な結果論で論じられていることを痛感いたします。これを正しく解明して、その歴史的意義を明らかにし、俗論を打破することが本日の講座の主題であります。
 最初に、徳川慶喜公の大政奉還の事情について考えてみたいと存じます。史料を見ますと一橋家の家臣で、後に近代日本を代表する実業家になりました渋沢栄一が伊藤博文から聞いた慶喜公の逸話があります。これは、『徳川慶喜公伝』第四巻に見えています。
これは渋沢翁が伊藤公から聞いた慶喜公の逸話の書出しですが、一方、慶喜公が大政奉還を考えられたその事情は何かというと、この話の中に「唯庭訓を守りしに過ぎず」とあります。すなわち、家庭の教訓を守ったに過ぎないというんですね。その続きには、
こうして幼少の時以来、慶喜公は烈公からこの教訓を義公以来の遺訓として諭されていたのであります。そして、後、二十歳に達した時、
つまり大政奉還、この一事は父祖の教えを守ったに過ぎないのだという、奥ゆかしい答えをされたのでありました。
 さて、この中で「庭訓」、或いは「義公以来の遺訓」、或いは「父祖の遺訓」といい、烈公が慶喜公に伝え教えられたというのは、実は烈公が父の七代藩主武公治紀から訓えられたものであったことが、青山雲龍(延于)の編修に掛かる『武公遺事』によって明らかであります。その一節ですが、
この史料の最初に、「或時景山公子へ御意遊されけるは」とあります。この景山公子というのは烈公の部屋住時代の敬称で、景山は烈公の号でございます。従いまして武公は当時部屋住の身分でありました、三男の烈公への遺訓のつもりで尊王の大義、天子と将軍の別を誤らぬようにと申し渡したのであります。しかも、その内容が、朝廷と幕府の対決という容易ならざる事態を想定していたことに驚嘆致します。
 ところで、前に挙げました『徳川慶喜公伝』が伝える義公以来の遺訓というのは何か、又、今見ましたように烈公の父武公の認識とはどこから来るものなのか。このことを明らかにされましたのが、名越時正水戸史学会会長の著書『水戸学の達成と展開』であります。今これによって考えてみますと、まず義公には、亡くなる直前の遺言というべきものはありませんでした。しかしあったとすれば、それは義公六十三歳の元禄三年(一六九〇)十月十四日、幕命によって致仕を許され、藩主を三代粛公綱條に譲り、十一月二十九日に水戸へ帰国の為出発にあたりまして綱條に与えた詩がそれに当たるのではないかということです。実はこの元禄三年の十月十四日、よく考えてみますと慶喜公の大政奉還が慶応三年(一八六七)の十月十四日なのです。偶然の一致とするにはあまりにも不思議な事実でございます。一七七年を隔て、義公の致仕された日と、慶喜公が将軍職を辞退して大政奉還をされる日が奇しくも同じ日でありました。さて、義公の詩文集『常山文集』巻十五に収められている問題の詩でありますが、この序文に、
この「九成」は綱條の字であります。その後が詩になるわけですが、前半は隠退の心境を表したものです。遺訓と言うべきものは次に挙げる後半の三行です。
就中、最も重大な一句は最後の「古謂ふ君以て君たらずと雖も。臣臣たらざる可からず」であります。この君というのは将軍ではなく、天皇のことであります。従いまして、この一句は君臣の大義の絶対を説いたもので、朝幕の間にどのような不測の事態が起ころうとも、主君たる天皇には絶対随従の至誠を貫くべしという重大な意味を含むものであります。
 しかるに、義公の遺訓とも言うべきこの詩を後世謹書して子孫に伝えんとしたのが、第六代藩主の文公治保であります。現在徳川博物館に所蔵されております文公の書を拝見致しますと先ず冒頭に、先程の義公の詩を謹書し、その後に次のような奥書が記されております。
 「義方の訓」とは家訓のことです。この家訓は太陽や星のように光輝くものである。
