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昨夜は『老子』を引用しつつ、長大なエントリを書いていた。「上善は水のごとし」から、『老子』における有名と無名および有欲と無欲、小国寡民、儒家思想との対比まで。しかし、前提として説明しなければならないことが多すぎて、書いても書いても本題にたどり着かず、結局お蔵入りにしてしまった。「こういうのはブログでやることじゃないなあ」と、改めて思った次第。

(水底の光)
老荘というのは、儒家より「自由」なイメージがあるようで、「だから好きだ」という人も多いのだが、テキストから得られる率直な感想として、私にはあまりそうは思えない。
「現実性」と「本来性」という荒木見悟の用語で言えば、老荘は基本的に、本来性へと関心を傾注している思想だと思う。そのこと自体は悪くないのだが、本来性への志向が急であるあまり、老荘には現実性を避けるというか、むしろそれを小馬鹿にして、本来性に引きこもりつつ 現実性を皮肉ってみせるようなところがある。漢族が勢いを失っていた六朝の時代に、この学が「玄学」として知識人のあいだに盛行したのも、そのことと無関係ではないだろう。
だが、『老子』自身もそう説くように(第一章)、本来性の世界と現実性の世界は、その根源においては一つのものだ。本来的には一つの世界を二つに分けて、その一方を褒めて他方を貶すという選択をすれば、その思想はどうしたって歪んでくる。第六十五章に説かれている、かの悪名高い、『老子』のいわゆる「愚民政治」などは、その一つの象徴的な帰結なのではないかと思う。
あるいは第八十章。武器は使わないが文明の利器の使用もせず、文字の代わりに結縄を用い、鶏犬の声が聞こえる隣村とも交流しないまま人々が生きてゆく、あの「小国寡民」の世界像。『老子』はこれをユートピアとして描くけれども、私から見れば、これはまるで「市民、純朴は義務です!」という声が聞こえてきそうなディストピアだ。知人のある優秀な中国学者が、 「『老子』ってのは、ありゃ危険思想だろ」と、言っていたのを思い出す。
宋代以降の儒家たちが、本来性の豊饒さを十分に知りながら、それでもなお現実性に生きようとして、有為の動に無為の静を繰り込もうとする思想的な冒険に乗り出していたことを思い起こせば、『老子』の哲学は、「不自由」とまでは言わないけれども、ずいぶん世界を狭く使っているのではないかという気が私にはする。「自由」というのは世界を分けて、その一部に引きこもることで達成されるようなものではなくて、むしろヘーゲルがそう言ったように、「制限の中にありながら、己を失わずにいられること」なのではないか。私が宋明の儒家思想、わけても王陽明の学問を、「偏愛」する所以である。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」というのは、サンテックの有名な言葉だけれども、これを逆方向から考えれば、どこを見ても井戸だけの世界、水ばかりあって砂漠がどこにもない世界は、あまり美しいものではないだろうと私は思う。全ての住民が水のようである、『老子』の描く理想社会が、私たちの目から見れば、そのままディストピアであったように。
水であるよりも、水を隠した砂漠であること。「現実性」の本来的な無意味さを知りながら、にもかかわらずというか、むしろだからこそ、その美しさを楽しむこと。ブロマガのタイトルにも表れているけれども、私がこの場で言いたいのは、結局のところそれだけなのだと思う。余分なことの美しさ。
(水底の光)
老荘というのは、儒家より「自由」なイメージがあるようで、「だから好きだ」という人も多いのだが、テキストから得られる率直な感想として、私にはあまりそうは思えない。
「現実性」と「本来性」という荒木見悟の用語で言えば、老荘は基本的に、本来性へと関心を傾注している思想だと思う。そのこと自体は悪くないのだが、本来性への志向が急であるあまり、老荘には現実性を避けるというか、むしろそれを小馬鹿にして、本来性に引きこもりつつ 現実性を皮肉ってみせるようなところがある。漢族が勢いを失っていた六朝の時代に、この学が「玄学」として知識人のあいだに盛行したのも、そのことと無関係ではないだろう。
