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ここ数日のヤンゴンは晴れもよう。今朝はちょっとだけ降りましたけど、すぐに止んでしまって、いまはピーカン。洗濯にはいい天気ですが、どうも暑くてかないません。

ツイッターで、「仏道修行というのは人格の向上である」という趣旨のツイートを見かけまして、ちょっと昔のことを思い出しました。ミャンマーの瞑想センターで、世界的に有名な、上座部保守本流の瞑想をやっているところがあるのですが、そこに私が行った時、七年以上滞在して瞑想を続けていらっしゃる、日本人僧侶の方とお会いした。
その際に、彼が私に開口一番に言ったことが本当に凄くて、「ここでいくら瞑想をやっても、人格はよくなりませんよ」と言われた。人格云々の話を私から出したわけでは全くないので、おそらく彼の中に、色々と深く思うところがあったのだろうと思うのですが、いずれにせよ、たいへん印象深い出来事でした。
そんなこともあったので、「仏道修行」と「人格の向上」との関係については、多少なりとも思うところがあったのですが、上記のツイートを見かけて、そのことを久しぶりに思い出したわけです。
もちろんいつも言うように、「仏教」と一口に言っても、それは多様な展開を内に含む思想的な運動全体のことですから、この問題についても一義的な結論は出しにくい。宗派ごとにも個人ごとにも違った解釈があり得ますから、当該ツイートのような考え方も、それはそれで当然アリです。
ただ、私個人の考え方を言えば、少なくともゴータマ・ブッダの仏教に関して言えば、それは人格の向上「のために」説かれたものではなかった、あるいは換言すれば、人格の向上を第一義的な目的とする教説では必ずしもなかったと、現時点では考えています。
さて、この問題を考える際、第一に指摘しなければならないことは、やはり何よりも、ゴータマ・ブッダが「苦からの解脱」という自分自身の問題を解決するために、妻子を捨てて出家しているということです。これを「一切衆生を利益するために必要なことだったのだから仕方ない」と 強弁するような人も中にはいますが、そんなゴマカシを言ってはいけない。成道直後に、彼は「為されるべきことは為された」と言って、最初は説法するつもりもなかったのだから、彼にとっての「修行の目的」が、まず第一義的には「自分自身の苦からの解脱」であったことは、とりあえず明らかなこととして、認めておかねばなりません。
そして自分自身の問題を解決するために、妻と生まれたばかりの子供を捨てて出家したことは、世俗的な善悪の基準から考えれば、やはりどう考えても「済まぬこと」です。「素晴らしい人格」というのは、少なくとも一般的には、世俗的な「善」の基準によく合致し、他者を悲しませたりはしない人格に対して使われる言葉だと思うのですが、ゴータマ・ブッダは、そのような基準で自己の行動を決定してはいなかった。彼はあくまで、「自分の利益」のために動いている。
では、ここで言う「自分の利益」とは何か。仏教の基本教理から言えば、それは当然のことながら、涅槃に到達して苦からの解脱を達成することです。そして涅槃というのは「生滅滅已、寂滅為楽(uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho)」ということですから、生成消滅する現象の世界を離れたものである。ゆえに、そこには当然のことながら、世俗的な意味での「善悪」はない。生成消滅する現象も、それに対する judgement も、ともに離れているからこそ、苦からの解脱も、達成されるわけですから。
要するに、涅槃というのはその本性上、「無善無悪」のものでしかあり得ない(もちろん、それに「至善」とか「上善」といった名前をつけることは、お好みであれば可能です)。そして ゴータマ・ブッダの仏教というのは、そのような涅槃に到達することを至上の価値とする教説ですから、その教えの基本線から、世俗的な善悪の基準を「直接的に」導こうとすることは、原理上できません。