続いて、
 「矜式」は謹んで手本にするという意味です。「著雍」は「戊」のことで、次の「閹茂」が「戌」です。従いまして「著雍閹茂」で「戊戌」となります。則ち、これは安永七年で、時に文公二十八歳でありました。実は、先に見ました七代藩主武公はこの文公の長男であります。
 以上のように、義公の遺訓は元禄三年以来、六代の文公から七代の武公へ、そして武公から九代の烈公へ、更に烈公から慶喜公へと伝えられて百八十年、慶応三年十月の大政奉還に至るのであります。一体、幕末のこの日本が、国家民族の分裂抗争という未曾有の危機を回避し得まして、王政復古、さらに維新という近代国家としての道を速やかに歩み始めることが出来ましたのはひとえに、慶喜公の大政奉還という大英断によります。それは、慶喜公によって大義が明らかにされたからで、又、混迷激動の最中にこれを明らかにし得たのは義公以来の水戸の学問の精神、そして歴代の藩主に伝えられた遺訓に他ならないと思うのです。
 更に、このような見地に立つならば、王政復古、明治維新の根源は義公の学問思想に端を発し、その真の創始者は義公であると言えましょう。それを端的に表しているのが次の史料です。
 「この神」即ち義公ですが、その徳を戴いて達成出来たものであるということです。また、この著者の福羽美静ですが、この方は石見国の津和野藩士で、国学者です。維新後は新政府の神祇政策を推進し、明治元年の即位の大礼、更に同四年の大嘗祭の執行にあたり、その中心として活躍された方であります。その美静の師が同藩の大国隆正という、烈公や藤田東湖先生とも交友関係があった方ですがこれは、水戸学派と津和野学派との密接な交流を物語っております。さて、美静はそのような結び付きから明治十四年、水戸を訪れると、先ず常磐神社に参拝して、義烈両公に対する崇敬の心をこの文章に著したのであります。また、文中でグリフィスの名を引き、王政復古、明治維新が義公の尊王の精神に由来するという考え方は決して自分一人のものではなく、心ある外国人も水戸義公の功績を喝破していると述べております。このグリフィスは、アメリカ人のウイリアム・エリオット・グリフィスという方で、明治三年に福井藩の招きで来日しております。福井藩には「明道館」という藩校がありました。この藩校で理化学を教えて後、大学南校から東京開成学校に転じ、明治七年の帰国後は牧師となりました。四年間の滞日中の見聞、或いは研究をもとに日本に関する書物を著しており、美静が引用した『維新外論』もその一つなのですが、中でもグリフィスの著書で有名なのは『The Mikado's Empire』、邦訳すれば『皇国』ということになります。この訳書は出版されておりませんので、水戸史学会理事の照沼好文先生の訳を使わせて頂きます。ただし、原書につきましては昭和四十六年に時事通信社から出版されております。今ここにそれを持ってまいりました。かなりぶ厚いもので、当然のことながら全て英文で書かれて居ります。しかし、この表紙には、正式なタイトルの後に漢字で『皇国』と書かれております。それでは、訳の一部を挙げてみたいと思います。
この「一八六八年に最頂点に達した革新運動」、は即ち明治維新のことであります。明治維新の真の創始者は義公であると当然考えられる。そして、
史書というのは『大日本史』で、簒奪者とは王位を奪い取る者という意味です。グリフィスはこの中で、特に義公の学問事業に注目し、その上で義公が維新運動の真の創始者であるということを、後に述べますアーネスト・サトウの説を引用しながら自説の補強を試みております。また、末尾にあるように武家政権、幕府というのは武力によって朝廷から権力を奪い取った簒奪者であったことにも言及しております。
