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無欲の聖女は金にときめく 作者:中村 颯希

第三部(完結編)

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23.レオ、続きを語られる(前)

 この世のあらゆる物語には悪役が必要なように、この世のあらゆる宗教には、信仰の聖性を際立たせるための、負の存在がいる。


 精霊を慈愛の存在として仰ぐ精霊教において、闇の精霊というのがそれだった。

 そして、その闇の精霊を祀り、その心を宥め抑え込むことを旨としていたのが、ノーリウス・アル・エランド――エランドのために闘う者――の名を持つ一族であった。


 死の精霊すら、終末という慈悲を授ける穏やかな青年として描かれるのに、闇の精霊は、皺の寄った醜い老人として描かれる。

 彼は争いを好み、血を求め、穢れを喜び、この世のあらゆる(わざわい)を愛した。


 必然、闇の精霊を祀る一族の帯びる精霊力は禍々しさを帯びる。

 彼らがひとたび力を籠めれば、空気はよどみ、闇は凝り、人々は本能的な恐怖に身をすくませる――はずであった。


 今ブルーノに向き合うレーナにも、表面上は、笑みを浮かべる余裕があるように見える。

 しかし、よく目を凝らせば、その額には冷や汗がにじみ、握った拳は小さく震えていた。


(……可愛げがないというべきか、可愛らしいというべきか)


 レーナが聞けば憤死しそうなことを思い、ブルーノは静かに笑みを浮かべる。


 必死に虚勢を張る様子が、懸命に針を立てて威嚇してくるハリネズミのようで、ブルーノはふと体の力を抜いた。

 食べる以外の目的で小動物をいたぶるのは、悪趣味なことなのだと、レオに何度か諭されていた。


 急に緩んだ空気に、相手が一瞬緊張を解きかけたのがわかる。

 しかしレーナは、すぐにむすっとしたような表情を浮かべると、『なんのつもり?』と問うてきた。


『殺気をほいほい出したり引っ込めたりしないでよ。反応に困るじゃない』

『……安堵したなら、素直にほっとした顔をすればいいと思うが』

『べつに、ほっとなんてしてないわよ!』


 まったく、可愛らしいことである。


 ブルーノはひょいと肩をすくめると、いつもの淡々とした表情に戻って、焚火に枝を放り込んだ。

 先ほど闇の精霊力を使いかけたせいで、炎が怯えて縮こまってしまっている。

 叱った後の犬に大量の餌を与えるかのように、がんがん枝を投げ入れていくと、やがておずおずと炎が勢いを取り戻しはじめた。


『――で。いつまで中腰でいるつもりだ? 座るなり立つなり、態度を決めたらどうだ』

『……ちょっと待って? なんであなた、早々に通常モードに切り替わってるのよ。私の醸した緊迫感がものすごく滑稽じゃない? さっきの緊張状態はどこにいったのよ。私はこの振り上げたこぶしをどこに収めればいいわけ?』


 ぶつぶつと零された不平を「知らん」と一刀両断すると、レーナはもの言いたげな表情になり、次にむっと口を引き結び、やがてその場に座りなおした。


『……あなたの、その掴みどころのない態度は今に始まったことじゃないけど。今回については、話してくれる気になった、って理解でいいわけ? ブルーノ――いえ、ブルドゥルさん』

『その名は捨てた。ブルーノでいい』


 短く答えると、相手は「そう」と呟いて、押し黙った。おそらくは、どう話を進めたものか考えているのだろう。


 尋問はすこぶる得意なくせに、会話となると、とたんに不慣れ。

 こちらが拒絶をやめたら、急に弱腰になってしまったレーナを、ブルーノは愉快な気持ちで見守った。


 おそらく、レーナの性質は、レオよりもよほどブルーノに近い。

 しかしブルーノからすれば、レーナもレオも、等しく善良でいたいけな魂の持ち主だった。


『――尋ねておきたいんだが、レーナ。おまえは、俺の身の上話なんぞ聞いてどうするつもりだ?』

『別に、どうするつもりもないわ。知りたいから聞く。それだけ』


 ほかになにがあるの、と眉を寄せるその顔に、嘘の色はない。

 彼女は軽く口元を歪めると、付け足した。


『目の前に未解決の謎があるのって、我慢ならないのよ。聞いたら満足する。というか、たぶん人道的に介入したほうがいい事情だったとしても、聞くだけ聞いたら放置するわね。私は知りたいだけだから。……こういうの、異常って言われるかもしれないけど』

