自意識超過剰

1/1
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ

自意識超過剰

最近、私は自分のエッセイを読み返しているのですが、少し気になったことがあります。 それは、ちょっと自分の綺麗なところばかり書きすぎてるな、という反省です。 エッセイだけ読むと、私は、なんだか毎日楽しいことばかりで、人生充実!元気いっぱい!嫌なことなんてない!そんな薔薇色の人生に見える人も……、まぁ、もしかするといるかもしれません。 もちろん全然そんなことはなく、ちゃんと嫌なことはありますし、世間一般的には薔薇色でもなんでもないですし、どちらかというと、私は元気とは正反対に位置する存在であると自覚しています。 なので、今回は、私の負の側面、あまり人にお見せできるものではない部分をクローズアップして書いていきたいと思います。果たして、そんなものに需要があるのか否か……。 道を歩いているとき、若いカップルや、同世代の幸せそうな夫婦とすれ違うと、私は思わず目を背けてしまいます。 どういうわけか、老夫婦の場合は、ただ微笑ましいだけで、とくに何も感じません。そこらへんは、まだ自己研究が済んでいない分野のようです。 それで、カップルから目を逸らす理由なのですが、それは、嫉妬によってもたらされる反応ではありません。 嫉妬が理由ではない、と言うと、かなり高い確率で「強がり」と指摘されることが予想されますが、そうではありません。同性の複数人のグループとすれ違うときも、同じ反応をするので、おそらく、これは確かなことだと思います。 それで、私が目を逸らしてしまう理由はなんなのかというと、「可哀想だと思われたくない」、という劣等コンプレックスにも近い願望が、その正体ではないか、と思われます。 昔から、私は自分に自信がありませんでした。先天的な内向的性格であり、これは、これまでもこれからも変わらない、と半ば諦め、半ば安心の感情で認めています。 自信のなさは、即ち失敗への恐怖であり、発言をするにせよ何にせよ、いちいち怖がり、恥ずかしがる、そんな臆病な人間が、今の私です。もちろん、私という人格を構成する要素は、これだけではないですが。 そんな臆病な私がなにより恐れるのが、自分の人生を否定されることです。 お前の孤独な生き方は間違っている、もっと人と関わりを持つべきだ、と言われることを想像するだけで、頭がクラクラするような感覚がしますし、すぐに様々な理屈を組み立てて自分を防御し、発言者を攻撃しようとします。 やはり、自身の生き方を否定されると、強い不安感に襲われてしまうようですね。 そういった不安感から派生して生まれたのが、「可哀想だと思われたくない」という願望です。 可哀想だと思われるということは、少なからず私の人生の否定・批判に繋がる側面がありますので、断固として拒否したいわけです。 なので、社交的、外交的な人生を送っていそうな人とすれ違うとき、不安から自分を守るために、対象を物理的に視界に入れないようにするのでしょう。つまり、目を逸らしてしまうのですね。 もちろん、道行く人がそんな「こいつ独りで寂しそうだな」なんていちいち思うわけがないことぐらい、重々承知しているのですが……、理屈が感情を支えることはあっても、感情が理屈に沿うことはないようですね。 自分をコントロールするのは、本当に難しいです。 仮にコントロールできたとしても、それは、「自分を制御したい」という欲求に振り回されているだけなのでは?そこに自分の意思はないのでは?と疑問に思います。 エッセイを書いていて苦しいと感じたのは、今回が初めてかもしれません。 読んでくれている人も若干引いてる気がしますが……、1000文字以上書いたので、もう投稿しちゃいます。 もしかしたら、1ヶ月後、このページだけ消えてるかもしれませんね。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!