・「民主主義者=従米主義者」こそ 最大の『分断』をもたらす
2020年5月10日(日) 東京都小平市(朝鮮大学校前)で行なわれたヘイトスピーチ街宣に対するカウンター(反対行動)の記録映像です。 北朝鮮政府と朝鮮総連への抗議を装いながらも、実際には学生をターゲットにしたヘイトスピーチが行われました。 「入学式糾弾街宣」との名称で行われた差別街宣でしたが、この日に入学式はなく大学内に学生はいませんでした。 警察は機動隊を大量に動員し、わざわざ学生寮の前に街宣スペースを確保、差別に反対する市民を排除し、差別扇動の手助けを行なっていました。 禁止規定や罰則がないとは言っても、ヘイトスピーチ対策法(解消法)では「許されない行為」と明確に宣言されていますので、レイシストを手厚く警護した警察は明らかにおかしいと思います。 コロナ禍の渦中、カウンターに参加された方々に最大の敬意を表します。 KODAIRA AGAINST RACISM !!! 撮影・編集:秋山理央 機材:SONY HDR-PJ790V、TASCAM TM-2X、Hague Mini Motion-Cam 秋山理央 https://note.mu/rio_akiyama http://twitter.com/RIO_AKIYAMA メールフォーム http://form1.fc2.com/form/?id=698764
私は前回の記事で、日本のリベラル勢力の『矛盾』をお話致しました。
日本のヘイトスピーチが「無くならない原因」として、ネトウヨや無関心層(マジョリティ)の問題はあるけれど、事あるごとに『民主主義』という「ひとつのイデオロギー」に固執して、それとは異なる政治制度の近隣アジア諸国に対する“攻撃意識”を常態化させているリベラル勢力の存在があります。
とりわけ、アメリカの「干渉政策」の真似事をして、彼らの『本質』を見抜けずにいる人たちが、反安倍で共通する反面、ひとたび対外関係に移れば、地域『分断』をもたらす“有害な存在”へと変容する。
・『隣(異文明)の芝は青い』わけではない
2020年5月17日
Paul Craig Roberts
アメリカは敵無しでは生きられない。敵が、アメリカ最大産業、軍事支出に資金供給し、敵が、バベルの塔のようなわが国を、ばらばらにならないよう維持する安全保障の目的になるのだ。
オバマ体制の間に、ロシアは敵として再確立された。ロシアとの関係を正常化するというトランプの意図は、ロシアの敵としての地位を消滅させるので、軍安保複合体が、彼に地獄の責め苦を与えた。実際、CIA長官は選出されたアメリカ大統領を裏切り者と非難した。負けた民主党は、強力な軍安保複合体がトランプ反対で提携するのを見て、自分たちの政治的敗北を埋め合わせるため「ロシアゲート」を仕組んで加わった。トランプは生き残ったが、大統領の座から彼を追いだすためにでっちあげられたペテンのため、一期目の任期の三年を失った。
トランプ任期四年目に、敵は変えられた。今や敵は中国だ。いくつかの進展が中国を敵に変えるのに貢献した。一つは、ワシントンの挑発に立ち向かい、反論する中国の意志が高まっていることだ。もう一つは、アメリカの大きな貿易赤字を誰かのせいにしなければならないワシントンの必要性だ。もう一つは中国の製造と産業の実力認識と、5Gでファーウェイが先行していることで実証されるように技術分野で獲得している中国の指導力だ。動揺するアメリカの通信技術企業、ネオコンの覇権野心や、中国を封じ込めるためのより多くの軍事支出の可能性が、トランプの中国との舌戦に勢いを与えた。この対立はCovid-19を中国の責任にする流れのおかげで、益々勢いづいている。
マスコミに載らない海外記事 『中国』より
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-a0d882.html
現在、コロナウイルスが地球規模で猛威を振るっているなか、その『ターゲット』が「中国」へと変わり、アメリカの歴史を紐解けば、自国の支配体制に“組み敷かれない国”に対する、物質・精神両面における「攻撃」は、北東アジアの「北朝鮮」、中東の「シリア」や「イラン」、中南米の「ベネズエラ」など、様々な国々への『内政干渉』へと発展する。
日本のリベラルは、こうした敏感な世界情勢に「無頓着」だ。
彼らを未だに“民主主義の先導者”だと思い込んで、彼らの政治制度(実際の理念とは遠くかけはなれた)を「模範」であると他者に押し付ける。
‐中国こそ現代の『周王』である 最終回(「北東アジアの民」の一人として)‐
『戦後』で時が止まった彼らの“妄想”は、それまでの北東アジアの思想だったり、人々の暮らしだとかを「かき消して」、遠い異文化の“馴染み薄い考え”を、さも自分たちの『アイデンティティ』として引っ提げ、ある種の「観念(認識論)」に閉じこもって、ああでもない、こうでもないと思索をめぐらした果てに描いた“世界像なるもの”は、眼前のリアルと乖離した事物になるわけです。
改めて、私自身が歴史書を紐解き学ぶ過程で、その文明や思想の奥深さや浩瀚さに畏敬の念を抱き、2000年以上の反駁に耐え抜いて、私たちの暮らしに深く根付いた『儒教』の存在を考えたとき、ことごとく「西洋かぶれ」の『出羽守』の薄っぺらさが目についてしまうわけである。
<参考資料>
・かっちんブログ「堅忍不抜」 『詳しい動画・内容はこちら 朝鮮大学前ヘイト街宣へのカウンター』記事
https://ameblo.jp/sanpurena/entry-12598084403.html
・マスコミに載らない海外記事 『中国』
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-a0d882.html
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Re:無題
【追記】
もう少し「葬儀」について詳しく述べると、日本の葬式と言えば、まず『仏式』ですが、葬儀場、たとえば寺院の本堂しかり、死者は僧侶でなく一般人として、参列者はほとんど百パーセントの人が、葬儀場に安置されている死者の柩や写真、白木の位牌を拝んでいて、特に写真に向って拝むさまは、とてもおかしいのです。
まずもって、仏教徒ならば、その寺院の本堂中央に安置されている本尊をこそ拝むべきで、死者の柩は真正面でなく、かたわらに置いていてもよいのです(本式の仏教において『遺体』や『遺骨』は単なる「物体」であり意味などないから)。
なぜなら、仏教では『仏』をひいては法(のり-最高の教え)をこそ崇め拝むのが、一番大切でありますから、崇め拝み奉った本尊の広大な恵みや余光を得て、導師(僧侶)に導かれて来世の幸福が得られることを、成仏することを死者に期待します。
煩瑣な仔細は省きつつ、仏式参列者のほとんどは、故人の写真を仰ぎ、柩に向って礼拝し、故人を想い、涙し、何回も香をつまんでは焼香し、重々しく遺族に挨拶しているだけで、本尊にはまったく素知らぬ顔で退場します。
何を述べたいのか申しますと、これはすべて『儒教のマナー』であり、『遺体』や『遺骨』こそに“魂の在り処”を示し、その肉体は死と共に抜け出た霊魂が再びもどって憑りつく可能性を持つものだからです。
死後、遺体をそのまま地中に葬り、墓を作る。それがお骨を重視する根本感覚であり、亡くなった方のご遺体は、悲しく泣くべき対象であり、ご家族(遺族)がきちんと管理すべき対象なのです。
続けて『喪に服す』行為だとかもありますけど、ざっとこのような流れで、儒教が私たちの生活の中に深く根差している一例をお示し致しました。
ふーくん
2020-05-23 07:24:02
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