もちろん、「諸悪莫作、衆善奉行」と説く七仏通戒偈をはじめとして、「善悪」について説く教説は初期経典にも枚挙に暇がありませんし、そもそも「善因楽果、悪因苦果」というのは、仏説の基本中の基本と言える教理です。とはいえ、その場合の「善」や「悪」は、あくまで涅槃に到達することを至上の価値として設定した上で、それに繋がることが「善」であり、そこから離れることが「悪」であると、究極的には定められている。「善因楽果」というのも、裏返しに言えば、「自分にとって楽の結果をもたらすものが善である」ということですから、それは世俗的な意味における社会的・一般的な「善」というものとは、必ずしもぴったり重ならない。例えば、その基準で言った場合、ゴータマ・ブッダが妻子を捨てて出家したことは、普通に「善」であるという判定を、受けることになるわけですから。
仏教学者の中にも、おそらくはこうした事情を勘案してのことでしょうが、「仏教から世俗的な善悪の倫理を直接的に導くことはできない」という立場をとる人たちは存在します。私も基本的には、その考え方に賛成ですね。「倫理」というのが、和辻哲郎が規定したように、「人の間としての人間」のものであるのだとすれば、仏教には明らかに、それを踏み越えてしまうところがある。「佛」という字が端的に示してくれているように、悟って仏になるということは、ある意味では「人間」であるということを、やめてしまうということですから。
ただし、誤解のないよう付け加えておきますが、仏教には上述のように、世俗的な意味での善悪を超えてしまうところがあるのですが、それはあくまで「脱善悪」ということであって、「反善悪」ではありません。律蔵(僧侶の生活規範を定めた法規集のようなもの)などを見てみれば一目瞭然のことですが、「自分の利益」のために「脱善悪」の道を追求する集団が、社会において存続していこうとするならば、むしろ世俗的な善悪の基準には、人一倍敏感であらねばならない。そのあたりの事情については、例えば佐々木閑先生の著作において、詳述されているとおりです。
仏教には、世俗的な善悪の基準に超然としたところがありますが、「超然」としているということは、逆に言えば、そのほうが穏当なのであれば、世俗的な善悪の基準にしたがっておいて構わない、ということでもあります。仏教の戒律はその観点から、当時の社会常識に即しており、そして僧侶に対しては俗人の尊敬を受けるに値する振る舞いの規範を定めていますが、そのようにすることで、仏教は「脱社会・脱善悪」の集団を、二千五百年にわたって存続させることに成功したわけですね。
とはいえ、そうはいってもゴータマ・ブッダの仏教の究極的な目標であり価値であるものが、上述したように「無善無悪」の涅槃への到達であり、もって自分自身の「苦からの解脱」を達成することであるのは変わりがありません。もちろん、ブッダの示した規範にしたがって生活することで、一般的に言われる意味での「人格の向上」が起こることはあるかもしれない。しかし、それはあくまで彼の教説の副次的な効果であって、その目的の第一義ではありません。 ゴータマ・ブッダの教説は、人格の向上「のために」説かれたものではなかったと、本エントリの冒頭に記しましたが、私がそのように考えるのは、以上のような理由によるわけです。
ツイッターで、「仏道修行というのは人格の向上である」という趣旨のツイートを見かけまして、ちょっと昔のことを思い出しました。ミャンマーの瞑想センターで、世界的に有名な、上座部保守本流の瞑想をやっているところがあるのですが、そこに私が行った時、七年以上滞在して瞑想を続けていらっしゃる、日本人僧侶の方とお会いした。
その際に、彼が私に開口一番に言ったことが本当に凄くて、「ここでいくら瞑想をやっても、人格はよくなりませんよ」と言われた。人格云々の話を私から出したわけでは全くないので、おそらく彼の中に、色々と深く思うところがあったのだろうと思うのですが、いずれにせよ、たいへん印象深い出来事でした。
そんなこともあったので、「仏道修行」と「人格の向上」との関係については、多少なりとも思うところがあったのですが、上記のツイートを見かけて、そのことを久しぶりに思い出したわけです。
もちろんいつも言うように、「仏教」と一口に言っても、それは多様な展開を内に含む思想的な運動全体のことですから、この問題についても一義的な結論は出しにくい。宗派ごとにも個人ごとにも違った解釈があり得ますから、当該ツイートのような考え方も、それはそれで当然アリです。
