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意識することと忘れること
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意識することと忘れること

2013-08-07 10:24
  • 6
昨日のエントリについて、

「『遊び』に過ぎないということへの自覚」という観察者性 (etic?) と、「真剣に『遊ぶ』」という当事者性 (emic?)を同時に両立することは可能なのか?

というコメントをもらった。あの種の話題について語った時に、こうした質問をいただくことはしばしばあるので、今日はこの点について、ちょっと思うところを書いてみる。

「自覚すること(観察者性)と入り込むこと(当事者性)」について考える時、私がいつも思い出すのは、『純粋理性批判』における、カントの「誤謬推理」の議論である。「意識内容が自覚できるからといって、そこに『私』という実体があると考えるのは誤謬推理だ」というのがその議論だけれども、これは直接的にはデカルト批判で、カントは有名なコギトについて、 「我思う(コギト)というのは、あくまで私の全ての表象に『伴ない得る』ものに過ぎない」 ということを言っている。

「鬼ごっこ」の例で考えてみよう。昨日のエントリで私は、「実は『遊び』であることを心の深いところで知りながら、それでも真剣に『遊ぶ』こと」と書いたけれども、鬼ごっこをしている子供は、大人に呼び止められて、「これは遊びかい?」と訊かれれば「そうだよ」と答えるかもしれないけれども、実際に追いかけっこをしている時に、「これは遊びなんだ」と、常に自分に言い聞かせ続けているわけではない。つまり、「これは遊びなんだ」という意識は、あくまで「鬼ごっこに伴い得るもの」に過ぎないのである。

自分の行為が「遊び」であると「知っている」ことと、それを常に「意識し続ける」ことは別のことだ。子供の頃に、訊かれれば「遊び」であると答えざるを得ない行為に、だからこそ何もかも忘れて没頭した記憶は多くの人がもっているだろうと思うが、同じことが大人になったらしにくくなるのは、たぶん「この世には『遊び』ではない行為がある」という「信念」を、私たちが強固に内面化してしまうからだ。

この世に「遊び」でないものがあるとするなら、「遊び」をすることは「無意味」な行為に過ぎなくなり、したがって、それに「真剣」になることはできなくなる。「意味」と「無意味」を判定する「自己意識」が、常に心の中でその主張を続けているから、無意味な行為に「我を忘れて」没頭することは、もうその人にはできなくなるわけだ。


仏教のウィパッサナー(観察)瞑想でも、常に気づきを行きわたらせること(mindfulness)を言うけれども、仏教は同時に「無我」を言うものでもある以上、それは「私」のjudgementに、常にとらわれ続けるということとは意味が異なる。むしろ、ただ目の前のことだけに意識的であること。「私」の表象を習いつづけることで、「私」を忘れてしまうことが、仏教に言う「気づき(awareness)」の意味だ。

「真剣に遊ぶ」ということも、それと似たところのある行為なのではないかと私は思う。徹底的に知ることで、「知っている自分」を忘れること。



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僕がデブサメンであることを自覚しつつ、食って適当に生きてる分には、それを思い出さないというのと同じですかね。
98ヶ月前
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>自分の行為が「遊び」であると「知っている」ことと、それを常に「意識し続ける」ことは別のことだ。

 これは理解できたと思います。上とはちょっと分け方が違いますが、心理学でも、「再生(recall)と再認(recognition)の違い」というのがありますし。  ただその結果、今、「ここで言う『知っている』とは何か?」が明確にはわからなくなってますが(汗

>子供の頃に、訊かれれば「遊び」であると答えざるを得ない行為に、だからこそ何もかも忘れて没頭した記憶は多くの人がもっているだろうと思うが、同じことが大人になったらしにくくなるのは、たぶん「この世には『遊び』ではない行為がある」という「信念」を、私たちが強固に内面化してしまうからだ。この世に「遊び」でないものがあるとするなら、「遊び」をすることは「無意味」な行為に過ぎなくなり、したがって、それに「真剣」になることはできなくなる。

 この世のすべてが「遊び」だと「知れ(≠常に意識)」ば「真剣」になれる、ということでしょうか? でもそれと同時に、

>徹底的に知ることで、「知っている自分」を忘れること。

 うーん。。。ここがやはりよくわからないです(汗。 ここでの「知る」が「意識的な自覚」とは違うのだとすれば、ここで言う「知る」とは何でしょうか? 瞑想してある程度のレベルにいかないとわからない類の概念なのでしょうか?
98ヶ月前
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>rice_raylineさん

「瞑想によって得られる境地」は、たしかにある程度の関わりがあります。ただ、それをここで全て説明することは難しいので、よろしければ、私の訳した『自由への旅』(あるいは、ライスさんなら原文でもいいかもしれませんが)を読んでみてください。

「知る」の意味については、ツイッターで沼田牧師が出してくださった、「どこか知っている場所へ出かける途中、ぜんぜん違うことを考えていても、目的地には無事たどり着く」という例は、かなり近いものがあると思います。「自覚」というのは読んで字のごとく、「自分が覚知している」のですよね。しかし、「別のことを考えながら歩いている」時、「目的地」のことは自分の明示的なコントロールの外において、ある意味で「無意識的」に「知られて」いる。

とはいえ、ここのところは哲学的にわりとハードな問題を含むように思いますので、私の中でも明晰に分析しきれているわけではありません。よかったら、この件については放送で対話しつつ深めることができればと思います。ライスさんなら、面白い話になりそうなので。
98ヶ月前
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あと、recall と recognition の違いというのも面白かった。実は仏教の文脈で言う気づきというのは、パーリ語で言えば sati であって、これは直訳すれば remembrance を意味する。それが「気づき」という意味になる筋道はたいへん面白くて、おそらくはこの話にも、大きく関わっていると思うのです。
98ヶ月前
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>ニー仏 さん
>ただ、それをここで全て説明することは難しいので、よろしければ、私の訳した『自由への旅』(あるいは、ライスさんなら原文でもいいかもしれませんが)を読んでみてください。
 了解です。以前(訳してもらった日本語版でも)読もうとして理解するのに時間がかなりかかって、途中で読むのをやめてしまった^^;ので、そのうちリトライしてみます。 前のエントリーで述べたeticとemicの両立って自分の今のテーマなので(というかeticに行ったきりemicに戻ってこれなくなってるくせに、研究者としての当事者性もまだ足りてない…)。

>よかったら、この件については放送で対話しつつ深めることができればと思います。
 了解です。 「自由への旅」を読みおえたら連絡します。 よろです^^

>パーリ語で言えば sati であって、これは直訳すれば remembrance を意味する。
 へー、そうなのですか。 自分も、認知心理の用語で仏教の考えを言い直し科学化(?)する、
みたいなことには興味ありますよ^^




98ヶ月前
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ご無沙汰してます。

結局、自由への旅は途中までしか読まず読んだ内容も完全に忘れてしまっていたのですが、この頃見たあるTSでニー仏さんが性愛関連で「一度は執着しないとそこから出られない」といった話をしていて、そこでふと「本当は一点集中も執着だからよくないのだけど、最初は腹なら腹に集中しないと瞑想がうまくならない」という話を思い出しました。

記憶が曖昧なため後者の話が自由への旅で読んだ話なのかは明確ではないのですが、その結果、ちょっとだけですが上での話が感覚的にはわかった気もしました(まあ感覚なので理屈としては上の話とうまく接続出来ていないですが)。まあそんなわけでご報告まで。
96ヶ月前
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