渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

現代のTON-UPの人たち

2021年09月15日 | open
FULL Power Mode ON Yamaha R6 Street Ride


海外の映像。
公道で速度が出すぎているが危なげ
ない。
それでも、やはり公道では出し過ぎ。
これでも、クローズドサーキットの
MotoGPなどに比べたら遅すぎる。
240超でも遅すぎて話にならない。
競技とパブリックロードは別物。
公道でいくら速くとも、賞金もなけ
ればトロフィーもなく、スポンサー
もつかないし、賞賛もされない。

TON-UPとは100マイル=160km/h
以上で走る若者を指した1950年代
の英語の隠語。
一般車両の二輪車が160km/h出るか
出ないかの時代の言葉だ。
1980年代、日本車は250cc以下の
一般公道二輪車で最高速210km/h
が出る車を製造販売していた。
TON-UPは過去の単語となった。
160km/h超などは70年代の400cc
満車で既に普通に出ていた。
(2スト限定。4ストは160km/h程)

今ではアメリカの政治圧力による
1996年の750cc未満縛りの廃止と
大型免許の区分新設により、300
km/h超えの二輪車がゴロゴロする
ようになった。大型車はパワー
マシンとして開発され、中型以下
はむしろ80年代よりも大幅に出力
を自主規制して出さないように
してある。

時代により、180km/hの壁、200
km/hの壁、240km/hの壁、300の
壁、というものがあった。
私の高校低学年の頃は「160を超え
ると景色がトンネルになる」という
嘘が広く世間で言われていた。
しばらくして超えた。何も風景は
変わらず、トンネルなどは無かった。
やった事ない人間が嘘をこいていた
のだ。(発信原点はぬるいほのぼの
漫画を描いていた漫画家だったが)
180を超える。変化は無い。
200を超えた。何も変わらない。
240を超えた。トンネルなどは無い。
世の中、嘘が多い。
今の二輪車は一捻りで250km/h超え
などあっという間だという。
そうだろう。それだけのパワーを
している。市販車で最高速は日本
の二輪車で400km/hに達する。

だが、公道でいくら速度を出しても、
誰からも賞賛されない。
速さよりも「巧みに」乗ったほうが
いい。安全を手元に引き寄せて。
しかし、「下手な人=超鈍速」とい
う図式は確実にあるので、速度を
出す人たちは「高速=巧者」と勘違
いするのかも知れない。「下手な人
⇒鈍速」ではあるが、「低速⇒下手
な人」ではないのに。
遅ければ安全なのではないのと同じ
く、速ければ巧いのではない。
遅くとも速くとも、転倒をしない、
事故を起こさない人が巧いのだ。
ただ、ドンガメにはド下手が多いの
は事実だ。ガチガチに固まって、上
体を伸ばして反り返るように硬直さ
せ、腕を伸ばして突っ張り、顎を出
し、そしてステップには足を載せて
いるだけで爪先はだらしなく外を向
く。
遅い速いは安全確保とは関係ない。
そのような乗り方をしていたら、臨
機応変に「状況」に対して即応が人
体の働きとして不能なのだ。
結果として、安全確保の放棄に繋が
り、危機を自分に呼び込み、危険を
周囲に撒き散らす。
超低速でバランスを取れずに転んだ
り、コーナーで寝かせられずセルフ
ステアを自分で封じてアウトにはら
み、ブレーキの掛け方も知らないの
でロックさせて滑って転ぶ。
タイヤが冷えている云々は関係ない。
すべて「走り方」に基づいている。
車はやった通りにしか動かない。
「ブレーキを踏んだのに勝手に車が
加速したのだ」などという事は存在
しないのだ。
車のせい、路面のせい、気温のせい
にしている人間は、必ずまた同じ事
をする。原因が自分にあるという冷
徹に厳格に自己を自戒する事から逃
げて他のせいにしているから。
必ず同じ事をやる。
「二輪の運転が上手い人」は巧みに
その自分の欠点を補正して行く。
そうした自省能力が無いと、解決策
の模索ができない。
二輪の操縦の結果現象はすべて自分
の責任なのだ。
やった事しか現象には現れない。
この絶対不動の定理をビシッと自覚
しない限り、公道での転びや事故は
その人において繰り返えされる。
そして、そのうち二輪で死ぬ。

【バイク事故】阿蘇雲海チャレンジ
に行ったらクラッシュしてしまった
【事故動画】



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