ただ、私個人の考え方を言えば、少なくともゴータマ・ブッダの仏教に関して言えば、それは人格の向上「のために」説かれたものではなかった、あるいは換言すれば、人格の向上を第一義的な目的とする教説では必ずしもなかったと、現時点では考えています。
さて、この問題を考える際、第一に指摘しなければならないことは、やはり何よりも、ゴータマ・ブッダが「苦からの解脱」という自分自身の問題を解決するために、妻子を捨てて出家しているということです。これを「一切衆生を利益するために必要なことだったのだから仕方ない」と 強弁するような人も中にはいますが、そんなゴマカシを言ってはいけない。成道直後に、彼は「為されるべきことは為された」と言って、最初は説法するつもりもなかったのだから、彼にとっての「修行の目的」が、まず第一義的には「自分自身の苦からの解脱」であったことは、とりあえず明らかなこととして、認めておかねばなりません。
そして自分自身の問題を解決するために、妻と生まれたばかりの子供を捨てて出家したことは、世俗的な善悪の基準から考えれば、やはりどう考えても「済まぬこと」です。「素晴らしい人格」というのは、少なくとも一般的には、世俗的な「善」の基準によく合致し、他者を悲しませたりはしない人格に対して使われる言葉だと思うのですが、ゴータマ・ブッダは、そのような基準で自己の行動を決定してはいなかった。彼はあくまで、「自分の利益」のために動いている。
では、ここで言う「自分の利益」とは何か。仏教の基本教理から言えば、それは当然のことながら、涅槃に到達して苦からの解脱を達成することです。そして涅槃というのは「生滅滅已、寂滅為楽(uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho)」ということですから、生成消滅する現象の世界を離れたものである。ゆえに、そこには当然のことながら、世俗的な意味での「善悪」はない。生成消滅する現象も、それに対する judgement も、ともに離れているからこそ、苦からの解脱も、達成されるわけですから。
要するに、涅槃というのはその本性上、「無善無悪」のものでしかあり得ない(もちろん、それに「至善」とか「上善」といった名前をつけることは、お好みであれば可能です)。そして ゴータマ・ブッダの仏教というのは、そのような涅槃に到達することを至上の価値とする教説ですから、その教えの基本線から、世俗的な善悪の基準を「直接的に」導こうとすることは、原理上できません。
もちろん、「諸悪莫作、衆善奉行」と説く七仏通戒偈をはじめとして、「善悪」について説く教説は初期経典にも枚挙に暇がありませんし、そもそも「善因楽果、悪因苦果」というのは、仏説の基本中の基本と言える教理です。とはいえ、その場合の「善」や「悪」は、あくまで涅槃に到達することを至上の価値として設定した上で、それに繋がることが「善」であり、そこから離れることが「悪」であると、究極的には定められている。「善因楽果」というのも、裏返しに言えば、「自分にとって楽の結果をもたらすものが善である」ということですから、それは世俗的な意味における社会的・一般的な「善」というものとは、必ずしもぴったり重ならない。例えば、その基準で言った場合、ゴータマ・ブッダが妻子を捨てて出家したことは、普通に「善」であるという判定を、受けることになるわけですから。
仏教学者の中にも、おそらくはこうした事情を勘案してのことでしょうが、「仏教から世俗的な善悪の倫理を直接的に導くことはできない」という立場をとる人たちは存在します。私も基本的には、その考え方に賛成ですね。「倫理」というのが、和辻哲郎が規定したように、「人の間としての人間」のものであるのだとすれば、仏教には明らかに、それを踏み越えてしまうところがある。「佛」という字が端的に示してくれているように、悟って仏になるということは、ある意味では「人間」であるということを、やめてしまうということですから。
ただし、誤解のないよう付け加えておきますが、仏教には上述のように、世俗的な意味での善悪を超えてしまうところがあるのですが、それはあくまで「脱善悪」ということであって、「反善悪」ではありません。律蔵(僧侶の生活規範を定めた法規集のようなもの)などを見てみれば一目瞭然のことですが、「自分の利益」のために「脱善悪」の道を追求する集団が、社会において存続していこうとするならば、むしろ世俗的な善悪の基準には、人一倍敏感であらねばならない。そのあたりの事情については、例えば佐々木閑先生の著作において、詳述されているとおりです。
