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さむさん、空の空牧師とニコ生鼎談。テーマは「信仰するとカツ丼は美味くなるのか問題」。キリスト教の目的は「復活の生命に与ること」であるとも言われるが、では入信して「復活の生命に与った」者はどうなるのか。幸せになるのか、生きているのが楽しくなるのか、カツ丼は美味くなるのか、そういったこと。
(放送のタイムシフト動画はこちらで視聴可能。また、この鼎談へのさむさん視点の感想はこちらにあります。)
お二人の解説を私なりに理解したところでは、キリスト教に入信しても、それが直ちに現世における幸せや楽しみに繋がるわけでは必ずしもないとのこと。この世における幸不幸は、入信以前と変わらぬままに生じ続ける。もちろんカツ丼の味だって、何も変化するわけではない。空腹時にそれを食べれば美味いのは、信徒だろうが非信徒だろうが、当然同じであるわけだ。
ただ、信徒と非信徒で異なるのは、前者が世界と自分のありようについて、「受け取りなおし(Wiederholung)」を行なっているということ。例えばカツ丼について言えば、入信はその味をもちろん変えないけれども、信徒はそれを、「復活の生命」の一つの現われとして「受け取りなおす」ことになる。つまり入信によって世界それ自体が変わるというわけではなくて、信徒個人がそれに与える意味付けのほうが、変化するということである。
上記はお二人の話を私なりに咀嚼したに過ぎないが、こうした理解は、個人的にも実に納得のいくものであった。もともと仏教におけるいわゆる「悟り」の捉え方とも関連させながら考えてみたい話題だったのだけど、お二人の語られることは、(基本的な差異をもちろん前提とした上で)私の考える「悟り」や「修行」のあり方とも共通するところがあって、僭越ながら、「我が意を得たり」という感じもしたのである。
ニコ生でのコメントなどを見ていると、仏教の「悟り」というのには、何か特別な、これまでと全く違う自分になること、というイメージが強くあるように思われる。もちろん、本当に厳密な意味で「何も変わらない」のであれば、修行する意味だってなくなるし、「悟り」を目指す必要もなくなってしまう。だが、では「悟った」からといって全く別人へとなりかわり、喜びと楽しみだけに満ちた人生となって、やることなすこと上手くいくのかといえば、そんなことは全くないだろうと私は思う。
唐代最高の禅僧と言われる馬祖道一が「即心是仏(この心が、そのまま直ちに仏である)」と語ったように、いま・ここにある己の心身そのものに「悟り」(の、少なくとも契機)を見出していくのが仏教の本道であって、それはゴータマ・ブッダの時代から基本的に変わらない。
(こうした唐代禅の思想については、上掲の『臨済録』解説動画をご参照ください)
そして、「悟った」からといって心身に超人的な変化が起こるわけではない以上、それが「苦」に満ちたものであって、痛い時には痛いし、辛い時には辛いのも同じである。ゴータマ・ブッダが食中毒による激しい苦痛の中で亡くなったことからもわかるように、「悟り」をひらいたからといって、心身の「苦」が無になるわけでは全くないのだ。
したがって、覚者と凡夫が異なるのは、苦痛や幸不幸の有無ではなくて、むしろそれへの「対し方」である。このあたりに、私は(お二人の語られる)キリスト教の態度との共通性を感じたのだけれども、とはいえ相違点ももちろんあって、それは仏教の場合、より正確に言えば、「対し方を固定させないこと」を目指していくということなのだけど、もう十分に長くなってしまっているので、そのあたりはまたいずれ。
(放送のタイムシフト動画はこちらで視聴可能。また、この鼎談へのさむさん視点の感想はこちらにあります。)
お二人の解説を私なりに理解したところでは、キリスト教に入信しても、それが直ちに現世における幸せや楽しみに繋がるわけでは必ずしもないとのこと。この世における幸不幸は、入信以前と変わらぬままに生じ続ける。もちろんカツ丼の味だって、何も変化するわけではない。空腹時にそれを食べれば美味いのは、信徒だろうが非信徒だろうが、当然同じであるわけだ。
ただ、信徒と非信徒で異なるのは、前者が世界と自分のありようについて、「受け取りなおし(Wiederholung)」を行なっているということ。例えばカツ丼について言えば、入信はその味をもちろん変えないけれども、信徒はそれを、「復活の生命」の一つの現われとして「受け取りなおす」ことになる。つまり入信によって世界それ自体が変わるというわけではなくて、信徒個人がそれに与える意味付けのほうが、変化するということである。
上記はお二人の話を私なりに咀嚼したに過ぎないが、こうした理解は、個人的にも実に納得のいくものであった。もともと仏教におけるいわゆる「悟り」の捉え方とも関連させながら考えてみたい話題だったのだけど、お二人の語られることは、(基本的な差異をもちろん前提とした上で)私の考える「悟り」や「修行」のあり方とも共通するところがあって、僭越ながら、「我が意を得たり」という感じもしたのである。
ニコ生でのコメントなどを見ていると、仏教の「悟り」というのには、何か特別な、これまでと全く違う自分になること、というイメージが強くあるように思われる。もちろん、本当に厳密な意味で「何も変わらない」のであれば、修行する意味だってなくなるし、「悟り」を目指す必要もなくなってしまう。だが、では「悟った」からといって全く別人へとなりかわり、喜びと楽しみだけに満ちた人生となって、やることなすこと上手くいくのかといえば、そんなことは全くないだろうと私は思う。
唐代最高の禅僧と言われる馬祖道一が「即心是仏(この心が、そのまま直ちに仏である)」と語ったように、いま・ここにある己の心身そのものに「悟り」(の、少なくとも契機)を見出していくのが仏教の本道であって、それはゴータマ・ブッダの時代から基本的に変わらない。
(こうした唐代禅の思想については、上掲の『臨済録』解説動画をご参照ください)
そして、「悟った」からといって心身に超人的な変化が起こるわけではない以上、それが「苦」に満ちたものであって、痛い時には痛いし、辛い時には辛いのも同じである。ゴータマ・ブッダが食中毒による激しい苦痛の中で亡くなったことからもわかるように、「悟り」をひらいたからといって、心身の「苦」が無になるわけでは全くないのだ。
したがって、覚者と凡夫が異なるのは、苦痛や幸不幸の有無ではなくて、むしろそれへの「対し方」である。このあたりに、私は(お二人の語られる)キリスト教の態度との共通性を感じたのだけれども、とはいえ相違点ももちろんあって、それは仏教の場合、より正確に言えば、「対し方を固定させないこと」を目指していくということなのだけど、もう十分に長くなってしまっているので、そのあたりはまたいずれ。
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