ここのところ、表現の自由にまつわる問題がいくつか連続して噴出しました。そのことで、私がこれまで批判してきた「表現の自由戦士」の問題もまた噴出しています。
一言で言えば、どう見ても誤魔化しようのない弾圧には全く反応しないくせに、健全な批判には「弾圧」だと声を荒げて騒ぎ立てるというどうしようもない愚行についてです。
前者の弾圧については、主に2つの問題がありました。1つは、自民党の山田宏参議院議員が駿台予備校の歴史のテキストに歴史修正主義的な介入を行ったことです。
一方、後者の「健全な批判」というのは、千葉県松戸市のご当地VTuber(ヴァーチャルなのにご当地とはいったい?)の戸定梨香がコラボした交通安全啓発活動を全国フェミニスト議員連盟が抗議し、動画などが取り消されたという件です。これも詳細は後述しますが、本質だけ取り出せば、表現の自由によって妥当かつ穏当な批判がなされ、警察も表現の自由を行使して動画を削除することでこれに応じたというだけの話です。
しかしながら、例によって「表現の自由戦士」たちは弾圧だと騒いでいます。お話にならない低レベルな騒ぎですが、その筆頭に例のオタク区議荻野稔がいるので厄介です。
今回はその、頭を抱えるような愚行がどうして愚行なのか説明するという不毛な作業をします。
私は、これは手続きの正当性に集約されると考えています。これまで、わかりやすく単純に「強制力を伴うかどうか」だと説明していましたが、強制力をちらつかせる類の方法は基本的に正当な手続きによるものではないと考えることができます。
手続きの正当性という観点から、今回取り上げた事例を見てみましょう。まず、全国フェミニスト議連の抗議についてですが、これは公開の抗議文を関係各所に送付するという方法をとっており、特に問題があるとは思えません。というか、公開であるということがまさに手続きの正当性を担保することに繋がっているともいえるでしょう。裏でこそこそするのではなく、正々堂々と考えを伝えたわけです。
また、警察の活動は行政(あるいは準司法的なもの)ですから、(市議とはいえ)立法を担当する議員がこれについて意見を述べるのは、議員に本来期待されている仕事でもあります。そういう観点からも、抗議に問題があるとは思えません。
フェミニスト議連は強制力も別に用いていないでしょう。そのつもりがないからこそ公開のかたちで抗議したと思われます。悪いことするならこそこそしないといけませんからね。そもそも、女性議員かつフェミニストという日本では極めて少数である人々が振りかざせる強制力を持っているかは疑問ですが。それに相手は警察であり、よほどの強制力でなければ意味をなすかも怪しいところです。
一方、山田宏参議院議員の塾テキストへの介入は問題だらけです。そもそも相手は塾というまさに民間であり、ここに参議院議員が介入する権限も義理もありません。強制力を使ったかは定かではありませんが、裏でこそこそとやって結果だけ伝えていますから、よくないことをしたと思われても仕方がないでしょう。ここは推定有罪であるべきところです。
文科省の教科書介入はさらに問題です。というのも、この介入は維新議員の質問主意書から閣議決定を経てなされたものであり、報道が「異例」としているように通常の手続きから外れたものだと考えられるからです。また、教科書検定に合格しないということは教科書販売による収益をすべて失いかねないということであり、強制力を振りかざしていると考えて差し支えない状況です。
こう考えると、塾や教科書への介入は弾圧と呼ぶにふさわしく、一方VTuberへのそれは単なる批判であることがよくわかるはずです。
まぁ、それはさておいて、表面上同じような方法をとる場合でも、内容の妥当性によって正当性の評価が変わり、批判と弾圧の区別になるというのは事実であるように思えます。
で、まずフェミニスト議連の抗議を見ていくと、これは妥当であるというほかないという内容です。コラボしたVTuberが性的に強調された外見をしているのは紛れもない事実ですし、警察という青少年がかかわる性犯罪を扱うこともある組織がそうした表象を軽々に扱うべきではないのも事実です。どの程度の表現ならセーフでどこまで行ったらアウトなのかというボーダーラインこそ人によるでしょうし、人によっては戸定梨香くらいならセーフと考える人もいるかもしれませんが、とはいえ、戸定梨香をアウトだと考える人がいるのも当然であり、その理由も十分理解できるものです。
