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無為而有不為
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無為而有不為

2013-05-31 23:57
    韓国経由でミャンマーに移動。重い荷物(ほぼ本)を抱えて死にそうになるも無事到着。



    韓国・仁川空港にて食したタコ石焼きビビンパ


    到着したのは昨夜半。今日はとくに予定もないので、部屋の片付けをしてから、ビルマ語とパーリ語をゆっくり読む。学問の喜びをしみじみと感じると同時に、そこはかとない焦燥感と、あるいは喪失感のようなものも感じる。

    これは私だけの事情かもしれないが、新しい知識を仕入れるということは精神の栄養ではあるけれども、同時にどこかそれの蓋をするようなところもあるように思う。

    河合隼雄はユング研究所に留学していた時、「一日の半分はボーッとしていろ」と言われたそうだが、そのことは本当に大切で、知性というのは読破した本の数や、覚えている単語の量に還元できないところが確実にある。

    ただし、少々面倒な話をすれば、ボーッとしていることにも種類があって、本を読んだりといった、何か目に見える「行為」はしていないけれども、頭の中では何か特定の問題を考えていて、思考がフル回転しているような状態がある。これはもちろんある種の「集中」だけど、外から見れば、「ボーッとしている」ように見えるだろう。思索に没頭していたタレスが、「足下のことには気づかない」まま井戸に落ちて、トラキアの娘に笑われたようなものである。

    このような「没頭」もしくは「集中」も、知的活動をする人間にはもちろん必要なものだけれども、「ボーッとする」にはもう一つ種類があって、それは本当に「何もしない」こと。何かについて考えることすら放棄して、ただひたすらに「忘我」し「坐忘」する。このことを、仏教の文脈では「瞑想」という。


    何かについて考えることは貴重だし必要なことでもあるが、それはまた同時に日常性、あるいは「非本来性」へのVerfallenでもある。

    知識を仕入れること、それをいったん忘れて考えること、そして考えることもさらに忘れてただあること。私にとって、「学ぶこと」とは、この三段階を往還することなのだなあと改めて思う。


    ……ブロマガ、流行に三周くらい遅れていますがはじめてみます。基本的に、月・水・金の週三回ほど更新の予定です。





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