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昨夜は投稿できなかったので、代わりに今朝に。ミャンマーは(雨季だから当然ですが)毎日雨で、暑季の熱気が日ごとに薄まり、徐々に過ごしやすくなっています。

(部屋のすぐ近くに蛇が出現!)
ニコ生で放送などをしていると、ときどき「僕は宗教なんて必要ないと思うんだけど」といった趣旨のコメントをもらうことがあります。そして、それに対する私の返答は昔からずっと決まっていて、「もちろん、あなたにとっては必要ないんだと思いますよ。ただ、世界の現状を見れば、それを必要だと考えている人が一定数存在するのは自明のことです。その人たちにはその人たちの人生と価値体系があるわけだし、あなたにはあなたの人生と価値体系がある。日本においては幸運なことに、宗教に関わらなくても生きていけるし、そのほうが『健全』であるとも考えられているのだから、あなたが宗教を不要だと考えるなら、あなたは関わらなければいいんですよ」と言うことにしています。
私としては、これで十分な返答だと思っているのですが、それに納得できない人たちも一定数はいて、かなり攻撃的なコメントを連投しはじめたり、中には「お前は仏教徒のくせに、俺に真面目に仏教を押しつけないとは何事だ!」みたいな、ものすごい怒りだし方をする人もいました。
正直なところ、私は自分がいわゆる「仏教徒」であるかどうかについては懐疑的です。私にとっていちばん大切なことは、自分が信じて実行するに足る「生き方の筋」を、可能な限り予断を排しつつ探求するということであって、仏教はそのための有力な手段の一つ、インド思想の術語で言えば、プラマーナ(真理の認識手段)の一つにすぎない。したがって、「仏教」という名の下に語られることであれば、全てを無前提に受け入れるということは全く論外ですし、いつも言っているように、私が俗人として生きるにあたって、自分の行為の準則として実際に採用しているのは、仏教よりもむしろ陽明学です。
ただ、そうは言っても「ニー仏」などという名前で活動をしている以上、私のことを「仏教徒」であると考えて、ひいては「宗教側」の人間として応答を求める人が出てくるのも、ある程度は仕方のないことなのかもしれません。
そう思うので、「宗教側」として穏当であると思われる、上述のような答えをいつも返すようにしているのですが、まあ納得できない・したくない人たちは、どうしても一定数いるようです。
そういった人たちに対して、私が(余計に話がこじれるのはわかっているので)直接には言わないけれど、いつも心に思うことが一つあって、それは、「そのように対立をつくりだした上で、なんとしてでも他者を自分の考え方に同調させないと気が済まないという、あなた自身のナラティブに表現されてしまっている根本的な傾向そのものを、もう少し省察してみたほうがいいんじゃないか」ということです。
おそらく彼らの言い分としては、「宗教は人々が対立する原因になるし、その結果として、はなはだしくはテロを起こすようなこともある。したがって、それを批判することは正当だ」ということなのだろうと思います。そしてそれはたぶん一定程度、「正しい」批判でもあるのでしょう。
ただ、私が気になるのは、それを言う人たちの中に、「そうした対立は『宗教が』その原因になっているのであって、宗教をもたない自分たちはそうした動因から自由である。したがって、みんなが自分と同じように考えるようになれば宗教はなくなるし、余計な対立もなくなるはずだ」という発想が、見受けられがちなところです。こうした発想は、私の見方からすれば、全くナイーブなものであると言わざるを得ません。
何度も繰り返し述べているように、「何も信じていない人」というのは、この世にはいない。意識的か無意識的かの差はあるけれども、誰だって究極的には「無根拠」な何らかの価値を「信じて」いて、そこに一瞬一瞬、自分を賭けながら生きている。
「事実」として客観的に確認できるわけではない価値を、敢えて自分の意志で選び取るわけですから、そこには当然、責任が発生する。そして責任を取るからには、そこには同時に「プライド」もかかってきます。ツイッターなどを眺めていればすぐにわかることですが、自分の価値判断を表明して、それを他者に否定されると、ほとんどの人は怒りを感じる。価値判断には責任と同時に、プライドがかかっているからです。「意見と人格は分けるべき」などと、無茶を言う人も中にはいますが、そういう人がいざ自分の「意見」を否定されると、怒りを隠せずにいることがしばしばなのは、私たちが日常よく観察する出来事ですね。
要するに、誰でもが(「宗教」という名がそこにつくかどうかには関わりなく)自分の「信仰」をもっており、意識の度合いの濃淡はあれ、そこに責任とプライドをかけながら生きている。誰でもが、自分の「信仰」をできれば他者に承認して欲しいと願っているし、それを正面から否定されると怒りを感じる。そして、その怒りから生じた対立は、時に暴力にまで、発展することもある。
