以前『教科書への介入はスルーなのにVTuberへの「批判」は「弾圧」扱いして騒ぐオタク共のどうしようもない愚かさについて』を書いたときに、気になってはいたけど検討しきれなかったところを今回は触れていきます。
 それは、自由戦士がVTuber批判に対応するときに、全く関係のない「VTuberの身体性」なるものを持ち出してしまうという問題です。
 BBCは、VTuberの魅力について、「個人的なことやアイデンティティの問題に拘束されないこと」(BBC「The virtual vloggers taking over YouTube」)と紹介しています。現実の年齢や性別、容姿や障害・疾病の有無にかかわらず、自分がなりたい外見になれるこのVTuberの世界は、現実世界の私たちの肉体を束縛するセックスやジェンダーを越境して、自由に羽ばたくことができる空間なのです。
(中略)
 現実の肉体の年齢や性別を超えて、まったく異なる理想の身体になるという、新しいセクシュアリティを獲得した人々の意思と想いがこもったこの新しい文化に、「女性差別」のレッテルを貼りつけ、踏みにじろうとしているのです。
(中略)
 4.自らの肉体の年齢や性別と異なる姿になり、自らの意思によってその服装や肉体の在り方を決定するというVTuberという存在について、LGBT、特にクロスドレッサーの人権の観点から、どのようにとらえているかお答えください。
 全国フェミニスト議員連盟宛抗議と公開質問状

関係のない論点

 まず、2つの前提を確認しておきます。1つは、彼らが別にセクシャルマイノリティの人権に興味がないという点です。これは、彼らがVTuberへの批判を茶化すためにしかセクシャルマイノリティを持ち出さないこと、彼らが主に支持する自民党などの右派政党がセクシャルマイノリティの人権に冷淡であること、彼らと接近している統一教会もセクシャルマイノリティの人権を認めていないことなどから明らかです。

 というか、本当にセクシャルマイノリティの人権に興味を持っているなら、こんな間抜けな文章を書かないだろうと断言することもできます。まぁ、1つ目の前提はおまけみたいなものですからこれくらいにしましょう。

 2つ目の前提は、VTuberの表現が行政の広報に妥当であるかどうかという議論において、VTuberの身体性は全く関係がないということです。これは言うまでもないことかもしれません。フェミニスト議連の抗議を読めば明らかでしょう。フェミニスト議連が注目しているのは、あくまで広報動画に使用されたVTuberモデルの服装や表現です。中身が誰であるとか、そういう話は一切していません。

 反論者は署名で、VTuberは好きな外見になれると指摘しています。しかし、批判を浴びているのは、まさにその「好きな外見」になった結果、行政の広報という極めて公的な性質を持つ動画内で、不自然に胸を揺らしまくるという非合理的で意味不明な性的表現を用いてしまったことなのです。

 仮に、今回問題となったVTuberの中身が男性であり、氏は既存のジェンダーを超えて女性の身体を持ったVTuberになったのだとしましょう。でも、今回の批判にそんなことは一切関係ありません。批判の要点はあくまで、広報において、未成年の女性の身体あるいはそれを模したものを、過度に性的な要素を持つ道具として用いたことです。この「用いる」というのが重要なのであり、故に、用いられたのが実在のモデルであってもアニメであっても3Dモデルであっても、極端な話着ぐるみであっても、同じような意味付けで用いられたのであれば同じように批判されただろうというだけにすぎません。

 今回の批判に対しVTuberの身体性を持ち出すというのは、例えれば、寿司屋で食べたオリジナル創作寿司で食中毒になったとクレームを付けたらその寿司の斬新さを滔々と説かれたというようなものです。重要なのは寿司屋の出したもので食中毒になったという結果であって、寿司が作り出された過程ではありません。もちろん、寿司ネタが生魚であろうが野菜であろうが肉であろうが、食中毒になったという結果が変わるわけでもありません。寿司職人の性別も当然関係ありません。

