山霧の巻くとき(山岳ホラー)
上松煌
「そう、そう、この話って知ってるか?ヘリとか、そういった文明の利器が発達していなかった時代はさ、ほら、明治・大正・昭和の中ごろとか。そのころは遭難者の死体は回収せずに、山に葬ったんだぜ」
「あ、聞いたことある。平らなザレ・ガラ場が死体の埋め場所に選ばれたんだよな~。もろ、怖え~」
「それだよ。登山者が知らずにそこに泊まると、死者は懐かしさのあまり墓場を出て、そばに来ようとする。夜中に音がするのは死者が這い出ようとザレをかきわける音なんだ」
「っちょ、ちょっと待て。ここ。この西岳のテント場って、平らでもろザレてんじゃん。もしかしたら、ここもそれってこと?うげぇ、キメェよ」
「ぎゃははっ、夜中にしょんべん行けね~だろっ。まわり、真っ暗だしな」
最初に話を振った副リーダーの川村が、うまくみんなを怖がらせて上機嫌だ。いっぱしの酒飲みの顔をして、ご禁制のワンカップをキュイーッとやる。
4人全員がT大の1年坊だから、本当は酒はご法度だ。
「じゃ、まあ、口直しに、伝統の数え歌、いきま~すっ、あ、それっ」
やっぱり、これが出ないと山岳キャンプとはいえない。
♪1つ ひとよに 一目ぼれ
2つ ふつ~の お嬢さん あ、それっ
3つ 淫らな コトしましょ
4つ よい声 張り上げて あ、よいさっ
5つ いよいよ 絶頂の
6つ 睦言 いい気持ち あ、どしたっ
7つ なかなか 止められず
8つ やっぱり 中出しで あ、出してっ
9つ ここまで 来たからは
10で じゅうじゅう ご勘弁 あ、いい、いい、いいっ
梅雨の真っ只中の西岳テント場は、幸いにして彼ら4人しかいないから、大声でどんな歌を歌おうと文句は出ない。どら声を張り上げて繰り返し歌うと、一段と酔いが回って仲間気分が高揚する。
彼らは先輩たちがやるように肩を組んで、左右にゆれながら歌い続けた。
「うはぁ、酒、まわったな。そろそろお開きにしようぜ。明日は槍の穂先だから」
リーダーの上松が午後8時を過ぎたのを見て、閉会を宣言した。
「おう」
全員が応じて、その場の後片付けをする。
「っちょ、なんか音しね?」
さっきの話に、うげぇ、キメェよ、と言った志野島がちょっと不安そうに耳を澄ませる。
「ん?あ?」すぐそばの横田が首をかしげた。「音するか?…わからん…」
「いや、してるって。おれ、耳いいんだ」
志野島は眉をひそめた。
「あっ、するな。…ほら。でも、遠い」川村も聞きつけたようだ。「風?…じゃないなぁ」
たしかにガレが触れあうようなカチャカチャという音が断続的に聞こえる。
「鳥か動物だな」上松が言った。「ライチョウかオコジョだよ。テンもいるっつうから。
今夜は曇りで風がないから、ガレひっくり返してエサ探してるんだ」
まあ、その解釈が妥当だろう。
「死者が這い出ようとザレかきわけてるんじゃね~よな」横田はやっぱり気になるらしい。
「川村がキモイこと言うから」
「あ、ワリイ、ワリイ。でも、ホントのことだって」
「やめれって、ワムラっ」志野島が川村を叱る。「しつっけ~よ。おれ、たま~に体調によって見える人なんだから」
カチャカチャがしだいに近づいてくる。4人に緊張が走った。ザレ場のオカルトなんか信じてはいないが、あんまり気持ちのいい音ではない。
カチャカチャがザリザリという音にかわって、どうやら登山靴の足音らしいことがわかってきた。ソレがテントのまわりをグルグル回っている。
「やっべぇ、だれか、外見ろよ。シノっ、見てくれっ」
あまりのテンプレどおりの展開に、横田が顔色をかえて志野島をつつく。
「いや、おれが見るよ」上松が冷静に言う。「人間だよ。テント場に遅れて着く人なんかけっこういる」
常識で考えればそういうことだ。
ごく普通にテントを引き開け、上松が顔をだすと、その人はテントの裏にいたらしく、こっちに回ってきた。
60歳を超えた感じの背の高い痩せ男で、LEDとは違う青っぽいヘッドライトをつけていた。
「いや、母校の数え歌が聞こえたんでさ」
その人はこっちが何か言う前に言って、そのままジロジロと値踏みするように4人を見ている。
「あっ、OBのかたでしたか」一挙に緊張がとけて、そつなく自己紹介する。「初めまして。1年坊4人で表銀座やってます。一応リーダーの上松煌(あきら)です」
「副の川村文麿(ふみまろ)です。よろしく」
「志野島謙(ゆずる)です」
「どんじりにひけえしは横田敬之(よしゆき)です」
その人は横田の言葉ににやりと笑ったようだった。