『いや。その、関心ごととそうでないことに偏りがある感覚は、よく理解できる』


 ブルーノは、『それに、そういう態度のほうが、俺としても話しやすい』と言い加え、レーナに向き直った。


『レオには黙っておいてくれるか』

『……話してくれるってわけ?』

『どうせおまえのことだ。今ここで聞き出せなければ、俺が話すまでしつこく追及するだけだろう。――別に俺としては、レオにさえ伝わらなければ、隠し立てする気もない』


 問うような視線を送ると、レーナは無言で頷いた。


 ブルーノはしばし揺れる炎を見つめて、どこから語るべきかを考える。

 やがて、小さく火が爆ぜたのを合図に、ぽつりと話しはじめた。


『……おまえも知っての通り、俺の父親は、エランドの王弟にして闇の精霊を祀る氏族の頭領でな。その精霊の性質に見合って欲深く、多くの妻を囲い、子を設けていた。そのうちのひとりが、俺だ』


 誰かに生まれを話すのは、これが初めてだった。

 ブルーノは、過去の記憶を引っ張り出すように、そっと黒い瞳を細めた。


『父は権力を求め、その妻たちは正妻の座を求めて、常に争っていた。父は、兄である王の一族に、護衛として我が子を差し出すことによって、忠誠心を証明し、また権力の中枢に近づこうとした。妻たちも、こぞって我が子を差し出した。そんな中で、俺はたまたま、当時の……第三王子だったかな。サフィータという名の従兄のもとに、護衛として付くことになった』


 護衛といっても、武術が求められるわけでもない。

 ブルーノに与えられた役割は、単なる肉の盾だった。

 サフィータが攻撃されたときには、その代わりに彼の体を覆い、呪いを受けたときには代わりにそれを引き受け、毒を含むかもしれない料理を口にする。


 サフィータや、王子たちの周囲には、そんな「護衛」――つまり、ブルーノの異母兄弟が何人も配置されていた。


『だが、ひとり欠け、ふたり欠け、と、その人数は徐々に減って……気付けば、サフィータ様付きは俺一人になっていた。そうなるまでに、俺は、矢を避け、剣を躱す(すべ)を覚え、毒を見分けることを覚えた』

『…………』


 リヒエルトの下町で起こる「小競り合い」程度に、ブルーノが負けたことがないのは、そのためだった。

 あんなもの、まさに児戯に等しい。


 淡々と語ったつもりだったが、しかしレーナは苦いものを含んだような顔をした。


『……なぜ、逃げ出さなかったのよ。あなたなら、そんな境遇を投げ捨てることだって、――いえ、そもそも拒絶することだって、できたでしょう?』

『……そうだな。なぜだろう。最初はたしか、母に褒めてもらいたかったとか、そんな理由だった気がする。俺がサフィータ様を守れば、父は王に感謝され、母は父に感謝されたから』


 もう、あまりに遠い昔のことだ。

 そのような淡く、愚かな感情は、もはや思い出すのも難しかった。


『ただ、毒に倒れ、剣で肉を裂かれ、そこから回復するたびに、そういった思いも薄れていった……と思う。最後のほうは、自分でもよくわかっていなかった。ただ、誇りあるエランドの王子のためにこの身を犠牲にすることは、闘う者(ノーリウス)の名を持つ者には最高の名誉なのだと、そう思っていた……いや、刷り込まれていたのかもしれない』