仏教には、世俗的な善悪の基準に超然としたところがありますが、「超然」としているということは、逆に言えば、そのほうが穏当なのであれば、世俗的な善悪の基準にしたがっておいて構わない、ということでもあります。仏教の戒律はその観点から、当時の社会常識に即しており、そして僧侶に対しては俗人の尊敬を受けるに値する振る舞いの規範を定めていますが、そのようにすることで、仏教は「脱社会・脱善悪」の集団を、二千五百年にわたって存続させることに成功したわけですね。
とはいえ、そうはいってもゴータマ・ブッダの仏教の究極的な目標であり価値であるものが、上述したように「無善無悪」の涅槃への到達であり、もって自分自身の「苦からの解脱」を達成することであるのは変わりがありません。もちろん、ブッダの示した規範にしたがって生活することで、一般的に言われる意味での「人格の向上」が起こることはあるかもしれない。しかし、それはあくまで彼の教説の副次的な効果であって、その目的の第一義ではありません。 ゴータマ・ブッダの教説は、人格の向上「のために」説かれたものではなかったと、本エントリの冒頭に記しましたが、私がそのように考えるのは、以上のような理由によるわけです。
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プロテスタント正統主義・改革派=カルバン派のキリスト教と倫理というのは、仏教とは逆で密着していて、やっぱり興味深い違いですね。キリスト教の最終目標は何かというのは、様々な物言いができますが、たぶん「神の栄光を表しそれを楽しむこと」だと思うんです。
そして、その栄光の表現経路がキリスト教倫理という構造になってます。で、その倫理とは何かというと、神を愛し、隣人を愛することにあり、神を愛することは十戒の前半4つ、人を愛することはその後半6つに集約されてるわけですが、キリスト教において倫理とは、神の栄光を楽しむための手段とか器なんだと思うんです。
『仏教は「脱社会・脱善悪」の集団を、二千五百年にわたって存続させることに成功した』とありますが、キリスト教は「築社会・築善悪」の集団を(ryとなりますかね。つまり、キリスト教という意味世界の構築に成功した。この辺りが、水の流れのように縁と空の中に全てを解体していく仏教的生の在り方と、キリスト教の創造主の御前でのビビッドな存在論との違いが現れているようで興味深いです。
キリスト教の場合は、十戒から国家論へと展開も可能なので、仏教倫理との比較は楽しいものになりますね。上座部だけでなく、チベット仏教と国家論とか興味深いです。もっとも仏教のことに触れる基礎教養がないし、キリスト教も非常に狭い範囲のことしか僕は知らないので、まず足元を固めていくしかないんですがね(´・ω・`)少年老い易く学成り難し。アーメン。
そして、その栄光の表現経路がキリスト教倫理という構造になってます。で、その倫理とは何かというと、神を愛し、隣人を愛することにあり、神を愛することは十戒の前半4つ、人を愛することはその後半6つに集約されてるわけですが、キリスト教において倫理とは、神の栄光を楽しむための手段とか器なんだと思うんです。
『仏教は「脱社会・脱善悪」の集団を、二千五百年にわたって存続させることに成功した』とありますが、キリスト教は「築社会・築善悪」の集団を(ryとなりますかね。つまり、キリスト教という意味世界の構築に成功した。この辺りが、水の流れのように縁と空の中に全てを解体していく仏教的生の在り方と、キリスト教の創造主の御前でのビビッドな存在論との違いが現れているようで興味深いです。
キリスト教の場合は、十戒から国家論へと展開も可能なので、仏教倫理との比較は楽しいものになりますね。上座部だけでなく、チベット仏教と国家論とか興味深いです。もっとも仏教のことに触れる基礎教養がないし、キリスト教も非常に狭い範囲のことしか僕は知らないので、まず足元を固めていくしかないんですがね(´・ω・`)少年老い易く学成り難し。アーメン。