メタ的な視点の欠如

 こうした議論は極めて自明のものであるにもかかわらず、署名に賛同した人々は全く気付いていないようです。あまりにも的外れな議論であるがゆえに、フェミニスト議連がこの署名を無視したとしても文句のつけようがないのではないかというほどなのですが、ではなぜ、彼らはこんな不必要で意味不明な議論を持ち出してしまったのでしょうか。

 ここからは推測するほかないのですが、いくつか仮説はあります。そのなかで個人的に有力だと思っているのが、メタ的な視点の欠如により、彼らは本気で「女性のモデルを使用すれば女性になれる」と思っている節があるのではないか、ということです。

 まず、これも前提を確認しなければなりませんが、別に女性の3Dモデルを使ったところで、女性になれるわけではありません。馬鹿にするなと言われそうですが、彼らはその時点でわかっていないのではないかという節があります。

 というのも、署名には「女性の活躍」という観点からの非難も入っているからです。これはVTuberの所属事務所の経営者が女性であるという意味もありますが、文章を読む限り、VTuberが「女性型(あえてこう表現するが)」であるという意味あいもあるように読めます。つまり、女性型のVTuberの活躍の場を奪うのは女性差別であるという主張です。
 さて、あなた方は「セーラー服のような上衣で、丈はきわめて短く、腹やへそを露出している」「体を動かす度に大きな胸が揺れる」「下衣は極端なミニスカート」などと、あたかも学校の生活指導教諭のようにVTuberの服装や体型を細かくチェックしたうえで、「性的対象物」だと決めつけ、国際女性差別撤廃委員会が言うところの「固定観念と有害な慣行」に当たるとし、「公共機関である警察署が……採用することは絶対にあってはならない」と断定し、抗議されました。
 しかし、服装や体型を理由に、「性的対象物だ」とレッテルを貼り、公共の場から追い出そうとするあなた方の活動は、本来、フェミニズムが擁護すべき、女性の多様な在り方と自由を称揚する立場とまったく矛盾するものです。
(中略)
 3.あなた方の抗議活動は、「株式会社 Art  Stone Entertainment」やVTuberを運営するクリエイターの公共空間における表現活動の場を奪い、経営者である板倉節子氏をはじめ、女性の自己表現の機会を潰す結果となっておりますが、そのことについて、女性活躍推進の観点からどのようにお考えか、お答えください。
 これはあまりにも馬鹿げている主張です。VTuberは女性そのものではないし、むしろその3Dの使われ方が女性差別的であると指摘されているからです。仮に行動の主体が女性だとしても、その振る舞いがほかの女性を差別するものであれば、女性差別として批判されるのは当然のことです。ただ、今回取りざたされたVTuberの中のジェンダーは知りませんが、仮にシス男性だったとしても、彼らは「女性」差別だと表現したでしょう。

 まぁ、彼の文章が下手くそすぎて、経営者を主語とする文章とVTuberを主語とする文章が渾然一体としているという可能性もありますけど。

 さて、私がメタ的な視点という概念を持ち出したのは、従来から、彼ら表現の自由戦士が表現を理解する際に、「表現から一段上に立った理解」を全くできていないと思われるからです。言い換えれば、表現個別の理解ではなく、無数の表現が社会に存在するが故の影響を理解できないということです。

 メタ的な視点の欠如は、まさに、今回のフェミニスト議連の批判の理解も阻んでいます。議連の抗議は、要するに警察という権威が未成年を性的に扱う表現を公開するという「メタ的な」影響を指摘しています。しかし、自由戦士はそうした視点を持ちえないので、民間の行った表現と単純比較して「こっちだけ批判するのはおかしい」とか言い出すのです。

 あるいは、今回問題となった表現は広報として「使われている」点も問題なのですが、こうしたメタ的な理解も彼らはできていません。つまり、自発的にそういう服装をすることと強制して服装を決められることの区別もつかないのです。なので、今回の批判を行ったフェミニストを、女性の服装に強制を持ち込むタリバンと一緒くたにしてしまう馬鹿げた議論を平気で行ってしまうのです。

 こうしたメタ的な視点の欠如は、おそらく「女性の体であること」と「女性の見た目をしたモデルを使用すること」の区別も難しくするのでしょう。このために、「女性の見た目をしたモデルを使用」したVTuberへの批判が女性差別に見えてしまうのです。