 そのあたりの記憶は、曖昧だ。

 あまり、思い出したいものでもなかった。


『……「命をかけてあなたを守ろうとした親」じゃなかったの?』


 レーナが、話が違うとでも言うように、低く呟く。

 なぜか彼女の――もともとは親友のものだった鳶色の瞳は、まるで、ブルーノの代わりに彼女が傷ついたとでもいうように、揺れていた。


 ブルーノには、それには答えず、薄く笑みを浮かべた。


『……だが、俺のそんな生活は、ある日突然終わった。欲に溺れすぎた父が、愚かにも闇の精霊の力を使ってヴァイツを攻撃しようとしたんだ。しかし、強大だったヴァイツ軍にあっさりと大聖堂を占拠されて、エランド側は早々の降伏を決めた。というより、戦争もなにも、父の暴走が原因なわけだから、向こうとしてもいい迷惑だな。当時のエランド王は、自ら弟とその一族を粛清してみせることで、ヴァイツからの許しを請うた』


 ヴァイツ側としても、宗教的聖地であるエランドを、徹底的に蹂躙することは得策ではないと考えた。

 結果、エランドは、王弟の一族の命と引き換えに、自治領としての権限を保つことを許された。


『だがここで問題になったのが、「王弟の一族」の区切りだ。父の妻子はあまりに多すぎた。そのほとんどは、この戦に無関係だ。それを誰彼構わず処刑することは、ヴァイツの矜持と世間体、そして精霊が許さなかった。……結果、処刑が決行されるまでに、エランドによる査問が行われた』


 誰が裏切り者の家族か。

 どこまでが処刑の対象か。

 審議は数日に及んだ。


 ヴァイツは寛容さを示すためか、エランドの決めた「王弟の一族」の定義(リスト)を、全面的に受け入れると告げていた。

 そのリストに載らないものには、一切の手出しはしないと。


 とたんに、それまでブルーノの父の寵愛を争っていたはずの妻たちは、一斉に掌を返しはじめた。

 自分たちはただの愛妾に過ぎない。その関係は精霊に認められたものではなく、ゆえに、永久の絆を約束するものではないと。


 そんな中にあって、ブルーノの母は、自分こそ男の正式な妻であると名乗りを上げた、数少ない女の内の一人だった。

 彼女は自ら罪人の衣をまとうと、男の傍らに駆けつけた。

 ――事態を飲み込めすらしていなかった、ブルーノを連れて。


『査問会場となった聖堂には、十の氏族の代表と、王の一族が並んでいた。俺はわけがわからぬまま跪かされ、伯父である王から、裁きが下されるのを待った。父は闇の精霊の力に溺れすぎてほとんど正気を失い、母はただうっすらと微笑んでいた。俺たちと、ほか数人の妻たちはあっさりと「家族」として認定されたんだが……退廷しようとしたとき、それまで無言で査問を見ていたサフィータ様が立ち上がったんだ。滑稽なほど、必死な顔をして』


 彼は叫んだ。


 ――待て、裏切り者の妻よ。おまえは、嘘をついている。


 そうして、その青灰色の瞳で、ブルーノの母親をぎろりと睨みつけた。


 ――今おまえの傍らにある、その子ども。

  おまえが差し出し、私の代わりに矢を受け、毒を含み、剣に肉を裂かれたその子どもは、おまえの息子などではない。そうだろう?


 その声は、びりりと聖堂内の空気を震わせるほどだった。


 ――そうだろう?