既におわかりのように、この事情自体は、「宗教」という名分がそこに冠されるかどうかには関わりなく、人類のコミュニケーション全体について普遍的なことです。もちろん、宗教が自分たちにとっての「絶対的なもの」を、この世において実現しようとした場合、その対立にドライブがかかるということはあるでしょう。ただ、それもまた「宗教」に限った事情では必ずしもありません。例えば「正義」という名分の下に、同じことが行われることがままあるのは、私たちが十分に知っているところですから。
いつも繰り返し述べていることですが、ここでも私が言いたいのは、「宗教や信仰をもて」ということではなくて、「何も信じていない人などいないのだから、せめて私たちは、自分の信仰に可能な限り自覚的であるべきだ」ということです。
最初の問題に戻りますと、「宗教不要論」をどうしても他者に承認させたいという欲望がある人たちには、あなたの根底にあって、あなたを衝き動かしているその欲望自体が、実はあなた自身が問題視している現象の、根源的な原因になっている可能性を、少し考えてみてほしいのですね。
自分は愚かな信仰から自由な立場からものを言っているのだから、迷妄に毒されている人々を批判するのは全く「正しい」。そのように考えてしまうならば、それは実のところ、「宗教はいらない教」の信者が、他宗教の信者を「気に入らないから」という理由で罵っているという構図と、たいして変わるところがありません。
誤解してほしくはないのですが、このように言うことで、私は「宗教や信仰を批判するな」と主張しているわけではありません。ただ、批判するのであれば、それを自分自身もそこから免れてはいないところの、人類にとっての普遍的な問題とリンクさせつつ考えないと、結局のところ自分自身も批判対象と同じ行為を無自覚のまま行なってしまうことになる。ゆえに、批判を生産的なものにしたいのであれば、自分が「何」を問題にしていて、また「なぜ」それを批判したいと思うのかを、よくよく省察してみてほしい、ということですね。
朝に書くと脳が頑張ってしまうので、ついまたこんな長文を書いてしまいました。次の更新は再び夜に戻して、まったり軽めに続けていきたいと思います。
(部屋のすぐ近くに蛇が出現!)
ニコ生で放送などをしていると、ときどき「僕は宗教なんて必要ないと思うんだけど」といった趣旨のコメントをもらうことがあります。そして、それに対する私の返答は昔からずっと決まっていて、「もちろん、あなたにとっては必要ないんだと思いますよ。ただ、世界の現状を見れば、それを必要だと考えている人が一定数存在するのは自明のことです。その人たちにはその人たちの人生と価値体系があるわけだし、あなたにはあなたの人生と価値体系がある。日本においては幸運なことに、宗教に関わらなくても生きていけるし、そのほうが『健全』であるとも考えられているのだから、あなたが宗教を不要だと考えるなら、あなたは関わらなければいいんですよ」と言うことにしています。
私としては、これで十分な返答だと思っているのですが、それに納得できない人たちも一定数はいて、かなり攻撃的なコメントを連投しはじめたり、中には「お前は仏教徒のくせに、俺に真面目に仏教を押しつけないとは何事だ!」みたいな、ものすごい怒りだし方をする人もいました。
正直なところ、私は自分がいわゆる「仏教徒」であるかどうかについては懐疑的です。私にとっていちばん大切なことは、自分が信じて実行するに足る「生き方の筋」を、可能な限り予断を排しつつ探求するということであって、仏教はそのための有力な手段の一つ、インド思想の術語で言えば、プラマーナ(真理の認識手段)の一つにすぎない。したがって、「仏教」という名の下に語られることであれば、全てを無前提に受け入れるということは全く論外ですし、いつも言っているように、私が俗人として生きるにあたって、自分の行為の準則として実際に採用しているのは、仏教よりもむしろ陽明学です。
ただ、そうは言っても「ニー仏」などという名前で活動をしている以上、私のことを「仏教徒」であると考えて、ひいては「宗教側」の人間として応答を求める人が出てくるのも、ある程度は仕方のないことなのかもしれません。
そう思うので、「宗教側」として穏当であると思われる、上述のような答えをいつも返すようにしているのですが、まあ納得できない・したくない人たちは、どうしても一定数いるようです。
そういった人たちに対して、私が(余計に話がこじれるのはわかっているので)直接には言わないけれど、いつも心に思うことが一つあって、それは、「そのように対立をつくりだした上で、なんとしてでも他者を自分の考え方に同調させないと気が済まないという、あなた自身のナラティブに表現されてしまっている根本的な傾向そのものを、もう少し省察してみたほうがいいんじゃないか」ということです。
おそらく彼らの言い分としては、「宗教は人々が対立する原因になるし、その結果として、はなはだしくはテロを起こすようなこともある。したがって、それを批判することは正当だ」ということなのだろうと思います。そしてそれはたぶん一定程度、「正しい」批判でもあるのでしょう。
