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お坊さんたちに付き添って郊外にお出かけ。こちらの僧侶の方々は律(お坊さんの守るべきルール)によってお金に触れないので、必要な時には俗人が出先に付き添って、金銭の受け渡しをしたりします。こういう人のことを「カッピヤ」と呼ぶのですが、ちょっと荷物を持ってあげるとか、そういうのも「カッピヤ・ロウッテー(カッピヤとして奉仕する)」と言うので、ミャンマーの人であれば、たいていは経験があるでしょうね。

(出先のネコ。うさんくさそうな顔で見ている。)
前回の記事で「自分の気持ち至上主義」にふれましたが、そこでも述べたとおり、これは岡田斗司夫の用語であって、『フロン』という彼の著作に、その詳細が語られています。
岡田氏によれば、私たちは戦後民主主義のもと、「自分の気持ちを大切に」、「自分らしく生きなさい」と教わり続け、障害を乗り越えて自分の気持ちや自分らしさを貫き通す生き方を「カッコいい」、「美しい」と感じる価値観を刷り込まれて育ってきた。
この価値観が「自分の気持ち至上主義」と呼ばれるわけですが、私なりに要約しつつ言い換えれば、それはつまり、行為を「自己決定」するに際して、「自分の気持ち」を至上の判断基準とするような、生きる上での態度(エートス)のことです。
さて、そのように書くと、「自分の気持ち至上主義」とは、全く楽しい生き方であるようにも思えるのですが、これは実のところそうでもない。仏教や深層心理学の知見が示しているように、「気持ち」というのは常に変化を続けながら、苦痛を避けて快楽を求めようと動くものなので、それを満足させ続けようとするのであれば、「気持ち」を喜ばせる新鮮な「刺激」を、不断に与え続けるしかありません。
要するに、「自分の気持ち至上主義者」は、最終的には「刺激ジャンキー」になるほかはない わけですが、それで一生を満足して過ごすことができるのは、「気持ち」に(刺激という)「ドラッグ」を与え続けることに成功した、ごく一部の人たちだけなのであって、多くの人たちは、「気持ちいいことが幸福であり、よいことである」という意識だけはもちながらも、実際にはそれが達成できないことも多いですから、むしろ多くのフラストレーションを抱えながら、日常を過ごすことになりがちです。
「自分の気持ち至上主義」などと言うと、利己的で他者への想像力を欠いた人たちだけのものであるかのように聞こえますが、それは必ずしも当たっていなくて、多くの人は(意識的か無意識的かの違いこそあれ)むしろ「良識的」に、この生き方に至っている。上述したように、「自分の気持ち至上主義」自体は、たいして自分自身を幸せにしてくれるわけでもないのだけれど、自分にとっては明証的な「気持ちよさ」以上に確実な価値が存在するようにも思えないし、ましてや他人に勝手な価値観を押し付けるわけにもいかないから、これは互いに「俺の気持ちが第一」であることを前提として、お付き合いしていくしかないですねと、このようにきちんと「想像力」をはたらかせているからです。
前回の記事で述べた「自由の自主規制」も、もちろんこうした「想像力」から生じている。互いに「俺の気持ちが第一」であることを承認しあっている以上、「ウザい」ことをして他人を不快にするわけにはいかないし、自分自身が「ウザさ」を引き受けることも、できることなら避けようとする動機づけが当然できます。その結果として、人に助けを求めようにもそれができずに、最終的には自殺に至る人々が多く出る社会になっていることは上掲の記事にも述べたとおりなのですが、これとて部分的には「保身」もあるにせよ、多くは人々の「良識」こそがもたらした帰結です。既述のように、「自分の気持ち至上主義」で幸せになっている人なんて、実際にはたいして多くもないのですが、それでも互いの不快感、コンフリクト(迷惑)を最小化できるのであれば仕方ないだろうということで、人々は自分のフラストレーションを、受忍しているわけですから。
