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意見と人格は切り離せるか問題
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意見と人格は切り離せるか問題

2013-06-21 23:58
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先日の記事にちょろっと書いた、意見と人格、そして議論にまつわる話。

当該の記事にも書いたとおり、価値判断に関する「意見」にはどうしたって責任とプライドがかかってくるし、そもそも物事に対する価値判断の集積が、一般に把握される「人格」を形成してもいるのだから、他者の価値判断を否定するということは、必然的に相手の「人格」を(部分的であれ)否定することであると私は思う。

だから、とくに直接的にそれをされれば、人が多くの場合に怒りをおぼえるのは当然で、そのこと自体は、議論にまつわる不可避的な事情なのではないか。


「欧米人は、議論で意見を否定されても怒らない」という人たちも一部にいるけど、まあ私も 欧米で生活したことがあるわけではないのでわからないが、自分が接した範囲では、必ずしもそうではないように思っている。彼らであっても、自分の価値判断を正面きって否定されたら、それを自分の人格に対する、ある種の否定であるとは感じているだろう。

ただ、自分の意見をはっきり述べて議論を戦わせる文化が彼らに顕著なのは事実であって、その議論の場で感情的な怒りを見せても(多くの場合は)得にならないことも経験的に知られているから、それをカバーして上手にプライドを守る技術に関しては、彼らは非常に長けていると私も思う。

例えば、よく言われる「ユーモア」の文化(というより、ほとんどマナー)などは、そういう機能が一つの背景としてあるのではないかと思うし、彼らの喋り方を見ていると、日本人的な感覚からすれば、ちょっと「わざとらしい」と感じられるようなところもあるのだが、そういうふうにパフォーマティブに振舞っていないと、まあ色々とやっていられないところはあるのだろう。


さて、ではこの場合、「議論は大切」という前提は守りたいが、「ユーモア」のような上手にプライドを守る技術(と、その背景にある文化)はない日本人はどうするか。よくあるパターンは、全てを「他人事」のように論じること。実質的には価値判断をしているのだけど、記述の上で、「外側」から「冷静」で「客観的」な判断を行なっているように見せかけることで、自分の人格を、否定されても傷つかない場所に避難させておく。日本の知識人にはよく見られるナラティブだけど、これについては私もかつて散々やってきたので、あまり人様のことは責められない。

いや責められないというか、これは上述したような事情により、一定程度は「避けがたい」ことでもあっただろうと思うのだけど、もちろんそれをずっと続けているのはみっともないから
なんとかならんかなあ、とは考える。


「解決策」があるとすればたぶん二つで、一つは「ユーモア」的な言説文化を日本においても発展させることだろう。多くの人は、こちらが妥当な方向性だと考えるのではないかと思う。

もう一つは、そもそも意見と価値判断がつくる「人格」にこだわることをやめてしまうこと。「見解(diṭṭhi)」を煩悩の一つに数える仏教的な考えからすれば、こちらの方向に行くべきなのかもしれないが、「仏教徒」ではなくニートブッディストのニー仏としては、どうするべきか悩んでいるところである。



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これはその通りですよね。日本人は議論が下手と言われるけど、論理否定されると人格も否定されていると思い込む度合いが強い。これはディベートの経験が少ないからなんですよね。海外とかだとディベートを授業で行うらしいけど。ディベート大会とかの本物のディベートって自分の主義主張に関係なく勝手に賛成か反対の側に割り振られるんですよね。つまり、本音、本心とは真逆の立場で議論することもある。そういう経験が論理は論理、人格否定ではないと理解することにつながるんだと思います。
100ヶ月前
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とりあえず思いついたのは伊集院光とかマツコデラックスとかあの辺。
あの人たちなら縦横無尽にフェミとかをディスっても文句言われなさそう。
ただあの人たちは自虐を前提にしてるようなところがあるから、それも違うのかなぁ。
100ヶ月前
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