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説明抜きの自明性
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説明抜きの自明性

2013-07-03 10:39
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ブロマガは夜に更新の計画だったのだけど、早寝早起きのリズムができてくると、やはり朝に更新するのがよいという結論に至るなど。夜に更新しようとすると、眠気によって結局のところ余計に時間を食ってしまう。文章を書くのは朝にして、夜はゆっくり本を読んだり、適当にお喋りなどをしているのがよいようだ。



(ミャンマーアイス)


昨日の記事に関連して、「もし日本人が『自分の気持ち至上主義』をとっているなら、いわゆる同調圧力には負けたりせずに、みんな『自分らしく』生きられているはずではないのか」という指摘を受けたのだが、これはたぶん違うと思う。

そのエントリの中でも書いたことだが、「気持ち」というのは、基本的にフロイトの言う「快感原則(Lustprinzip)」にしたがって盲目的に流動しているだけのものであって、そこには偶然に基づく差異であれば見られても、いわゆる「人格(personality)」を構成するような、個別性(individuality)は見られない。

要するに、「自分の気持ち」にしたがって生きるということは、ある意味では「動物的」な生き方なのであって、それによって「自分らしさ」が得られると考えるのは、基本的に誤りである。むしろそのようなエートスによってもたらされるのは、似たような衝動を盲目的に追い求め続ける、人型をしたレミングの群れだけだ。


いわゆる「個性」や「人格」といったものは、そのような誰でも似通ったものにならざるを得ない「気持ち」の流動から自分自身を引き離して、何かしらの「信念」にしたがって己の振る舞いを意識的に方向づけていった時にこそ生じてくる。

つまり、放っておいたら誰でも「自然」にしたがってしまうような「気持ち」の要求に、敢えて逆らうことによってしか「人間性」は現れないし、その逆らい方の如何にこそ、「自分らしさ」が表れる。以前にも書いたように、カントが尊敬の念に値すると考えたのも、道徳法則にしたがって傾向性(カントの「傾向性」の定義は、「欲求能力が感覚に依存していること」) に逆らうことによって、「自由」に生きている人間であった。


前回の記事にも書いたように、「気持ち」というのは自分自身にとっては明証的(self-evident)なものだから、そこから離れた、ある意味で「形而上学的」な原理原則をもたない限り、私たちはその「自明性」の中に安住してしまう。「空気」や「同調圧力」がいつのまにかできあがるのも、そうした各人にとっては「自明」な「気持ち」の流動が、マクロで見れば互いに似通ってもいるものだから、それにしたがって行動することが、「説明抜きの自明性」を、社会的にも獲得してしまうからである。


しかしながら、そうした「なんとなく」の「空気」や「同調圧力」に抗するために、ある特定の原理原則を保持する立場から、それを批判しようとしたりすると、「個性の抑圧」とか「人格への冒涜」とか言われてしまうことがしばしばなので、日本はどうにも難しいなあと思う朝なのであった。



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記念パピコ(・∀・)v明日大雨らしいから学校めんどうですね、廃。
99ヶ月前
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