 さて、このグリフィスの文中に引用されたサトウ、サトウと言うと何か日系人のような気がしますが、れっきとしたイギリス人です。このアーネスト・メイソン・サトウとは、イギリスの外交官にして日本学者、日本研究家でありました。幕末の文久二年に来日して居ります。実はサトウが来日した六日後に生麦事件が起きました。そのため、彼は、最初から外交上の難問を抱えることになりますが、以来四十五年間の外交官生活の内、日本駐在は通算二十五年に及んだという日本通であります。そして外交官を引退した後には、日本式の号を自ら付けて、「薩道」と名乗りました。このように日本語を自在に駆使する外交官の草分けとして、特に薩長等の倒幕勢力とも幅広く接触し、豊富な情報を手に入れ、当時のイギリスの駐日公使パークスの対日政策を補佐したと言われて居ります。また、彼は『英国策論』の中で、日本の政治体制は、天皇を元首とする諸侯連合、つまり大名の連合体であり、将軍は諸侯連合の首席にすぎないということを主張しております。この主張はやがて、幕府の権威失墜に大きな影響を与えたのですが、この考え方等は、やはりサトウという人の深い日本研究の成果であろうと思います。特に神道、或いは日本の歴史に深い造詣を持っておりました。これは義公の言われた、「我か主君は天子也。今将軍は我か宗室也。宗室とハ親類頭也。」(『桃源遺事』巻三)。この日本の主君は天子、天皇であり、今将軍の地位というのは御三家の親類頭である、ここを了見違いしないように、取り違えをしないようにと、義公は言われたわけですが、まさしくこの言葉と軌を一にしていると言えると思います。
 このように見て参りますと明治維新における水戸藩の功績と申しますのは、燦然として特立する偉業であり、決して身贔屓とか、お国自慢というような偏狭なものではないのです。しかしながら、この水戸は明治元年の十月頃まで二派に分かれ、藩内の対立抗争が続きました。この中で、幾多有為の人材を失い、維新直後の水戸は余りにも悲惨な状態でありました。さらに明治四年の廃藩置県以後、統合して成立したこの茨城県を統治するため任命された官吏は殆どが他藩の出身者だったのです。中央政府の要職が薩長土肥の出身者であります。しかも、その上に当時弘道館を県庁とした茨城県の官吏さえ他藩出身者で占められた、ということは元治甲子以来の内訌の余燼、或いは生活上の困窮に苦しんでおりました水戸の士民の名誉心をいたく傷つけた出来事でした。当時の水戸には不平不満の気が漲り、まさに不穏な状態であったようです。それが爆発したのが明治五年の七月、大蔵大丞であった渡辺清(旧肥前大村藩士)が茨城県の県令心得に任命され、水戸に赴任した直後のことでありました。水戸城が何者かによって放火され、三階櫓を残して焼失した、いわゆる水戸城焼打事件であります。この事件は、恐らく旧水戸士族の不平分子の仕業であろうとされ、容疑者十七名が東京へ護送の上留置されます。しかしながら、結局証拠不十分とのことで三年後に釈放されました。この一件などは、当時の水戸士族の激しい不満を表したものといってよいと思います。
 このような中、義公以来の水戸藩の功績を認めて温かくこれを労われ、嘉せられたのが時の明治天皇でありました。時に御年十八歳であられます。早くも明治二年十二月二十五日、義烈二公に対し、追贈の御沙汰がありました。その時に義公に下されました宣命が、
 「兵革始息」とは兵乱の世が初めて止んで、という意味で、「文教未明之時ニ方リ」とは、学問がまだ明らかでなかつた頃ということです。更に烈公に対しては、
時の当主は、水戸藩第十一代藩主の昭武公で、版籍奉還により水戸藩知事でありました。 こうして、維新直後の水戸に大きな動揺はありましたが、義烈二公への追贈位を通して人士は両公に対する景仰、追慕の念を一層深めると共に、この両公を祀る神社創建の気運が次第に盛り上がりを見せてくることになるのです。
