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自分を認められない自分を認める
当エッセイの説明で、「趣味や仕事をしていて感じたこと、考えたこと、思いついたことをこちらに纏めていきたいと思います」と書きましたが、私は本作品にて、あまり仕事について触れたことがありません。
仕事に関することを書こうとすると、どうしても愚痴のようになってしまうんですよね。仕事をしていて楽しい、と思えることが殆どないので、必然的にそうなってしまいます。おそらく、世の中で最も需要のない話のひとつでしょう。友達や家族、後輩、部下などに仕事に対する不満をぶつけるような人間には、絶対になるな、と常日頃から自分に言い聞かせています。友達も家族も親しい後輩も部下も、私の周りに存在しないので、有言実行できていますね。
私は、どちらかというと短気な人間で、なにか間違いを指摘されるだけで心底落ち込みますし、誤解されると非常に腹が立ちます。上司に仕事のミスを咎められると、その日は満足に作業ができません。大学生の頃、公務員試験の筆記対策のために、毎日図書館へ通っていたとき、母親に「また遊びにいくの?」と尋ねられたことがあります。その瞬間、私は母に対して純粋な殺意を覚えました。誇張ではなく。
自分が感情的な人間であることを、私は長らく認めることができませんでした。他人の言動や行動に振り回される自分が嫌いでした。なので、大学生の頃の私は、他人に影響されない人格を構築しよう、と色々研究していました。「趣味を本当に楽しむことができれば、他人なんて気にならなくなるのではないか」「理性的な思考を続けていれば、いずれは理性的な人格になるのではないか」と仮説を立てては実行し、憧れの傍若無人な人格を目指しました。
しかしながら、いま現在、私が他人の顔色を窺う人間であることからわかるように、いつまで経っても自分の人格、性格が変わることはありませんでした。社会人になる頃には、いかに自分を変えるか、ではなく、いかに自分を認めるか、という思考に変化しました。変えられないものを変えようとするより、自分の性質と上手く付き合っていこう、と考えたのです。
そして、これは私の悪い癖なのですが、なんでもかんでも極端に考えてしまうところがあります。自分を認める、という方針を決めてから、私は自分のすべてを自覚しようと躍起になっていました。見たくもない自分の負の側面を強引に見つめ、言語化しました。さらに、認めたくない、と考える自分をとにかく責めました。押し殺そうとしました。自分を認めるために、自分を認められない自分を認めないようにしているので、これはもう矛盾ですね。馬鹿だなぁと思います。
自分の性質、能力を無視した極端な実行でしたので、私はそのストレスに耐え兼ね、ついに「自分のすべてを自覚しなければならない」という価値観は崩壊しました。今では、可能な限り自分の内面を自覚することをモットーに、のんびりと日々自分を研究しています。
私が極端な思考に陥りやすいのは、おそらく、自分への不信がその原因なのではないか、と今思いつきました。やはり、極端な思考は、わかりやすくて考えやすいため、臆病な私は理屈に縋りつきたい一心で、ついつい極論を信じたくなってしまうようです。思い返すと、これまでの人生で私を苦しめてきたのは、その殆どが自分の内向的な性格が原因となっているような気がします。
今回に限らず、これまで私のエッセイでは、自分の内向的な性格に対する自虐を重ねてきましたが、そういった自分への不信、言い換えると自己肯定感の低さ、これが負の側面しか持ち合わせていないのか、と問われると、そうでもないんですよね。たとえば、私が普段から行っている創作活動では、創作を通じて満足を得ることを目的としていますが、この「満足」とは、「こんな私でも、こんな素晴らしいものを生み出すことができるのか」という感動のことを指します。この感動は、自己肯定感の低さによって湧き出ているところがあるため、もし、私が自信満々、新進気鋭、傍若無人な性格になってしまうと、おそらく、創作活動を楽しめなくなってしまうような……、そんな気がします。生きがいと生きやすさ、どちらをとるかのトレードオフですね。
ならば、結局どうすればいいのでしょう。私は、未だに結論を出せていません。どうするのが正解なのか、そもそも正解なんてあるのか、また、結論を出すことに意味があるのか……。結論を出したところで、その結論どおりに自分を変化させるのは、今までの経験上、おそらく、不可能なんじゃないかなぁ、と思うんですよね。仮に、明るい性格になることが正解だと仮定して、では、その正解どおりに自分の性格を矯正することができるのか、と考えると、やはり、難しそうです。もし可能だとしても、明るい性格になりたい、と私が思えなければ、性格を矯正するための努力をすることができないでしょう。都合の悪いことに、感情は出そうと思って出せるものではありません。「元気出せ!」と自分に言い聞かせて、元気は出てくるものでしょうか。「気にするな」と自分を慰めるだけで、人は思い出したくない過去と決別できるでしょうか。少なくとも、私には無理です。同じように、「性格を変えたいと心から思え」と自分を叱咤したところで、感情が言うことを聞いてくれるとは思えません。感情とは、欲求とは、恐怖とは、もっと偶然の要素が強く、自分の意思の外側の要因によって発生し、逓減し、左右されるものではないか、と私は考えています。
つまるところ、私は私に振り回されているだけなのではないか、と思うんですよね。遊びも勉強も仕事も、自分の意思とは関係なく、自動的に湧いてきた感情に従って実行しているに過ぎない気がします。理性によって自分を支配している、と感じることはありますが、その理性すら、「自分を制御したい」という非自発的な欲求に基づいた働きなのではないか……、と思ったり、思わなかったり……。
今回書いたエッセイの内容、だいぶ攻めている、と自己評価しています。遠い未来、このエッセイを読み返したとき、果たして私は過去の自分の理屈に同意することができるのか否か……。数か月まえに書いたエッセイですら、読み返すと「ん?」と引っかかったり、「うわぁ」と赤面したりするので、不安ですね。黒歴史にならなければいいのですが……。性格や人格はちっとも変わりませんが、感じ方、考え方、価値観、評価基準はドンドン変わるようです。
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