ただ、私が気になるのは、それを言う人たちの中に、「そうした対立は『宗教が』その原因になっているのであって、宗教をもたない自分たちはそうした動因から自由である。したがって、みんなが自分と同じように考えるようになれば宗教はなくなるし、余計な対立もなくなるはずだ」という発想が、見受けられがちなところです。こうした発想は、私の見方からすれば、全くナイーブなものであると言わざるを得ません。
何度も繰り返し述べているように、「何も信じていない人」というのは、この世にはいない。意識的か無意識的かの差はあるけれども、誰だって究極的には「無根拠」な何らかの価値を「信じて」いて、そこに一瞬一瞬、自分を賭けながら生きている。
「事実」として客観的に確認できるわけではない価値を、敢えて自分の意志で選び取るわけですから、そこには当然、責任が発生する。そして責任を取るからには、そこには同時に「プライド」もかかってきます。ツイッターなどを眺めていればすぐにわかることですが、自分の価値判断を表明して、それを他者に否定されると、ほとんどの人は怒りを感じる。価値判断には責任と同時に、プライドがかかっているからです。「意見と人格は分けるべき」などと、無茶を言う人も中にはいますが、そういう人がいざ自分の「意見」を否定されると、怒りを隠せずにいることがしばしばなのは、私たちが日常よく観察する出来事ですね。
要するに、誰でもが(「宗教」という名がそこにつくかどうかには関わりなく)自分の「信仰」をもっており、意識の度合いの濃淡はあれ、そこに責任とプライドをかけながら生きている。誰でもが、自分の「信仰」をできれば他者に承認して欲しいと願っているし、それを正面から否定されると怒りを感じる。そして、その怒りから生じた対立は、時に暴力にまで、発展することもある。
既におわかりのように、この事情自体は、「宗教」という名分がそこに冠されるかどうかには関わりなく、人類のコミュニケーション全体について普遍的なことです。もちろん、宗教が自分たちにとっての「絶対的なもの」を、この世において実現しようとした場合、その対立にドライブがかかるということはあるでしょう。ただ、それもまた「宗教」に限った事情では必ずしもありません。例えば「正義」という名分の下に、同じことが行われることがままあるのは、私たちが十分に知っているところですから。
いつも繰り返し述べていることですが、ここでも私が言いたいのは、「宗教や信仰をもて」ということではなくて、「何も信じていない人などいないのだから、せめて私たちは、自分の信仰に可能な限り自覚的であるべきだ」ということです。
最初の問題に戻りますと、「宗教不要論」をどうしても他者に承認させたいという欲望がある人たちには、あなたの根底にあって、あなたを衝き動かしているその欲望自体が、実はあなた自身が問題視している現象の、根源的な原因になっている可能性を、少し考えてみてほしいのですね。
自分は愚かな信仰から自由な立場からものを言っているのだから、迷妄に毒されている人々を批判するのは全く「正しい」。そのように考えてしまうならば、それは実のところ、「宗教はいらない教」の信者が、他宗教の信者を「気に入らないから」という理由で罵っているという構図と、たいして変わるところがありません。
誤解してほしくはないのですが、このように言うことで、私は「宗教や信仰を批判するな」と主張しているわけではありません。ただ、批判するのであれば、それを自分自身もそこから免れてはいないところの、人類にとっての普遍的な問題とリンクさせつつ考えないと、結局のところ自分自身も批判対象と同じ行為を無自覚のまま行なってしまうことになる。ゆえに、批判を生産的なものにしたいのであれば、自分が「何」を問題にしていて、また「なぜ」それを批判したいと思うのかを、よくよく省察してみてほしい、ということですね。
朝に書くと脳が頑張ってしまうので、ついまたこんな長文を書いてしまいました。次の更新は再び夜に戻して、まったり軽めに続けていきたいと思います。
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他343件のコメントを表示
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無宗教も一つの宗教として考えれば、宗教を無くすことというのは極めて困難であり、むしろ不可能です。
どの宗教も力が大きくほど(信者が多くほど)思考停止に落ちってしまう可能性が高い、
他人と自分との違いを受け入れられなくて、究極の平等(皆を無理矢理自分と同じにする)に走ってしまう。
例:昔のキリスト教、唯一神教互いの戦い、フェミ、シーシェパード、過激な○×団体
この暴走を防ぐために日本にいるのが唯一神教ではなく多神教であり、結果的に文化的な多様性に達成した。
維新の頃に列強に植民地として支配されることを恐れながらも、思考停止してあいつらの文化を全て鵜呑みとはしなかったんだ。
どの宗教も力が大きくほど(信者が多くほど)思考停止に落ちってしまう可能性が高い、
他人と自分との違いを受け入れられなくて、究極の平等(皆を無理矢理自分と同じにする)に走ってしまう。