Vになれば本当に身体性を超越できるのか

 少し議論が外れますが、そもそも署名が前提としている、3Dモデルによって好きな外見の自分になり、そのことで身体性を超越できるという考え方自体、妥当であるか疑問があります。

 まず、当然のことですが、3Dモデルを使用した外見の変化はあくまでヴァーチャル上での現象にすぎず、それは限られた場面での変化にすぎません。ヴァーチャル以外の場面では、あるいはヴァーチャルで演じていたとしても画面外にいる自分は、相変わらず自分自身の身体を持っているのであり、そういう意味で別に身体性を超越しているわけではありません。

 3Dモデルを使用することで、本来自分が得られない身体性を「体験」することは可能です。アカウントの名前を女性にすることで、普段女性がネット上で受ける嫌がらせを体験できるように、あるいは、目隠しで歩く体験をすることで視覚障害者の苦労を味わうことは可能です。しかし、それはしょせん断片的な体験にすぎないことは自覚されるべきです。視覚障害者の苦労を体験したところで、視覚障害者の利益を漏れなく代弁できるわけではありません。体験には限界があります。

 前述のように、自由戦士たちはメタ的な視点を欠いています。そのため、「女性の体であること」と「女性の体を体験すること」の区別がついていない可能性があります。そういう理解のために、女性のかたちをした3Dを用いさえすれば簡単に身体性を超越できると勘違いしてしまうのではないでしょうか。実際には、そこで起こっている超越はあくまで限定的なものにすぎないにもかかわらず。

差別を固定化する「超越性」

 危険なのは、こうしたあまりにも安直な「超越性」の理解により、かえって旧来の身体性やそれに基づく女性差別が固定化されかねないということです。

 もっとも単純かつ極端な懸念が、彼らが3Dモデルによって女性の身体性を簒奪すること(つまり、あえて口汚い表現をすれば、3Dモデルを用いて女性に成りすますこと)により、女性差別であるという告発を「棒」のように振り回して気に入らない批判を潰しにかかるということです。まぁ、これは極端にすぎる懸念ではありますが、署名の書きぶりを見るにあながち馬鹿にできない懸念でもあると思います。現に、Twitterアカウントでフェミニストになりすますミソジニストはさほど珍しくないですし、高市早苗が総裁選に出馬するにあたって、女性を支持しないのはフェミニストじゃないなどという噴飯ものの主張も飛び出しています。

 もちろん、こうした議論はあまりにも馬鹿げていますが、「少なくとも外見は女性である」という強力なわかりやすさが悪い方向に作用する可能性もあります。ただでさえまともに理解されにくいフェミニズムにあって、ミソジニストがぱっと見のわかりやすさを手に入れることはマイナスでしかありません。

 もう少し現実的な懸念は、彼らが3Dモデルを旧来の女性ステレオタイプ的に用い続けることで、女性表象がステレオタイプ的なものに寄ってしまい、そのことでかえって女性の身体性を硬直化させてしまうというものです。例えば、女性型のVTuberの3Dモデルは、その多くが肩出し、腹出し、ミニスカート、美少女という典型的なものになっています。

 これはある程度やむを得ない側面もあります。わざわざ女性の身体を纏おうとするのであれば、誰しもがあこがれそうな女性表象(ステレオタイプ的美少女)が選ばれる可能性はどうしても上昇するでしょう。まぁ、個人や民間が行うのであれば、批判はあったとしても個人の好みの範疇であるということもできます。

 しかしながら、そうした側面がある以上、3Dモデルによる身体性の超越は極めて限定的なもの(例えば、男性が女性に代わるという程度のもの)であると評価せざるを得ません。また、そうしたステレオタイプ的な表象を公的な場で用いるのであれば、それ相応の配慮や注意は必須となるでしょう。

 VTuberによる身体性の超越は、このように考慮すべき観点が多く存在するはずです。そうした観点を一切無視し、見た目が女性になるから身体性の超越だというのはあまりにも粗雑な議論です。もう少しよく考えるべきでしょう。