 義烈二公の内、まず烈公の神霊を祀る祠堂が烈公正夫人の貞芳院(登美宮、文明夫人とも諡され、慶喜公の生母に当たる)の創意により、偕楽園内に建立されました。この場所は、偕楽園のちょうど中ほどの藤棚、その北側に烈公祠堂があったそうです。今朝ほど拝見してみますと、御幸の松が植えられておりまして、後に述べますが、明治二十三年に明治天皇が水戸に行幸された時の事を記念して松を植栽した、その辺りでございます。この建立の時期ははっきりしないのですが、大体維新の頃と言われております。
 それから、義公の方ですが、こちらは明治三年の暮れ頃、『大日本史』の完成に大きな功績を挙げた栗田寛先生等によって義公の神霊が水戸城内の彰考舘(現在の水戸二中の所で、「大日本史編纂之地」という石碑が建っております)に移され、仮に祀られておりました。しかし、その後彰考舘は転々とし、明治五年に偕楽園の一角に移転します。これが現在「大日本史完成之地」という石碑が建っている南崖の所です。義公の御神霊もこの段階で、偕楽園内に既にありました烈公の祠堂に御遷座することになったわけであります。これが義烈二公の神霊を合祀する発端で、後の常磐神社創建の動機となります。
 引続き明治五年十月、義烈二公の神社を創建しようという議が起こり、その建白書が栗田寛博士によって起草されました。これはかなり長い堂々たる文章です。そして、この建白書と併せ神社創建の願書を時の県庁に提出いたしました。これに対しまして先に述べた渡辺県令心得は水戸の人々がこれまでの党争を止めて非を悟り、これを義烈二公に誓約するならば神社創建に力を尽くそうという態度でした。この為、業を煮やした栗田博士等は政府要路の人を通して直接、政府に請願するという手段を取ります。そして、それを当時参議の西郷隆盛に託しました。この西郷隆盛は水戸とも深い御縁がある方ですが、やがて明治六年十月征韓論に敗れ、参議を辞して鹿児島に帰ることになりました。しかし、神社の創建に就いては、善処方を政府の高官に託し、実現を促したのです。
 この神社創建の願書が水戸の有志から渡辺県令、政府に執奏され、遂に明治六年三月二十七日、政府は神社の創建を裁可し、ここに常磐神社という社号が下賜されました。そして、四月六日には偕楽園内の義烈両公を祀る祠堂の前で奉告祭を執り行い、この頃から現在地で常磐神社の社殿の造営が始まるのです。これは、翌七年四月に落成して、五月十二日には遷座祭が執行されました。以後、五月十二日が常磐神社の例祭の日となったわけでございます。そうしますと、今年は常磐神社の御鎮座から丁度百二十周年という記念すべき年になります。明治七年(一八七四)から数えて百二十年ということでございます。このように発展をしてまいるわけですが、この間、明治六年七月には常磐神社が県社に列格いたします。しかしながら、御祭神の義烈二公の神号宣下に就きましては七年の十一月になってから、漸く神号が下賜されました。この御神号は、義公に対しては高譲味道根命(たかゆずるうましみちねのみこと)、烈公に対しては押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと)と申し上げますが、この発案者は栗田寛博士であります。
 このように、水戸の人々の悲願が実り、名実共に威容を整えた常磐神社が別格官幣社に列せられたのは明治十五年のことであります。この別格官幣社と申しますのは、特に国家非常の秋に功績を立て永く万民に敬慕されるような功臣をお祀りする神社に対して贈られる社格で、例えば楠公をお祀りする神戸の湊川神社、或いは靖国神社等もそうです。