例:昔のキリスト教、唯一神教互いの戦い、フェミ、シーシェパード、過激な○×団体
この暴走を防ぐために日本にいるのが唯一神教ではなく多神教であり、結果的に文化的な多様性に達成した。
維新の頃に列強に植民地として支配されることを恐れながらも、思考停止してあいつらの文化を全て鵜呑みとはしなかったんだ。
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>>361
理解はできるが納得はしないって状態でいいんじゃないかな。
宗教っていうからなんか胡散臭くなるんであって、
あなたは神はいないという心の柱をもっている。
信仰者は神はいるという心の柱をもっている。
それぞれの心の柱に基づいて価値や判断をしている。
そこには善悪なんてものは存在しないのでは無いかと思う。
自分と違う考え方に触れると嫌悪感が先走るのは仕方のない事ですけどね。
深く掘り下げたくないのであれば、宗教はスルーすればいいし。
深く掘り下げるつもりがあるのなら、信仰者に突っ込みを入れたり文献調べたりして。
どういう経緯で宗教は成り立ってきたのかとか勉強したりすると、理解は出来るようになると思うよ。
理解はできるが納得はしないって状態でいいんじゃないかな。
宗教っていうからなんか胡散臭くなるんであって、
あなたは神はいないという心の柱をもっている。
信仰者は神はいるという心の柱をもっている。
それぞれの心の柱に基づいて価値や判断をしている。
そこには善悪なんてものは存在しないのでは無いかと思う。
自分と違う考え方に触れると嫌悪感が先走るのは仕方のない事ですけどね。
深く掘り下げたくないのであれば、宗教はスルーすればいいし。
深く掘り下げるつもりがあるのなら、信仰者に突っ込みを入れたり文献調べたりして。
どういう経緯で宗教は成り立ってきたのかとか勉強したりすると、理解は出来るようになると思うよ。
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神様がいないと100%の証明はできませんが限りなく0に近いと思っているので、なんの根拠もなしに神様を信じてる人を見るとそれは事実と違うよと言いたくなってしまうんです。(まあ、ほっといてくれよというかもしれませんが)
良い悪いという話でもない(神というものが曖昧だから悪用しやすいという側面もある)物の考え方の違いであればそういう考え方もあるのだなと思えるのですが・・・
宗教の教えによる良い影響もあるし、真っ向から否定しようものならそれが争いの原因にもなりうるので現状で宗教を排除するといことは無理だと思いますが、科学が進歩するにつれて今より衰退していくのではないでしょうか?
>>363
文献を調べたりして勉強すれば宗教に対する嫌悪感も和らぐかもしれませんね
良い悪いという話でもない(神というものが曖昧だから悪用しやすいという側面もある)物の考え方の違いであればそういう考え方もあるのだなと思えるのですが・・・
宗教の教えによる良い影響もあるし、真っ向から否定しようものならそれが争いの原因にもなりうるので現状で宗教を排除するといことは無理だと思いますが、科学が進歩するにつれて今より衰退していくのではないでしょうか?
>>363
文献を調べたりして勉強すれば宗教に対する嫌悪感も和らぐかもしれませんね
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>>361
「宗教」に関してもいろいろな学問においてそれぞれの学術用語での定義とか
辞書によるものだとか色いろあるのだろうけれど
たとえば、神なんかいないよと考えてはいるが
輪廻転生を信じている人がいるとすると(祖霊信仰を伴わないものとして)
それはまぁ、「死生観」「世界観」とも言えるんでしょうが
そういう明確な神が不在でも「宗教」あるいは「宗教っぽいモノ」は可能だと思われます
神の教えも、神っていう主語があることわざみたいなもんだと考えておけばいいのでは?
基本的に、ある共同体(社会)において生きるに間違いがないようにという言葉なので
嫌悪感を持つ必要もないように思われます
ただ、神の教えというのも変容したり、個人の勝手な解釈が入ったりするので
この人が考えている神の教えなんだな、と保留をすべきだとは思いますが
「宗教」に関してもいろいろな学問においてそれぞれの学術用語での定義とか
辞書によるものだとか色いろあるのだろうけれど
たとえば、神なんかいないよと考えてはいるが
輪廻転生を信じている人がいるとすると(祖霊信仰を伴わないものとして)
それはまぁ、「死生観」「世界観」とも言えるんでしょうが
そういう明確な神が不在でも「宗教」あるいは「宗教っぽいモノ」は可能だと思われます
神の教えも、神っていう主語があることわざみたいなもんだと考えておけばいいのでは?
基本的に、ある共同体(社会)において生きるに間違いがないようにという言葉なので
嫌悪感を持つ必要もないように思われます
ただ、神の教えというのも変容したり、個人の勝手な解釈が入ったりするので
この人が考えている神の教えなんだな、と保留をすべきだとは思いますが