こうした状況から、(社会的なレベルはさておくとしても)少なくとも個人として解放されようとするのであれば、そのための処方箋は、私の見方ではとりあえず二つある。
一つはいわば「ブッダ・ルート」で、つまりゴータマ・ブッダがそうしたように、そもそも「気持ち」の流れにとらわれること自体をやめてしまって、そこからいわゆる「解脱」をすること。これはこれで、実は(一般に考えられているよりもずっと)価値ある立派な選択なのですが、それを本気でやろうとすれば、最終的には(ブッダと同じく)労働と生殖を放棄して俗世間から離れるという生き方に至りますから、これは現代日本人の多くにとっては、関心の外に位置する選択肢でしょう。
そしてもう一つは「大乗ルート」。これはある意味では「幻想」であり「仮象」であるところの「物語」を敢えて立ち上げることで、それに則りつつ自分の生を意義づけるという生き方のこと。実際には、ほとんどの人が既にこれを無意識のうちにやっている(「自分の気持ち至上主義」も「金パン教」も、一つの「物語」であることに違いはありません)のですが、それを自覚的に行うことで、「気持ち」のみが判断基準になっている出口のない袋小路から、自分自身を引き離す助けとするわけです。
現実問題としては、この「大乗ルート」がほとんどの人にとっては最も採用しやすい、可能な選択肢になるのではないかと思います。その際に立ち上げる「物語」は、宗教でも芸術でも、その人自身と周囲を幸せにできるものであれば、まあなんでもよいのだけれども、その場合の選択肢の一つとしては、「国家という物語」も、当然含まれることになる。以前に紹介した動画における青山繁晴さんの主張を、私はそういう文脈で捉えています。つまり、もう一つの 「物語」を立ち上げることで、「私の気持ち物語」の袋小路から脱することですね。
(繰り返しますが、その「物語」は、別に「国家」でなくとも構いません。為念。)
「とりあえず二つ」の処方箋を挙げましたけど、たぶんもう一つ、いわば「陽明学ルート」といったものも、私の考えでは存在します。しかし、それは非常にややこしい上に、実に困難なルートでもありますので、それについて話をするのは、またいつか適切な機会が得られれば、ということにいたします。
(出先のネコ。うさんくさそうな顔で見ている。)
前回の記事で「自分の気持ち至上主義」にふれましたが、そこでも述べたとおり、これは岡田斗司夫の用語であって、『フロン』という彼の著作に、その詳細が語られています。
岡田氏によれば、私たちは戦後民主主義のもと、「自分の気持ちを大切に」、「自分らしく生きなさい」と教わり続け、障害を乗り越えて自分の気持ちや自分らしさを貫き通す生き方を「カッコいい」、「美しい」と感じる価値観を刷り込まれて育ってきた。
この価値観が「自分の気持ち至上主義」と呼ばれるわけですが、私なりに要約しつつ言い換えれば、それはつまり、行為を「自己決定」するに際して、「自分の気持ち」を至上の判断基準とするような、生きる上での態度(エートス)のことです。
さて、そのように書くと、「自分の気持ち至上主義」とは、全く楽しい生き方であるようにも思えるのですが、これは実のところそうでもない。仏教や深層心理学の知見が示しているように、「気持ち」というのは常に変化を続けながら、苦痛を避けて快楽を求めようと動くものなので、それを満足させ続けようとするのであれば、「気持ち」を喜ばせる新鮮な「刺激」を、不断に与え続けるしかありません。
要するに、「自分の気持ち至上主義者」は、最終的には「刺激ジャンキー」になるほかはない わけですが、それで一生を満足して過ごすことができるのは、「気持ち」に(刺激という)「ドラッグ」を与え続けることに成功した、ごく一部の人たちだけなのであって、多くの人たちは、「気持ちいいことが幸福であり、よいことである」という意識だけはもちながらも、実際にはそれが達成できないことも多いですから、むしろ多くのフラストレーションを抱えながら、日常を過ごすことになりがちです。
