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慈悲と優しさ
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慈悲と優しさ

2013-06-19 23:57
  • 4
今日は朝から雨降りでしたが、夕方にはやみました。久しぶりに走りに出たら、頭痛がしてきて運動不足を実感するなど。





『老子』の第五章に、「天地は不仁、万物をもって芻狗と為す」という言葉があります。私は『老子』の哲学にちょうど半分だけ同意するのですが、これは本書の世界認識の凄みが出ていて、なかなか好きな言葉です。

「芻狗」というのは祭礼に使う、藁で作った犬のこと。用が済んだら、当然のごとく打ち捨てられます。「不仁」というのは、孔子学派の言う「仁(=仁愛)」を意識した言葉遣いで、つまりは冷徹非情のこと。ですからこの文章は、 「天地自然というのは無慈悲で非情なものであって、万物を藁人形のように使い捨てにする」という意味になる。こういうことをスパッと言うのは、『老子』の好きなところですね。

とはいえ、もちろんこれだけの主張であれば、「いや、そもそも自然法則は人情とは無関係に進行するものであって、だから存在に意味なんてない。そんなことはわかりきってる」と、いまどきは小学生でも言うかもしれません。上記の『老子』の言葉の「破壊力」を、正しく理解するためには、たぶんもう一本、補助線を引く必要がある。


そこで私が思い出すのは、仏教における「慈悲」の概念です。「慈悲」というのは、一般に言う「優しさ」と、しばしば混同されるのですが、両者には明白な違いがある。その違いとは、 行為者の内面において、「慈悲」のほうには常に「捨(equanimity)」の心が伴っているのに対して、「優しさ」にはそれが伴っていないことです。

慈悲というのは「慈・悲・喜・捨」とセットになって、「四無量心」と呼ばれるものの一部です。四無量心とは現象の世界における仏教徒の基本的な徳目であって、四つの「無量に育ててよい」心のこと。このうち、慈(衆生に楽を与えたいと願う心)、悲(衆生の苦を抜きたいと願う心)、喜(衆生の喜びをともに喜ぶ心)は、いわゆる「優しさ」と重なるところも大きいのですが、「捨」だけはちょっと毛色が違う。「優しさ」というのは、他者の喜怒哀楽を感じとって同調し、それに働きかけようとする心ですが、「捨」というのはそうした心の動きを全て平等に観察して、それに左右されない平静さのことを言うからです。

よく知られているとおり、仏教というのは縁起説をとる。縁起説というのは、全ての物事を関係性の中における一時的な現象として観察し、因果の連鎖における一つの出来事として捉える世界観のことですが、このようなものの見方からすれば、「天地」はまさに「不仁」であって、そこに「人情」の入る余地はない。私の喜びもあなたの悲しみも、単に因果関係によって生じた現象にすぎないのであって、それもまた縁起の法則の支配下である。

私たちは気がついたらいつのまにかこの世界に「投げ出されて」いて、意味や物語を主観的には切実に求めながら生きるうちに、またいつのまにか死んでしまうのですが、それもこれも、俯瞰的に眺めれば自然の流れに浮かぶ泡のようなものなのであって、条件によってたまたま作られ、刹那の後には、また条件に従って消えるものでしかない。その意味では、私たちはたまたま作られ、用が済んだらためらいもなく投げ捨てられる、「芻狗」と選ぶところがありません。

「捨(upekkhā)」というのは、そのような「天地」のありようを徹底的に「如実知見(ありのままに観る)」した上で、衆生の喜怒哀楽を含めたこの世界の現象全てを平等に、囚われることなく観る態度のことですが、これだけでは、「慈・悲・喜」の来歴のほうがよくわからないことになる。現象の世界における衆生の悲喜こもごもが、単に縁起の法則にしたがって起きる中立的な出来事にすぎないのであれば、そこにいちいち関与して、「抜苦与楽」の実践を行う意義も必要性も、存在しないことになるからです。


ここは実に重要なところであって、仏教の「教」たる所以、その成立を理解するための急所であります。……が、残念ながら時間切れになりましたので、この続きはまたの機会に。



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昔のニー仏を返せヽ(`Д´#)ノ
100ヶ月前
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昔読んだ、とある大学教授のエッセイを思い出しました。

第二セメスターの期末にその教授が、卒業生に手向ける言葉を書くよう学校側から頼まれた時、
何を書くべきかを(少しだけ)思い悩んだところ、ぴったりの言葉に思い至ったのですが、
それがあまりに常識からはずれていたので(泣く泣く?)ボツにして、建前上問題のない別の文を採用した経緯が述べられていました。

そのぴったりの言葉とは、
一般的で形式的な美辞麗句のあいまに「どうせ死んでしまうのに・・・」を挟んだ文なのです。
ちょっとやってみましょうか。

卒業おめでとうございます。希望に満ちた大空へ、羽ばたく若人に幸多かれと祈ります。
どうせみんな、いつかは死んでしまうのだけれど・・・
これから先、君は今まで以上にいろんな事を体験すると思います。
辛い日、悲しい日、思わぬことで胸を痛める日もあるでしょう…
それでも君は笑っていなさい。それでも輝いていて下さい。
どうせいつか、死んでしまうのですから・・・
今までの努力を自信に、これからも勉学に励んでください。
まぁ、どうせみんな、いつか死んでしまうのだけれど・・・

なかなか名文・・・な訳無いか・・・
100ヶ月前
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>keysさん

「みんな、いつか必ず死ぬ」という認識は、あんがい人をポジティブにすることもあるんじゃないかと思います。
100ヶ月前
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「慈・悲・喜」と「捨」の関係が気になります。「現実性」と「本来性」が両立するものなのか僕にはまだよく分かりません。また、釈迦が頼まれて仕方なく教えを説いたのは理解できますが、自発的に衆生に関与するのはよく分からないです。続きが待ち遠しい!
99ヶ月前
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