 さて、先程より常磐神社の創建にまつわる話をしてまいりましたが、一体この維新後に水戸がどのような歴史的評価を得たのか、この点を明治天皇と水戸ということで次に考えてみたいと思います。先程、明治天皇が明治二年、義烈二公に対して従一位を追贈されたということを申し上げましたが、引続き明治八年四月四日には東京は墨田川の河畔にあります小梅の水戸徳川邸に行幸されました。この小梅邸は現在の墨田区向島、隅田公園になっている所で、江戸時代にはここに水戸藩の下屋敷がございました。時に明治天皇二十四歳であられましたが、当主の徳川昭武公に対し、勅語を下して水戸徳川家の功業を嘉賞されておられます。『明治天皇紀』を見てみますと、この時の勅語が出てまいります。
そして、一ヶ月後の、五月十五日にはこの時の感懐を和歌に認められ、次のような短冊を下されております。
「くはし」とは美しいという意味です。美しい桜の最中にこの小梅邸を訪れた。しかし、満開の桜よりも、私はこの水戸家の歴代藩主の心、その精神をここに訪ねたのである、ということです。「世々のこゝろ」とは何か、既に慶喜公の大政奉還の話を冒頭で致しましたが、それを思い起こして頂きたいと思います。このように明治天皇が臣下の私邸に行幸され、しかも勅語と御製を下賜されるというのは水戸徳川家が最初と言われております。さらに明治二十三年には、水戸市民にとりまして非常に感激的な明治天皇、皇后両陛下の水戸行幸啓がございました。尚この前年、明治二十二年に水戸は市制を施行しております。近衛師団の演習を統監されるのが目的でありましたが、水戸には十月二十六日から二十九日まで滞在されております。『明治天皇紀』には、
このようにあります。また、この日侍従を瑞龍山に派遣して義烈両公の墓に詣でさせ、また西山荘を訪ねさせておられます。そして、翌二十七日、水戸の行在所、これは当時の師範学校に行在所が設けられたそうでありますが、その陳列場に義公、烈公の遺品をご覧になりました。そして皇后陛下におかれては、次のように記されております。
また、常磐神社にも勅使を派遣して参拝させられております。さらに翌二十八日ですが、皇后陛下は
水戸公園というのは現在の弘道館公園です。やはり蝋燭の火を灯しながら八卦堂の中にある弘道館記碑を皇后御自ら読まれたと言うことです。そして後に、
というようなことがございました。この皇后大夫香川敬三とは、今茨城新聞にも連載されておりますが、御前山村伊勢畑の出身で後に伯爵となる香川敬三、東湖先生の門人であります。それから正定とは桜田烈士の一人山口辰之助の兄、山口正定であります。この方は当時主殿頭という、今でいえば皇宮警察本部長のような職を務めていました。従って、水戸出身の香川、山口、これを特に側に召して、この時の感慨を述べられたわけです。尚、行幸啓の翌日の十月三十日には、「教育勅語」が発布されております。併せて水戸の市民にとりましては忘れ得ない出来事になりました。
 十年後、今度は明治三十三年ですが、笠間に行幸された際にも侍従を勅使として、瑞龍山の義公の墓前に派遣されております。そして義公に追贈の勅語を賜りました。これは非常に有名な勅語であります。
「隠晦」は隠れて見えないという状態、「驕盈」とは驕り高ぶることです。また、「名分ヲ明ニシテ、志ヲ筆削ニ託シ、正邪ヲ弁シテ、意ヲ勧懲ニ致セリ」、これは『大日本史』編纂のことを指しております。そして「勤王ノ倡首」「復古ノ指南」、まさに義公の理想がここに結実していると言ってよいと思います。
 一方、三年後の明治三十六年には烈公にも正一位の追贈がありました。次の文です。