 義侠心に溢れた、わずかに幼さを残した声を聞き、ブルーノの母はぱっと顔を振り向けた。

 無言でサフィータを射抜くように見つめ、ついで、感情を窺わせない美しい顔で、じっとブルーノを見つめた。


 どれほどの間、そうしていたか。


 やがて彼女は飽きたように視線を剥がすと、ブルーノのほうを見もせずに告げた。


 ――仰るとおりです。


 女性にしては低く涼やかな声は、いつものように淡々としていた。


 ――これは、わたくしの息子ではございません。


『――……なんて……』


 レーナは、言葉を失った。

 懸ける言葉が見つからなかった。


 怒るべきか、傷つくべきか、たださらりと聞き流すべきか、どれが適切な態度かがわからなかった。

 ぐっと口を引き結んでいる彼女に、ブルーノは静かに続けた。


『……結局、その言葉により俺は「王弟の一族」の区分から外され、処刑を免れた。母親に救われる形で命を長らえたと言ったのは……そういう意味だ』


 後は、先ほどの話の通りだ。

 なにしろブルーノは、いらぬ戦を引き寄せた男の「縁者」だったから、エランドに残るほうこそ危険だった。

 だから都を逃れ、エランドが最も手を伸ばしにくいであろうヴァイツの首都にやってきた。


 母の伝手というのも、事実だ。

 ただ、息子ではないと公言されたのに居座る気かと矛盾を突かれ、追い出された。

 そして、ハンナ孤児院にたどり着いた。


 もしあのとき、母が「わたくしの息子だ」と叫んだなら、自分がどういう感情を抱いたものか、ブルーノにはわからなかった。

 単純に歓喜するというには、彼らの絆は綻びきっていたと思う。

 それよりは戸惑ったかもしれない。なにを勝手なと苛立ったかもしれない。

 母のその態度を、自分の中でどう処理してよいのか、結論できないままに日々を過ごしていた。


『だが……凍りかけた池にレオを突き落としたあの日、無意識に叫んだ内容で、俺はようやく理解した。俺は、あの言葉を――あの態度を、「命を懸けて息子をかばった」と捉えたがっていたのだと』


 おそらく、レオに出会う前のブルーノであれば、それを恥と捉え、否定にかかっていただろう。

 だが、レオが無邪気に、そしてまったく自分には無縁のものとして、ブルーノの親を褒めたのを聞いたとき、彼はそれをやめた。

 親の愛を求めていた自分を恥じることこそ、恥ずかしいことだと思えた。


 ぱち、と火が爆ぜる。

 辺りはすっかり夜の色が濃くなり、時折聞こえる獣の声も、まどろみを求めるようなものに変わってきた。


 ブルーノは、胡坐をかいた膝に頬杖を突き、憂鬱そうに話を続けた。


『――まあ、それで。かねてからの物思いにも整理が付き、かけがえのない友人や、孤児院での立ち位置も手に入れて。俺はそのまま、平々凡々とした孤児として、しばらくのほほんと、下町無双を楽しんでいたんだが……冬が極まり、日が最も短くなった頃から、少しずつ異変が起こっていった』