こういうわけで、フェミニスト議連の抗議は内容からして妥当なものであるということができます。注意すべきなのは、議連はあくまで警察とのコラボを問題視しているのであって、戸定梨香のその他の活動については何も言っていないということです。荻野はブログで、あたかも議連がアニメ全般に憎悪を燃やしているかのように印象操作をしていますが、これは典型的な藁人形論法でしかありません。
一方、塾のテキストや教科書への介入ですが、これは歴史修正主義に基づくものであり不当です。詳しく立ち入ることはしませんが、歴史学の常識はテキストや教科書の記述こそ事実であることを支持しており、これを否定することは歴史的事実を軽んじる行為です。
学問的な事実を書いたら攻撃される、という状況が正当なことではないというのはわざわざ説明するまでもないでしょう。
その最たる例は、山田太郎と仲良しの漫画家赤松健です。山田太郎以降漫画アニメ規制の話が出なくなった……というのが事実なのかがまず疑わしいのですが、仮にそうだったとして、直近に思いっきり教科書へ介入した問題があり、それ以前にもトリエンナーレへの弾圧などもあったにもかかわらず、そういう弾圧を行った政党を応援しようと呼びかけてしまえるのは、著しい政治的見識の欠如というほかありません。
総裁選に関しては、ごりごりの規制派である高市早苗が出馬するという問題もありました。まぁ、私は誰が総裁になっても自民党ならどんな規制もしかねないと思っているのでどうでもいいなとかまえていますが、流石に表現の自由戦士界隈もざわついています。
とまぁ、こんな風に筋金入りの自由戦士ですら危機感を覚えるレベルなのですが、このような状況ですら「山田太郎がいるから大丈夫」な戦士もいてほとほと呆れます。
もうね、ここまでくると「じゃあ規制されるほかないんじゃない?」と匙も投げたくなる。
この辺の詳しい考え方は『衆議院選挙に対する連合の暫定的方針-広く表現の自由を守るオタク連合』に書きましたが、まともではない政治家がオタクの大事な部分に限ってまともなことをするという奇跡を信じるより、総じてまともな政治家がオタクの大事な部分でも順当にまともなことをすると期待するほうが合理的だというだけの話です。
ですから、山田太郎がなんて信じちゃダメなんです。今年の衆議院選挙では自民党を徹底的に潰さなければいけません。
一言で言えば、どう見ても誤魔化しようのない弾圧には全く反応しないくせに、健全な批判には「弾圧」だと声を荒げて騒ぎ立てるというどうしようもない愚行についてです。
前者の弾圧については、主に2つの問題がありました。1つは、自民党の山田宏参議院議員が駿台予備校の歴史のテキストに歴史修正主義的な介入を行ったことです。
文部科学省は8日、「従軍慰安婦」や「強制連行」という表現は不適切だとする閣議決定を受け、教科書会社5社が6月末までに、高校の歴史教科書など計29点について、記述を削除するなどの訂正を申請したと発表した。文科省は申請を承認したという。もう1つは、政府の閣議決定をもとに、文科省が教科書への記述に介入したことです。詳細は後述しますが、これらは言うまでもなく弾圧と表現して構わない事例です。
政府は4月、「従軍慰安婦」ではなく「慰安婦」、「強制連行」ではなく「徴用」を用いることが適切だとする答弁書を閣議決定。これを受け、文科省は5月、教科書会社を対象に異例の説明会を開き、6月末までの訂正申請を求めていた。
高校の地理歴史、公民などの検定基準は2014年に改定され、政府の統一見解を踏まえた記述とするよう定めている。
「従軍慰安婦」などの記述削除 教科書会社5社、閣議決定で―文科省-時事通信
一方、後者の「健全な批判」というのは、千葉県松戸市のご当地VTuber(ヴァーチャルなのにご当地とはいったい?)の戸定梨香がコラボした交通安全啓発活動を全国フェミニスト議員連盟が抗議し、動画などが取り消されたという件です。これも詳細は後述しますが、本質だけ取り出せば、表現の自由によって妥当かつ穏当な批判がなされ、警察も表現の自由を行使して動画を削除することでこれに応じたというだけの話です。