特にここでは『水戸藩史料』の編纂が完結し、これによって烈公の事蹟が一層明らかになったので今回の追贈に及んだという旨が記されております。しかも、この『水戸藩史料』は、明治二十七年に明治天皇の叡慮に基づき、水戸徳川家に命じて幕末の国事史料を編纂したものなのです。それからまた、未完成でありました『大日本史』が明暦三年以来二百五十年の歳月を費やして明治三十九年に完成し、この年の十二月二十六日に朝廷に献上されました。そして、一ヶ月もたたない翌四十年一月、明治天皇は『大日本史』編纂の為に収集された彰考舘蔵書の散逸を惜しまれ、その保存補助費として金一万円を下賜されております。次いで、四十二年五月には水戸家が彰考舘文庫を建設して蔵書の永久保存を図ることを聞かれた昭憲皇后も、その建築費として金三千円を下賜されております。
 このように見てまいりますと、幕末以来の水戸の悲劇、これに御心を痛められ、水戸の精神を誰よりも的確に把握され、これを顕彰されたのが明治天皇であり、また水戸の人々にとりましても大きな自信と勇気を与えられたことでありました。
 最後になりましたが、明治に入って後、旧水戸藩の領民、主に農民ですが、この領民たちは水戸藩の治政、或いは義烈二公の事蹟をどのように見ていたのか、このことを次に考えてみたいと思います。
 明治三十三年四月に「仰景碑」という石碑が、常磐神社の社殿裏に建立されました。この碑文は、栗田寛博士が書かれ、又、題字は福羽美静が揮毫しております。内容は烈公の愛民の政治、中でも天保の飢饉に際して餓死を免れた常磐村十二戸の農民が烈公の仁政に感謝し、その恩に報いる為に「御蔭講」という講を結んだこと、それから、その講員達が毎年寄り集まっては烈公の恩に感謝する行事を行う慣例になったこと、そして常磐神社創建の時には、講員達が杉苗三千本を奉納寄進したこと。このような美徳を顕彰、さらに記念して、仰景碑建立の由来を述べております。尚、このことは、今年常磐神社で出版された御鎮座百二十周年記念誌の中に、「みかげあふぎと三輪信善」という題で、水戸史学会の但野正弘先生が詳しく書かれております。  更に新発見の史料があります。「紀恩之碑」という石碑ですが、新発見といいましても、建立されたのは明治三十年で、ほぼ百年前に建てられたものです。ところが、その存在が水戸ではあまり知られておりませんでした。それもそのはずでして、この石碑の建立の場所は現在の栃木県那須郡馬頭町大字小砂、小さい砂でこいさごと読みます。ここに花館山という標高四百一メートルほどの小高い山があり、その山頂に建てられているのです。この現在の馬頭町一帯は、古代から武茂郷(むもごう)と呼ばれておりました。慶長九年(一六〇四)といいますから丁度幕府が開かれた翌年ですが、以来、この武茂郷は水戸藩領になります。この水戸藩領でありました武茂郷が明治四年十一月の二回目の廃藩置県で成立した茨城県には編入されませんでした。実はこの年七月に第一回目の廃藩置県があります。その時は水戸藩がそのまま水戸県と名称が変わっただけですから武茂郷も入っておりました。ところが、その四ヶ月後の十一月、二回目の廃藩置県では武茂郷だけが旧下野国であるという理由で当時の宇都宮県に併合されてしまったのです。もっとも、後に宇都宮県は新制栃木県というさらに大きな県になりますが、離れてしまうわけなのです。その為、驚いた武茂郷の村人が、急遽茨城県への管轄据え置きを嘆願致します。しかしながら、この願いは遂に聞き届けられることはありませんでした。そこで、旧水戸藩領武茂郷の村民は約二百七十年に及ぶ水戸藩政の遺徳を顕彰する為この記念碑の建立を計画することになるのです。碑文は水戸藩最後の西郡奉行(当時武茂郷は西郡奉行の管轄下にあり、その前は武茂郡奉行といっておりましたが、烈公の頃に西郡と名前が変えられております)市川時叙、これは碑文の末尾に掲げてある人名で、いちかわときのぶと読むのだと思います。この方の起草なのですが、武茂郷の村人の水戸藩に対する崇敬の念を記して余す所なし、というような内容でございます。その恩沢に感謝する意味でこの碑を「紀恩之碑」、紀は記と同じで、恩を記すの碑ですが、武茂郷では、最初これを「義烈両公の碑」と呼んでいたそうです。