『……ひとまず、「のほほん」と「下町無双」間のギャップについては、突っ込まないでおくわよ?』


 最初は、声だった。


 ――足りぬなぁ。


 ある日、本当になにげない、ふとした瞬間、しわがれた男の声が聞こえるようになったのだ。


 ――足りぬ。足りぬなぁ。


 それは、陰鬱で、禍々しく、この世のあらゆる不穏さを詰め込んだかのような声だった。

 はじめに聞いたとき、ブルーノはレオと夕食の準備をしていた。


「――レオ。今、なにか、言ったか?」


 そこでブルーノは、傍らの友人にそう尋ねてみた。

 ヴァイツ語は、だいぶ流暢に話せるようになっていた。


「は? 言ってねえよ? あ、いや、言ってた? 『カネ欲しい』とかは、俺、無意識に呟いてるらしいけど」

「……いや。足りぬ、と、聞こえた」

「あん? じゃあ言ってねえよ、そんなこと。見ろよ、今日は大豊作だ」


 安く買い叩いたじゃがいもの山を突きつけ、友人はからからと笑う。

 ブルーノは怪訝に思いながらも、気のせいかと判断し、疑問を取り下げた。


 だが、声はそれからも、頻繁に響くようになった。


 ――足りぬなぁ。祈りが。これでは抑えきれぬよ。

 ――つまらぬ。

 ――禍が、ほしいなぁ。苦しみをほんのひと匙、恐怖をほんの一滴、舌の先に味わいたいものよ。


 たとえば、建物の柱の陰。陽を浴びる樹木の、その裏側。

 燃え盛る炎に揺らめく、黒い影。

 そういった、闇の凝った場所から、きまって声は聞こえた。


 ある夜のことだ。


 欲をかいたレオが、うっかり悪徳導師につかまりかけ、祈りの間の寝台に括りつけられていたのを救出した、その日。

 先にレオを帰し、きっちり導師を締め上げて、さあ聖堂を出ようとしたとき、それは起こった。


 ――なあ。おまえは、わしの名を継がぬのか。


 辛うじて灯っていた燭台の火が一斉に消え、同時に、精霊布が掛けられた祭壇の前に、ゆらりと人影が現れたのだ。

 青白い月光だけを手掛かりに、ブルーノが見分けたのは、皺の寄った醜い老人の姿だった。


「…………!」


 ブルーノはもはや脊髄反射で、壁にかかっていた燭台を掴みあげ、その人物のもとに投げつけた。

 燭台は祭壇に当たり、鈍い音を立てたが、ゆらりとそれを躱した老人は、陰気な笑みを浮かべるだけだった。


 ――ほう。威勢のいいことだ。だが、こうでなくてはならぬ。

  争いを好み、躊躇わず血に手を染め、暴力の甘美を理解するものでなければ。


 その言葉は、エランド語とも、ヴァイツ語ともつかない。

 直接頭が揺さぶられるような感覚と、その内容に、ブルーノは老人の正体を悟った。


『――……闇の、精霊……!』


 にたりと禍々しい笑みを浮かべて佇むのは、ブルーノの父が祀り、溺れた、闇の精霊にほかならなかった。


 彼は嘆かわしいとでもいうように首を振りながら、一歩、こちらに足を踏み出した。

 とたんに、周囲の闇が、そろりと蠢く。


 ――ああ。ああ! 愛すべき愚かなラドゥガル亡き今、その兄の一族(マナシリウス)は、光の精霊にしか祈りを捧げぬ。

 だが、今までいったい誰が、あの国を守ってやったと思っている?

 光の依り代が輝いていられたのは、わしが力を抑えてやっていたから。

 ラドゥガルらの祈りがわしの心を宥めていたからこそ、わしは珠を腐蝕させることもなく、おとなしくしておったというに。


 その言葉で、ブルーノは悟った。


 彼の父は、たしかに闇の精霊に溺れ、ヴァイツの土地まで欲しがるような愚か者ではあったが、その祈祷は、たしかに闇の精霊を宥め――エランドを守っていたのだと。

 王の一族がどれだけ光の精霊に祈りを捧げようとも、同時に闇の精霊を慰撫することができなければ、エランドや、その周囲は禍に蝕まれてゆくのだと。


 目を見開いたブルーノに、闇の精霊はおもねるように笑いかけた。


 ――のう、ラドゥガルの息子よ。おまえは、わしの名を継がぬのか。

  わしの名を寿ぎ、祈りと少々の血を捧げ、祖国を守りたいとは思わぬのか?


 しばし黙り込んだのち、しかしブルーノはかすれた声で告げた。


『……冗談ではない』


 自らの声に勇気を得て、彼はぎっと精霊を睨みつけた。


『俺はあの国に捨てられた。俺もあの国を捨てた。名前すらも。もはや俺には、精霊だのエランドだのにかかわる気は、かけらもない』


 それは、揺るぎない決意のはずだった。

 しかし、老人の姿をまとった精霊は、その気迫のこもった宣言をそよ風のように受け流し、にやりと昏い笑みを浮かべるだけだった。


 ――さて、どうかのう?


『……なんだと』


 黒い衣をまとった老人は、枯れ枝のような腕を広げ、歌うように告げた。


 ――光の依り代の腐蝕は、すでに始まっておる。

  祈りを捧げる者が誰もおらぬ今、制御を失ったわしの力が強まれば強まるほど、禍はこの大陸に満ちてゆくだろう。

  最初の死の灰はどこに注ごうなあ。

  残念ながら、光の都(ルグラン)は、光の精霊の守りが強すぎる。

  割を食うのは、貧しい土地であろうなあ。穢れの多い土地であろうなあ。


 たとえば、と、精霊は歯の掛けた口元をにやりと歪めた。


 ――そう。たとえば、おまえが住まう、……貧民どもの巣。


『なんだと……!?』


 ブルーノが声を荒げた瞬間、聖堂内に強風が吹き渡る。

 精霊布が一斉にめくれ上がり、燭台が音を立てて倒れた。


 咄嗟に顔をかばったブルーノが次に目を開けたとき、もうそこに老人の姿はなかった。



 そしてその日から――リヒエルトの下町に、伝染病が流行りはじめた。

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