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「ウザさ」と「自由の自主規制」
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「ウザさ」と「自由の自主規制」

2013-06-27 23:59
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畏友・さむ氏とニコ生にて雑談。自殺の話題から社会のいわゆる「包摂性」にまで議論が及び、なかなか考えさせられる話になりました。
(放送のタイムシフト動画は、火曜日までこちらで視聴できます。本エントリに関わる話は後半から。)





話題のきっかけになったのは上の動画。一部には既に有名ですが、アイルランド人の制作者が日本の自殺に関して問題提起したドキュメンタリー映画であって、youtubeで全編無料公開されていますから、関心のある方にはご覧いただければと思います。

全編にわたって考えさせられるところの多い作品ではあったのですが、とくに私の印象に残ったのは、最後に語られる制作者自身の経験談。(おそらくは日本に住んでいた)彼の部屋に、ある孤独な老女が訪ねてくるようになったのだけど、面倒なので居留守を使って相手をしないままでいたら、ほどなく彼女が孤独死してしまった、という話です。

もちろん制作者は深い後悔の念とともにこのエピソードを語っており、だからこの映画は、 「自殺は政府の問題ではない。自殺との戦争において『敵』を探そうとする前に、私たちはまず何よりも自分自身のあり方を見つめるべきだ」というメッセージで終わるのですが、まさにこれは私自身にも十分に起こり得る出来事であって、その意味で、深く考えさせられる話ではありました。


このエピソードの語り手はアイルランド人だけれども、私たち現代日本人にとっても、人から助けを求められ、それによって部分的であれ「よりかかられる」ということは、多くの場合において面倒なことであり、よりはっきり言えば「ウザい」ことでもあります。

しかし同時に、そうした「ウザさ」を完全に排除しようとするならば、社会はその体を成さなくなるし、最終的には、おそらく「自由」すら失われてしまうことになる。人間関係におけるちょっとした不快感、コンフリクト、つまりは「ウザさ」は、自由に振る舞う人間同士の距離が近くなれば、必然的に発生してしまう性質のものであって、それを極小化しようとするならば、個々の人間が自分の自由を、いわば「自主規制」するしかなくなるからです。


象徴的なサンプルの一つとして、例えば宗教のことを考えてみましょう。以前に「『宗教不要論』に関する若干の感想」というエントリを書いたことがありますが、それに対する意見として、「宗教を信じるのは自由だけど、布教をするのはやめてくれ」という趣旨のものが散見された。しかし、これは自由主義をとる社会の成員としては本来的に無理な注文であって、宗教に関する「自由」には、そもそも布教の自由が含まれています。

他のあらゆる信条(例えば政治的なものや倫理的なものなど)についてと同様に、宗教を信じる人たちにも、自己の奉ずる価値を公言し、それを他者に勧奨する自由がある。そしてもちろん受け手のほうには、それを拒絶する自由があります。宗教に関する「自由」とは、この両者の自由が平等に担保されている状態を指すわけですね。

とはいえもちろん、自分が信じていない・信じたくない価値について、他者から一方的な勧誘を受けるということは、基本的には「ウザい」ことです。だから多くの人たちは、「そういうウザいことは、俺もしないからお前もするな」と言いはじめる。その種の「ウザさ」を受忍することは、実際には社会の成員が自己の自由を十全に行使するために必要なことなのですが、その際に生じるストレスやコンフリクトに耐えることができないので、「だったらみんなで不自由になるほうがましだ」と考えるわけです。上述した「自由の自主規制」が、こうしてはじまる。


わかりやすく象徴的な事例として宗教を挙げましたけど、同じ事情が他の様々な社会的事象にも当てはまるということは、容易にご理解いただけると思います。最初に述べた、人に助けを求めるという場合についても同じことで、自分が「助け」を求められた時、その「ウザさ」を受忍しきれないのはわかっているから、いざ自分自身が「助け」を必要とした時にも、それを他者に要求することはできなくなる。本来であれば誰にでも、助けを求める自由くらいはあるはずなのですが、その際に生じるコンフリクト(=迷惑)に耐えるくらいなら、死んでしまうほうがましだと考える人は多いわけです。


