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ツイッター、フォロワーが少し増えたので反応も増えて、それで「ヤバい人」に絡まれる機会も少々増えたり。それで色々と考える。
日本では、他者を「受容」したり「寛容」であったりすることが、自分の立場や価値判断を明確にしないでおくことと、セットにして把握されている傾向が強いように思う。考え方や価値判断は「人それぞれ」だから、それを互いに明確にしてしまえば喧嘩になってしまうことも多いし、その結果として、「排除」や「不寛容」が生じる可能性が高い(と考えられている)からだ。
ただ、私自身はそうした態度をあまり好ましいと思っていなくて、自分の立場を明確に語ることにより、あるいはコンフリクトが起きることがあるかもしれないし、それで一部の人とは一時的に「距離をとる(付き合わない)」という結果になるかもしれないけれども、にもかかわらず他者の存在それ自体は否定せず、その根本的な価値は圧倒的に肯定し続けるということは可能であると思っている。
当たり前だけど、人間は生まれた以上は必ず死ぬ。たとえ百年生きたって、それは宇宙全体の長大な時間の流れから考えれば、まさに須臾と言うしかない一瞬だ。
その、俯瞰的に眺めれば何の意味もない一瞬に、それでも意味や価値を切実に求めながら生きるということは、究極的に言えば「遊び」に他ならない。子供の鬼ごっこが、どれほど真剣に遊ばれようと、世界のシステムに影響を与えることがないように、その世界のシステムも、どれほど真剣に運営されようと、宇宙全体の時間の流れからすれば単なる「遊び」だ。
そして、これもまた鬼ごっこと同様に、実は「遊び」であることを心の深いところで知りながら、それでも真剣に「遊ぶ」ことによって、人生は楽しく、また「価値」のあるものにもなる。
鬼ごっこをする時、子供は鬼から真剣に逃げるけど、実際のところは、「鬼」なんてどこにもいないのだ。それがわかっていても、というか、それがわかっているからこそ、鬼ごっこは楽しいんじゃないの、と思う。
日本では、他者を「受容」したり「寛容」であったりすることが、自分の立場や価値判断を明確にしないでおくことと、セットにして把握されている傾向が強いように思う。考え方や価値判断は「人それぞれ」だから、それを互いに明確にしてしまえば喧嘩になってしまうことも多いし、その結果として、「排除」や「不寛容」が生じる可能性が高い(と考えられている)からだ。
ただ、私自身はそうした態度をあまり好ましいと思っていなくて、自分の立場を明確に語ることにより、あるいはコンフリクトが起きることがあるかもしれないし、それで一部の人とは一時的に「距離をとる(付き合わない)」という結果になるかもしれないけれども、にもかかわらず他者の存在それ自体は否定せず、その根本的な価値は圧倒的に肯定し続けるということは可能であると思っている。
当たり前だけど、人間は生まれた以上は必ず死ぬ。たとえ百年生きたって、それは宇宙全体の長大な時間の流れから考えれば、まさに須臾と言うしかない一瞬だ。
その、俯瞰的に眺めれば何の意味もない一瞬に、それでも意味や価値を切実に求めながら生きるということは、究極的に言えば「遊び」に他ならない。子供の鬼ごっこが、どれほど真剣に遊ばれようと、世界のシステムに影響を与えることがないように、その世界のシステムも、どれほど真剣に運営されようと、宇宙全体の時間の流れからすれば単なる「遊び」だ。
そして、これもまた鬼ごっこと同様に、実は「遊び」であることを心の深いところで知りながら、それでも真剣に「遊ぶ」ことによって、人生は楽しく、また「価値」のあるものにもなる。
鬼ごっこをする時、子供は鬼から真剣に逃げるけど、実際のところは、「鬼」なんてどこにもいないのだ。それがわかっていても、というか、それがわかっているからこそ、鬼ごっこは楽しいんじゃないの、と思う。
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「『遊び』に過ぎないということへの自覚」という観察者性 (etic?) と、「真剣に『遊ぶ』」という当事者性 (emic?)を同時に両立することは可能なのか? もし可能ならなぜ人(自分)は、ある種の物語が説明され暴かれるのが嫌なのか?そして、それがもし可能ならそれは何によって可能でどんなものなのか?
そこがわからないから、「当事者・主体としての私」を見なく(orが見えなく)なり、今度は、「自ら物語を暴き、客観的or論理的事実という虚構に執着する」という「遊び」に今度は必死にな(り、「当事者性」を失って動けなくなったりすることもあ)る。。。自分の場合は、そんな感じですね^^;
で、その辺、面倒になると、「裸の王様に裸と言った、少年のようなただ純真な存在になりたい」とか馬鹿なことを本気で考えたりするのだけど、でも本当の現実の子供はそもそも純真なわけではないし、また「己(本音)を外部に隠蔽できない『ただの子供』は、社会不適応者でしかない」という(苦笑。 抽象的かつ読みづらくて、すまそ・。・;
そこがわからないから、「当事者・主体としての私」を見なく(orが見えなく)なり、今度は、「自ら物語を暴き、客観的or論理的事実という虚構に執着する」という「遊び」に今度は必死にな(り、「当事者性」を失って動けなくなったりすることもあ)る。。。自分の場合は、そんな感じですね^^;
で、その辺、面倒になると、「裸の王様に裸と言った、少年のようなただ純真な存在になりたい」とか馬鹿なことを本気で考えたりするのだけど、でも本当の現実の子供はそもそも純真なわけではないし、また「己(本音)を外部に隠蔽できない『ただの子供』は、社会不適応者でしかない」という(苦笑。 抽象的かつ読みづらくて、すまそ・。・;