だが、『老子』自身もそう説くように(第一章)、本来性の世界と現実性の世界は、その根源においては一つのものだ。本来的には一つの世界を二つに分けて、その一方を褒めて他方を貶すという選択をすれば、その思想はどうしたって歪んでくる。第六十五章に説かれている、かの悪名高い、『老子』のいわゆる「愚民政治」などは、その一つの象徴的な帰結なのではないかと思う。
あるいは第八十章。武器は使わないが文明の利器の使用もせず、文字の代わりに結縄を用い、鶏犬の声が聞こえる隣村とも交流しないまま人々が生きてゆく、あの「小国寡民」の世界像。『老子』はこれをユートピアとして描くけれども、私から見れば、これはまるで「市民、純朴は義務です!」という声が聞こえてきそうなディストピアだ。知人のある優秀な中国学者が、 「『老子』ってのは、ありゃ危険思想だろ」と、言っていたのを思い出す。
宋代以降の儒家たちが、本来性の豊饒さを十分に知りながら、それでもなお現実性に生きようとして、有為の動に無為の静を繰り込もうとする思想的な冒険に乗り出していたことを思い起こせば、『老子』の哲学は、「不自由」とまでは言わないけれども、ずいぶん世界を狭く使っているのではないかという気が私にはする。「自由」というのは世界を分けて、その一部に引きこもることで達成されるようなものではなくて、むしろヘーゲルがそう言ったように、「制限の中にありながら、己を失わずにいられること」なのではないか。私が宋明の儒家思想、わけても王陽明の学問を、「偏愛」する所以である。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」というのは、サンテックの有名な言葉だけれども、これを逆方向から考えれば、どこを見ても井戸だけの世界、水ばかりあって砂漠がどこにもない世界は、あまり美しいものではないだろうと私は思う。全ての住民が水のようである、『老子』の描く理想社会が、私たちの目から見れば、そのままディストピアであったように。
水であるよりも、水を隠した砂漠であること。「現実性」の本来的な無意味さを知りながら、にもかかわらずというか、むしろだからこそ、その美しさを楽しむこと。ブロマガのタイトルにも表れているけれども、私がこの場で言いたいのは、結局のところそれだけなのだと思う。余分なことの美しさ。
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僕は「本来性」という用語になじみがないのですが、
それは「~は、・・・であるべきだ」の・・・にあたるような意味合いでしょうか?
本質的、と言い換えてもいいのですが。
僕はキルケゴールなどの実存主義哲学に共感を覚える人間なので、
「現実性」を「可能性」との対比でとらえたほうがしっくりときますね。
たくさんある「可能性」の内、ただ一つの可能性だけが他の可能性を根絶して「現実性」を獲得できる、というようなイメージで、
「現実性とは、根絶された可能性である」という規定の元に捉えたくなります。
「現実性」を「本来性」との対比でとらえるのって、ちょっと傲慢な感じがして気持ち悪いですね・・・
「その本来性は、あなたの趣味趣向が多分に含まれた規定に過ぎないでしょう」なんて言いたくなります
それは「~は、・・・であるべきだ」の・・・にあたるような意味合いでしょうか?
本質的、と言い換えてもいいのですが。
僕はキルケゴールなどの実存主義哲学に共感を覚える人間なので、
「現実性」を「可能性」との対比でとらえたほうがしっくりときますね。
たくさんある「可能性」の内、ただ一つの可能性だけが他の可能性を根絶して「現実性」を獲得できる、というようなイメージで、
「現実性とは、根絶された可能性である」という規定の元に捉えたくなります。
「現実性」を「本来性」との対比でとらえるのって、ちょっと傲慢な感じがして気持ち悪いですね・・・
「その本来性は、あなたの趣味趣向が多分に含まれた規定に過ぎないでしょう」なんて言いたくなります