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「信じない人が最上の人」
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「信じない人が最上の人」

2013-07-08 23:55
    以前の「慈悲と優しさ」というエントリについて、論述が問題の提示までで終わっているので、「早く続きを書け」というリクエストがいくらか来ているのですが、あの問題に関しては執筆予定の『仏教思想のゼロポイント』においてメイン・テーマとして扱われる予定ですので、恐縮ですが、もしよろしければ、そちらをご参照いただければと思います。



    (ヤンゴンの麺屋台)


    『ダンマパダ』の第97偈では、信じない人(assaddho naro)が最上の人(uttamaporiso)として讃えられています。大乗の影響が強い日本の仏教界ではあまり語られないことなので、意外に感じられるかもしれませんが、そもそも「信を捨てよ」というのはゴータマ・ブッダの開教宣言の一節でもありましたので、これは彼の教説の基本的な態度に、全く沿った主張でもあります。

    とはいえ、ここで「なるほど、では俺は何も信じていないので、最上の人というわけだな」と単純に考えてしまったら、それはもちろん誤りになる。そんなに簡単に「最上の人」になれるのなら、誰も苦労して修行なんてしませんからね。

    いつも言うように、「何も信じない」で生きるということは、少なくとも俗世で普通に生活する限りにおいては、ほぼ不可能です。誰であれ、究極的には無根拠な価値を「信仰」しながら生きているというのが現実である以上、「自分は何も信じていない」と単純に考えてしまうことは、むしろ「盲信(blind faith)」への入り口となる。


    こうした無自覚な盲信状態から抜け出すことこそが、「信じない人」であろうとするならば、まず第一に必要なことだろうと私は思うのですが、そのためにブッダが勧めたことの一つは、 「常に自覚的であり続けること(sati, mindfulness)」でした。

    既に述べたように、私たちは日常生活を送る上で、どうしたって何かを「信じ」ざるを得ないわけですが、その「信仰」に全く無自覚のままでいると、いつの間にやらそれは固定的な意見 (diṭṭhi)となり、更にはそれを自分自身(atta)と同一視して、容易に手放すことができなくなる。中には「信じていない」という観念自体を、自分自身の意見・人格として固定化し、その執着がもたらす衝動に無自覚のまま、まさに「宗教的」に他者を攻撃してしまう人もいるというのは、以前のエントリでも述べたとおりです。


    こうした事態を一つには防ぐために、自分自身に現れてくる欲求・衝動・感覚、そしてひいては「信仰(意見)」に、常に自覚的であれと教えたのがブッダであって、この点に関しては、私は彼の教説に全く賛成です。「信を捨てる」ためには、単に「俺は信じてないぞと考える」だけでは駄目で、無自覚のままに「信」をつくりだそうとする私たちの自然な心の傾向性を、常にモニタリングしていなければならないということですね。


    もちろん、これをやっても「信」から100%離れることは、(仏典に語られる)「涅槃」にでも入らない限り無理なのですけど、少なくとも事態は多少ましになる。たまたま思い出した『ダンマパダ』の記述から、少しばかり考えたことのメモとして。



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