「直接的に遺伝子をいじったり、特定の遺伝子をハネたりするのはNGだが、優れた遺伝子を持つ(と期待される)人との間で子孫をつくりたいと考えるのは自由」という区別の論理には、危うさを感じずにはいられない。前者(遺伝子編集など)は優生思想だが、後者(精子バンク)は優生思想ではない――こうした考えに明白な区別が可能なのだろうか。
個人的にはかなり疑問に思うところだが、後者の自由(すぐれた人とパートナーになったり、あるいはその精子を得て子孫を残したいと願う「幸福の追求」)は非難されるどころか、むしろ「政治的ただしさ」の庇護のもとで、今後ますます勢いづくかもしれない。
昨年5月、アメリカの大手紙ニューヨーク・タイムズ紙上に掲載されたコラム「The Redistribution of Sex(性の再分配)」は、掲載直後から猛烈な議論を巻き起こした。
いわく――「とりわけモテない男性にとって、性的な充足が得られないのは資本が欠乏している状況と等しく、それもまた再分配がなされてしかるべきである」とする論旨だ。
当然のことながら「特定の男性とのパートナーシップを、それを望まない女性に強要するのか」とか「家父長制を復活させたいのか」といった批判・非難の論調が大きかったようだ。
「だれもが望んだ相手とだけ、自由にパートナーシップを結ぶことができる。だれからも強制されたり、また妨害されたりするいわれはない」という考えが共有される社会において、精子バンク事業の実態を見れば「多くの女性は、健康で眉目秀麗な白人男性の遺伝子を重宝がる」という身もふたもない事実が露わになる。
もっともそれは精子バンクのような特殊事例だけではない。たとえば「婚活」の場面などで、年収や取得している資格や容姿や家族構成などで相手を選別する行為も、大なり小なり同じ延長線上にある。
いまでこそ、医療やアカデミズムの領域では、関係者がプロとして高い人権意識や倫理観を維持することで、ネガティブな優生思想を遠ざけているのかもしれない。だが一方で、すでに市民社会レベルでは「誰しもすぐれた人間とのあいだに子どもをもうけたい」という「ポジティブな優生思想」が、自由の名の下で着実に浸透しているのではないだろうか。
この「ポジティブな優生思想」は結局のところ、劣った男性の子孫を排除するという性淘汰と表裏一体である。
しかしながら、それが例えば、出生前診断に基づく胎児の中絶で生じるような議論を喚起することはない。なぜなら、女性から選ばれず、パートナーシップに恵まれない男性の幸福追求権がたとえ充足されていなかったとしても、「それは本人の自己責任である」として人権問題の埒外へと追いやられるだけだからだ。
その人権問題を救済しようとすれば、幸福追求権を侵害される「べつのだれか」が必要になってしまう。
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