「自分の気持ち至上主義」などと言うと、利己的で他者への想像力を欠いた人たちだけのものであるかのように聞こえますが、それは必ずしも当たっていなくて、多くの人は(意識的か無意識的かの違いこそあれ)むしろ「良識的」に、この生き方に至っている。上述したように、「自分の気持ち至上主義」自体は、たいして自分自身を幸せにしてくれるわけでもないのだけれど、自分にとっては明証的な「気持ちよさ」以上に確実な価値が存在するようにも思えないし、ましてや他人に勝手な価値観を押し付けるわけにもいかないから、これは互いに「俺の気持ちが第一」であることを前提として、お付き合いしていくしかないですねと、このようにきちんと「想像力」をはたらかせているからです。
前回の記事で述べた「自由の自主規制」も、もちろんこうした「想像力」から生じている。互いに「俺の気持ちが第一」であることを承認しあっている以上、「ウザい」ことをして他人を不快にするわけにはいかないし、自分自身が「ウザさ」を引き受けることも、できることなら避けようとする動機づけが当然できます。その結果として、人に助けを求めようにもそれができずに、最終的には自殺に至る人々が多く出る社会になっていることは上掲の記事にも述べたとおりなのですが、これとて部分的には「保身」もあるにせよ、多くは人々の「良識」こそがもたらした帰結です。既述のように、「自分の気持ち至上主義」で幸せになっている人なんて、実際にはたいして多くもないのですが、それでも互いの不快感、コンフリクト(迷惑)を最小化できるのであれば仕方ないだろうということで、人々は自分のフラストレーションを、受忍しているわけですから。
こうした状況から、(社会的なレベルはさておくとしても)少なくとも個人として解放されようとするのであれば、そのための処方箋は、私の見方ではとりあえず二つある。
一つはいわば「ブッダ・ルート」で、つまりゴータマ・ブッダがそうしたように、そもそも「気持ち」の流れにとらわれること自体をやめてしまって、そこからいわゆる「解脱」をすること。これはこれで、実は(一般に考えられているよりもずっと)価値ある立派な選択なのですが、それを本気でやろうとすれば、最終的には(ブッダと同じく)労働と生殖を放棄して俗世間から離れるという生き方に至りますから、これは現代日本人の多くにとっては、関心の外に位置する選択肢でしょう。
そしてもう一つは「大乗ルート」。これはある意味では「幻想」であり「仮象」であるところの「物語」を敢えて立ち上げることで、それに則りつつ自分の生を意義づけるという生き方のこと。実際には、ほとんどの人が既にこれを無意識のうちにやっている(「自分の気持ち至上主義」も「金パン教」も、一つの「物語」であることに違いはありません)のですが、それを自覚的に行うことで、「気持ち」のみが判断基準になっている出口のない袋小路から、自分自身を引き離す助けとするわけです。
現実問題としては、この「大乗ルート」がほとんどの人にとっては最も採用しやすい、可能な選択肢になるのではないかと思います。その際に立ち上げる「物語」は、宗教でも芸術でも、その人自身と周囲を幸せにできるものであれば、まあなんでもよいのだけれども、その場合の選択肢の一つとしては、「国家という物語」も、当然含まれることになる。以前に紹介した動画における青山繁晴さんの主張を、私はそういう文脈で捉えています。つまり、もう一つの 「物語」を立ち上げることで、「私の気持ち物語」の袋小路から脱することですね。
(繰り返しますが、その「物語」は、別に「国家」でなくとも構いません。為念。)
「とりあえず二つ」の処方箋を挙げましたけど、たぶんもう一つ、いわば「陽明学ルート」といったものも、私の考えでは存在します。しかし、それは非常にややこしい上に、実に困難なルートでもありますので、それについて話をするのは、またいつか適切な機会が得られれば、ということにいたします。
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