「自由」を謳う社会が、同時に担保すべきいわゆる「包摂性」とは、わかりやすく言えば、社会の成員それぞれが、上述したような種類の「ウザさ」をシェアするということなのではないかと私は思います。様々な異なった属性や性格、あるいは価値観をもった人間同士が、寄り集まって社会をつくり、その上で各個人が「自由」に振る舞うことを許すのであれば、そこに生ずる人間関係には、一定の不快感やコンフリクト、ストレスがどうしても伴うことになる。それを極小化しようとするのであれば、互いに己の自由を自主規制した上で、価値の共有の試みも断念し、追い詰められたら自裁する社会に至るほかはありません。


私たちの日本社会は、実際にそのような方向へと進みつつあるわけですが、その背景には(岡田斗司夫の用語に言う)「自分の気持ち至上主義」があるのではないかと私は考えています。それについても話をしたいのですが、今日は残念ながら時間切れなので、ここまでにしておきます。



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他5件のコメントを表示
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>ニー仏氏
自分の主張を宗教家の視線に置き換えたものが想像し辛いのですが、
「自由」の線引きは難しいですね。
99ヶ月前
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>ナナシ1234さん

まさにそこですよ。「想像力」は、他者だけに要求しても仕方がないということです。
99ヶ月前
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>ニー仏氏
確かに他人の事情を察するのは難しいですね。

宗教者も非宗教者もお互い「自由」を逸脱しない範囲で対応できればベストでしょうね。
99ヶ月前
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>ナナシ1234さん

>お互い「自由」を逸脱しない範囲

そうした発想が、「自由の自主規制」に繋がることのないように心すべきだ、というのが本エントリの趣旨です。
99ヶ月前
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>ニー仏氏
はい、それは分かります。
ただ、no.8で挙げた様な行き過ぎた行為は、やはりトラブルになると思うのです。
そういう意味での逸脱しない範囲です。
99ヶ月前
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>ナナシ1234さん

お考えはわかります。ただ、私の立場は最初から「トラブル」を避けようとするのではなく、拒否したいと思う人は、「拒否する自由」を自ら徹底的に行使することを考えてほしい、ということです。もちろん、法律上の犯罪に該当する行為に関しては、法的に適切な対処が為されてしかるべきだと考えます。
99ヶ月前
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>ニー仏氏
うーん、危惧されている事への理解はできますが…
自分の場合はある程度自由はあれど、トラブルが起こると予測される行動は躊躇し、他人にもできればしてもらいたくないと思ってしまいます…申し訳ないです。

まあ、そんな事を言っていても相手はこちらの事情なんて知らないですし、例に挙げた様な人に勧誘されたら全力でお断りしますが。

99ヶ月前
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>ナナシ1234さん

違法であることが明確な行為をしていない限り(しているなら、法に則って対処すればよろしい)、他人に「自分の振る舞いの基準」を押し付ける権利は誰にもないし、もしそれを敢えて行うのであれば、それはまさに「狂信的」な振る舞いであって、批判対象と全く同じ行為を無自覚にやっているだけですよ、というのが私のずっと申し上げていることです。

とはいえ、ナナシ1234さんが「個人的にそのような感想を抱く」ということであれば、それは十分に理解いたしました。
99ヶ月前
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>ニー仏氏
無論感想ですよ。
宗教の件も自分が「強引な勧誘止めてほしい、迷惑だから。」て言ったところで何も変わらないでしょうし。
自分の考えを推す団体を作る気もない。
まあ本気で困る位迷惑な事を受けたら、然るべき所に行くでしょう。

他人から多大な干渉を受けるが、自分も他人に干渉ができる社会(各個人が最大限自由を振舞える)
他人からの干渉は最小限だが、自分も他人に干渉し辛い社会(他人を考慮するあまり自由を自主規制する)
前者は自己主張の得意な人間には住みやすいですが、自己主張の苦手な人間には住み難いでしょう。逆もまたしかり。
だからその中間あたりが落としどころじゃないの?という「感想」です。
99ヶ月前
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>ナナシ1234さん

なるほど、ご感想はよくわかりましたし、しつこい勧誘を受けるほうの気持ちもよくわかりました。

私としては、このあたりで「拒否する自由」を行使したいと思いますので、これ以上のコメントはおやめください。
99ヶ月前
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