しかしながら、例によって「表現の自由戦士」たちは弾圧だと騒いでいます。お話にならない低レベルな騒ぎですが、その筆頭に例のオタク区議荻野稔がいるので厄介です。
今回はその、頭を抱えるような愚行がどうして愚行なのか説明するという不毛な作業をします。
手続きの正当性
「表現の自由戦士」は批判と弾圧の区別がつかないわけですが、では、そもそも批判と弾圧を区別する要素とは何でしょうか。私は、これは手続きの正当性に集約されると考えています。これまで、わかりやすく単純に「強制力を伴うかどうか」だと説明していましたが、強制力をちらつかせる類の方法は基本的に正当な手続きによるものではないと考えることができます。
手続きの正当性という観点から、今回取り上げた事例を見てみましょう。まず、全国フェミニスト議連の抗議についてですが、これは公開の抗議文を関係各所に送付するという方法をとっており、特に問題があるとは思えません。というか、公開であるということがまさに手続きの正当性を担保することに繋がっているともいえるでしょう。裏でこそこそするのではなく、正々堂々と考えを伝えたわけです。
また、警察の活動は行政(あるいは準司法的なもの)ですから、(市議とはいえ)立法を担当する議員がこれについて意見を述べるのは、議員に本来期待されている仕事でもあります。そういう観点からも、抗議に問題があるとは思えません。
政治家が法令に違反するわけでもない表現物、民間の活動を抗議によって潰してしまう事に大きな危機感を感じます。一対何を根拠に、キャラクターの服装や体形をもって女性軽視と決めつけるのか。被害に遭われた経営者の方も述べていますが、安易に政治家、議員連盟の名を使い民間の努力を破壊すること、そこに違和感を感じるべきでした。なお、荻野がブログで書いたように、この抗議を「民間の表現をつぶした」と考える向きもありますが、鼻で笑ってください。警察の活動がいつから民間になったのでしょうか。千葉では警察が民営化されたのでしょうか。この一点だけをとっても、荻野の見識のなさとレベルの低さが伺えます。
フェミニスト議員連盟の抗議でVtuberの動画削除!?何を守りたいのでしょう-おぎの稔ブログ
フェミニスト議連は強制力も別に用いていないでしょう。そのつもりがないからこそ公開のかたちで抗議したと思われます。悪いことするならこそこそしないといけませんからね。そもそも、女性議員かつフェミニストという日本では極めて少数である人々が振りかざせる強制力を持っているかは疑問ですが。それに相手は警察であり、よほどの強制力でなければ意味をなすかも怪しいところです。
一方、山田宏参議院議員の塾テキストへの介入は問題だらけです。そもそも相手は塾というまさに民間であり、ここに参議院議員が介入する権限も義理もありません。強制力を使ったかは定かではありませんが、裏でこそこそとやって結果だけ伝えていますから、よくないことをしたと思われても仕方がないでしょう。ここは推定有罪であるべきところです。
文科省の教科書介入はさらに問題です。というのも、この介入は維新議員の質問主意書から閣議決定を経てなされたものであり、報道が「異例」としているように通常の手続きから外れたものだと考えられるからです。また、教科書検定に合格しないということは教科書販売による収益をすべて失いかねないということであり、強制力を振りかざしていると考えて差し支えない状況です。
こう考えると、塾や教科書への介入は弾圧と呼ぶにふさわしく、一方VTuberへのそれは単なる批判であることがよくわかるはずです。
内容の妥当性
批判と弾圧の区別の要点は手続きの正当性にあると書きましたが、もう1つ重要な点があります。それは内容の妥当性です。と言っても、私はこれは手続きの正当性に内包されるのではないかと思っています。というのも、主張の内容が不当であるということは支離滅裂な発言を攻撃のために相手へぶつけているということになり、言葉による攻撃ならそれは手続きとしても妥当ではないように思えるからです。まぁ、それはさておいて、表面上同じような方法をとる場合でも、内容の妥当性によって正当性の評価が変わり、批判と弾圧の区別になるというのは事実であるように思えます。