さらに末尾に明治二十五年とありますが、日清戦争が後に勃発しますので、実際には先程申し上げましたように明治三十年に建立されております。碑文自体は二十五年、実際の碑の建立は三十年、そしてこの年の十二月二十日に建碑式を挙行致しましたが、この時水戸徳川家からも当主の代理が参列しております。そして驚くべきは建碑の後なのです。この「紀恩之碑」の建立運動が実り、碑が建てられた後に「紀恩会」という奉賛会が組織され、毎年四月十七日を期して「紀恩祭」という祭典を執り行いました。義烈二公を始め、旧藩主、又その下で国事に倒れた藩士の霊を慰めたわけであります。この行事はいつまで続いたかと申しますと昭和二十年、終戦の年まで続けられていたということです。これが途絶えた理由はやはり占領政策という他はありません。この碑のことをもう少し話しますと、判ったのは実は今年になってからでして、私は今まで三回程この花館山に登り、拝見してまいりました。この山頂はやや広い円形の広場になっており、その一角に石碑だけで二メートル位の大きな碑があります。これがどの方角を向いているかというと、水戸の方角を向いて建てられております。丁度その石碑が向いている方角を辿って行くと水戸なのです。そして水戸領の奥久慈の山々がそこに見えるという景勝の地であります。この広場になつている岡を当時は常磐ヶ岡と言ったそうであります。こういう所に武茂郷の、後の馬頭町の人達の温かい、そして熱い真心があったということに私は驚嘆するわけであります。又これに就きましては今年十月に発行された『水戸史学』第四十一号に拙い文章を書きましたので、興味のある方はそちらを御覧下さい。次の文がその「紀恩之碑」文です。
つまり、先程申し上げましたように、明治四年十一月の廃藩置県で分れてしまったことを言っています。続きですが、
水戸藩政時代に郡制改革が行われ、その時に武茂郷というのはあっちにいったり、こっちにいったり、支配が転々とするのです。郡制が変わったことを、これは言っているわけです。
義公が始められた仁政を烈公は更に拡大してその功績は一気に広がりました。
武茂郷にも、馬頭郷校文武館が作られております。
この烈公の改革は正に明治維新に匹敵するものがある。
以上、「紀恩之碑」、更に「仰景碑」、年表で整理してみますとほぼ同年代、明治三十年前後なのです。明治維新以後の政治、経済、社会混乱が落着きをみせ、文明開化と言われるような外国思想の流入のさなかにあって、ようやくこの日本人が脚下照顧、日本の歴史と伝統に誇りと自覚を回復する中で、行われた事業であると言ってよいと思います。それにもましてこの事は、本題でもある烈公の改革と水戸藩、義公以来の水戸藩政が一つの理想に向かって邁進して行ったということ、そしてその中で数多くの悲劇を生みながらも王政復古、維新の貴い礎となったことを考え併せますと、非常に感慨深いものがあります。水戸藩の立場というのは『論語』の中に出てまいります「身を殺して以て仁を成す」で、この言葉に水戸の悲劇と理想は語り尽くされていると思います。
 今年は弘化甲辰の国難から丁度百五十年、筑波山挙兵からは百三十年、そして常磐神社の御鎮座から百二十年という意義深い年でございました。本年度のまとめの講座と致しまして、話が縦横に飛び、まことにまとまりのない内容でありましたが、私の意のある所をお汲み取り頂ければ幸いでございます。長時間にわたりご静聴頂き、誠に有り難うございました。以上をもちまして私の話を終わらせて頂きます。失礼致します。
            (平成六年十二月四日講座)
            (茨城県立那珂高等学校教諭)




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