見ざる聞かざる言わざるをせざるを得ず

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見ざる聞かざる言わざるをせざるを得ず

最近、ちょっといじりすぎだぞ、と自分に警告するぐらいにはスマートフォンを触り続けています。 スマートフォンで行うのは、主に動画鑑賞で、ほかには、たまーにチェスのオンライン対戦をします。 ちなみに、チェスはめちゃくちゃ弱いです。対戦中、思いついた手を深く吟味することなく指すのですが、たいてい、なにかしらの欠陥のある作戦であり、結果的に、それが敗因になる、といったことがしょっちゅうあります。まるで私の人生みたいだなぁ、と思います。 今回のエッセイで話の軸となるのは、動画鑑賞に関することです。 動画鑑賞、と格好いい言葉で飾っていますが、ようするにYouTubeを見てるだけです。 動画のジャンルは、ペット、建築、植物、生物学、歴史、科学、食べ物など、幅広く視聴していますが、一貫して、自分の生活の役に立たない、雑学のような情報を求めている気がします。 生活の役に立つ動画は、なぜか楽しむことができないんですよね。おそらく、「しっかり見ないといけないぞ」と思うと、自分の中で義務感が生まれてしまい、それが楽しさの妨げになるのでしょう。 私は、無駄な知識を大切にしています。浅く広い知識は、創作において最も重要である「発想」の役に立ちます。 発想は、遠く離れた点と点を繋ぐ作業です。あればあるほど良い、というわけでもありませんが、知識の多さは、間違いなく発想の幅に恩恵をもたらすでしょう。 役に立たない情報を求めているのに、結局はそれが役に立つという……、これは矛盾でしょうか? 動画鑑賞をしているときは、「これは発想の役に立ちそうだ」なんてことは一切考えていません。ただ見たいから見ているだけです。 それが役に立つのが、なんとなく不思議な気がしましたが、よく考えるとべつに矛盾はしていないですね。なにが不思議だと思ったのか、それが不思議です。 話がズレました。YouTubeの話に戻ります。 私は、動画の感想を共有したくて、コメント欄を見ることが結構あります。 そして、コメント欄を閲覧すると、必ずひとつは不快なコメントがあって、そこそこ腹が立ちます。 「どうしたらこんな的外れなことを言えるんだ……」 「否定したい気持ちを理屈で正当化しているだけだ!」 「こいつは構ってもらうためにふざけたコメントをしているに違いない。寂しい奴だ」 などなど、いろいろと発言者を攻撃したい気持ちが湧いてきて、猛スピードで理屈を構築し、コメントを返信しそうになりますが、グッと堪えて、私は自分を分析します。 自分は、今、なにを感じているか。 (もちろん、怒ってる!) なぜ怒っている? (それは……、やっぱり、動画の感想を共有したいのに、それを邪魔されたから……) それだけ? (えっと、あと、自分と違う感じ方・考え方をする人がいると不安になるから、否定したくなるのかも) ほかには? (うーん……、ほかには……) ……と、そんなふうに頭の中でゴチャゴチャ考えていると、気がつくと冷静になっています。 冷静になると、さきほどまで怒りしか感じなかったコメントに対する感想も、また違ったものになります。 「よく見ると、一理ある考え方かも」 「自分の気持ちすら把握できていなかったのに、他人の気持ちなんてわかるわけないよね」 「どう考えても寂しい奴なのは私だ」 自分の感情を言語化すると、なんとなく、自分を支配できているような幻想を抱くことができ、安心するので、短期的に自分を落ち着かせる効果を得られます。 この自己コントロール方法は、かなり実践的なものではないでしょうか。私は頻繁に利用しています。もちろん、限界はあります。落ち着け、と自分に言い聞かせることすらできない状態では、まったく歯がたちません。また、言語化できない感情も中にはあります。 上に書いたのは、心理的に自分をコントロールする方法でしたが、ほかに、物理的に自分をコントロールする方法があります。 たとえば、不快な思いをしないために、そもそもコメント欄を閲覧しない、といったものです。こちらの方法のほうが遥かに確実ですし、多くの人が採用していると思います。 公務員試験の筆記対策をしていたときは、この物理的な方法をよく利用していました。 大学3年生の夏休み。国家公務員を志望する人の半数は、1日5時間以上の勉強をしている時期です。 私は、この勉強に非常に苦しみました。もともと、あまり自己管理できる人間ではなかったので、家にいると、ついつい自分の趣味に手をつけてしまいます。「遊びたい」という気持ちに「勉強しないと」という気持ちが負けてしまっている状態ですね。 なので、私は勉強道具を持って毎日図書館に通いました。 図書館の自習席に座ると、まず、遊ぶ道具がないので、遊べなくなります。遊べなくなると、遊びたい、という気持ちはほとんど湧かなくなります。 すると、遊びたい、という気持ちに、勉強しないと、という気持ちが勝るので、勉強に集中することができるのです。無理やり単純化すると、家で勉強できないメカニズムはこんなものではないでしょうか。 以前通用していた理屈が、1年後には通用しなくなることがあります。 逆に、今まで通用しなかった理屈が、突然通用するようになることがあります。 これらは、自分と環境の変化に起因する現象なのではないか、と思います。説明するまでもなく、私たちは日々変化しています。成長なのか退化なのかはわかりません。なにもしなくとも老化はするのです。 条件が変化すれば、当然、目的を達成するための手段も変化します。今まで成立した方法が、ある日を境に無意味なものになったとしても、可笑しなことではありません。 なので、問題の解決において重要なのは、方法や手段に拘ることではなく、方法や手段を考えようとすることではないか、と思います。 まぁ、これは理屈ですね。 それが誰でも出来るのなら、誰も苦労はしないのです。 社会に生かされていながら、社交性を持たない矛盾した人間も、ここに1人いますしね。
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