で、まずフェミニスト議連の抗議を見ていくと、これは妥当であるというほかないという内容です。コラボしたVTuberが性的に強調された外見をしているのは紛れもない事実ですし、警察という青少年がかかわる性犯罪を扱うこともある組織がそうした表象を軽々に扱うべきではないのも事実です。どの程度の表現ならセーフでどこまで行ったらアウトなのかというボーダーラインこそ人によるでしょうし、人によっては戸定梨香くらいならセーフと考える人もいるかもしれませんが、とはいえ、戸定梨香をアウトだと考える人がいるのも当然であり、その理由も十分理解できるものです。
こういうわけで、フェミニスト議連の抗議は内容からして妥当なものであるということができます。注意すべきなのは、議連はあくまで警察とのコラボを問題視しているのであって、戸定梨香のその他の活動については何も言っていないということです。荻野はブログで、あたかも議連がアニメ全般に憎悪を燃やしているかのように印象操作をしていますが、これは典型的な藁人形論法でしかありません。
一方、塾のテキストや教科書への介入ですが、これは歴史修正主義に基づくものであり不当です。詳しく立ち入ることはしませんが、歴史学の常識はテキストや教科書の記述こそ事実であることを支持しており、これを否定することは歴史的事実を軽んじる行為です。
学問的な事実を書いたら攻撃される、という状況が正当なことではないというのはわざわざ説明するまでもないでしょう。
オタクたちの呆れた言動
塾や教科書への介入からもわかるように、自民党は様々なかたちで表現への規制を強めています。にもかかわらず、オタクたちはそのことに無頓着で、むしろ自民党を支持しようとまで言い出す始末です。その最たる例は、山田太郎と仲良しの漫画家赤松健です。山田太郎以降漫画アニメ規制の話が出なくなった……というのが事実なのかがまず疑わしいのですが、仮にそうだったとして、直近に思いっきり教科書へ介入した問題があり、それ以前にもトリエンナーレへの弾圧などもあったにもかかわらず、そういう弾圧を行った政党を応援しようと呼びかけてしまえるのは、著しい政治的見識の欠如というほかありません。
総裁選に関しては、ごりごりの規制派である高市早苗が出馬するという問題もありました。まぁ、私は誰が総裁になっても自民党ならどんな規制もしかねないと思っているのでどうでもいいなとかまえていますが、流石に表現の自由戦士界隈もざわついています。
とまぁ、こんな風に筋金入りの自由戦士ですら危機感を覚えるレベルなのですが、このような状況ですら「山田太郎がいるから大丈夫」な戦士もいてほとほと呆れます。
もうね、ここまでくると「じゃあ規制されるほかないんじゃない?」と匙も投げたくなる。
潰せ自民、伸ばせ野党
こうした自由戦士の増長を防ぎ、(正しい意味での)規制派議員の跳梁跋扈を排除して表現の自由を守るためには、やらなければならないことが2つあります。第一に、自民党をつぶすこと。そしてまともな政治家を増やすことです。この辺の詳しい考え方は『衆議院選挙に対する連合の暫定的方針-広く表現の自由を守るオタク連合』に書きましたが、まともではない政治家がオタクの大事な部分に限ってまともなことをするという奇跡を信じるより、総じてまともな政治家がオタクの大事な部分でも順当にまともなことをすると期待するほうが合理的だというだけの話です。
ですから、山田太郎がなんて信じちゃダメなんです。今年の衆議院選挙では自民党を徹底的に潰さなければいけません。
whataboutism
貴方は散々オタクを馬鹿にしてきたわけですし、オタクには期待してないでしょうから、貴方は興味がある教科書問題を追及し、
オタクは漫画アニメVtuber関係の問題を追及するという事でいいんじゃないですか?
なお、教科書については、「教科書」以外の形式では発行できるのだから違憲ではないとされてたはずです。あと、竹島の記述については、明らかにおかしいですよね。
そもそも、基準がないのは表現の自由にとってメリットみたいなことを言ってしまう、表現の自由について不勉強な貴方に期待してないですが。
>手続き
手続きについても勉強不足では。
>警察の活動は行政(あるいは準司法的なもの)ですから、(市議とはいえ)立法を担当する議員がこれについて意見を述べるのは、議員に本来期待されている仕事でもあります。
三権分立・・・