「ぼくは…名もなき者だ…。まぁ、あわてることはない」
それだけ言うとクルッときびすを返して去っていった。
「へんなオッサン」
志野島が真っ先につぶやいた。
「しっかし、古臭い装備だったな。片桐のキスリングじゃね?昭和かよ」
「マニアだろ。金持ってるオヤジどもの趣味だな。ま、青春時代への回帰ってトコだ」
「だけど、どこに泊まるんだ?行っちゃったよな」
「そこのヒュッテだろ。東に行ったぜ」
ひとしきりウワサしたが、4人にとっては結局、そんなことはどうでもいいことだった。
シュラフにもぐりこむと彼らはすぐに夢路をたどった。
そのテントの周りを、まだ青い光がフラフラとさまよっているのを、誰も見るものはいなかった。
翌朝はひどい雲の中だった。
「ひっでぇ。自分の手も見えねぇよ。こんなホワイトアウトってあるんだな。水俣乗越まではけっこう急な下りがあるぜ」
「ま、6月つっても基本梅雨の真っ最中だからな。丸太梯子が連続する場所、滑るぜぇ。視界がいいに越したことはないんだが…」
「なににせよ、ガスって見えねえんじゃ、しゃ~ねえべ。しばらく見合わせるか。ワムラ、どうする?」
リーダーに振られて、副の川村が答える。
「ラジオでは天候は回復してくるってさ。ちょっと待てば晴れるんじゃね」
だれかの足音が近づいてくる。まもなく聞き覚えのある登山靴の音にかわった。
「きのうの人だ…」
志野島がなんとなく不安げにつぶやいた。
「なんだ、行かないのか?」霧の中から、背の高い影がからかうように言った。「いいルートファインディングだろうが」
「早よ~っす。一応、天候待ちで」上松が如才なく答える、「やっぱ、槍っすか?」
今までの白一色ののっぺりとした雲が、ゴワーッという感じでみるみる巻き上がって消えていく。
風が吹き散らしはじめたのだ。
その中を特徴のあるザリザリの音が返事もしないで遠ざかった。
「うっとおしいオヤジだな」川村が笑った。「OBだからって、粘着すんなって。なぁ」
「ま、おれたちが気んなる年代なんだろ。じゃあ、出発!」
天候の回復を見て、4人はすぐに行動する。
西岳の西側を巻くツルツルの梯子や鎖場を下り、ザレ場の急斜面をしのいで水俣乗越を登りあがったころ、また濃い霧が追いついてきた。
「っちゃぁ、また、まっ白けかぁ」しんがりの川村がぼやく。「もう東鎌尾根の稜線だよな。このまま行くかぁ?」
「うん。ふみ跡はしっかりしてるし」先頭の上松が答える。「三連梯子場まで行けそうだべや」
「あ~、問題ない。行けるワ」
志野島と横田が元気に答える。
(先頭にリーダー、次に志野島、そしておれ、しんがりに副だよな)
横田はふと思った。
流れる霧のまにまに、さっきから誰かがいる気がする。最初は最後尾の川村の後ろについていたはずだ。それが今は…。
(脇から来られるほど道は広くないよな?)
彼はもう一度思った。後ろに川村の息遣いと気配。前に志野島の背中。さらに前に霞んで上松。そして自分の真横…!すっと気配が近づいた。
いきなり、息がかかるように誰かの顔があった。
「えっ?」
反射的に反対側に離れようとヨレる。霧で見えにくいが、もうガレた稜線にでていて三連梯子も近い。左に顔があるということは、そいつは空中に浮いていることになる。
(ウソだろ?)
ゾワッと鳥肌が立ち、横田の息が乱れた。
真横のそいつが真っ暗な目を自分に向けているのがわかる。生臭い臭い。顔をそむけながらも目はそいつを追ってしまう。
その顔はほとんど触れそうな近くにある。その位置では肩がぶつからなきゃおかしい。じゃあ、体は?
ニタリと笑ったのがわかった。次の瞬間、顔はぐるりと横田の前にでていた。湿ったぼろきれのようなものが、ぴとぉっと首にまつわりつく。
「うわああぁっ」
異様な叫びに、他の3人が横田をふりむく。
「どうしたっ」後ろの川村が彼のザックをつかむ。
横田はめちゃくちゃに手足を振り回した。川村を振り切り、志野島を突き飛ばし、先頭の
上松を蹴散らして前に出た。
「とめろ、シノ、上松っ」
川村の叫びに2人が反応して抱きとめるが、死に物狂いの蹴りをみぞおちにくらって、志野島が悶絶する。
その瞬間、横田は三連梯子の最上段から飛込競技のようにダイブしていた。
上松がまだ、必死でひざ下にぶらさがっている。その重みで横田はほとんど飛距離がとれていない。
体がまっさかさまになり、白黒のスローモーションのように視界が暗転した。ガクンと右脇に強い衝撃痛があって、もう上松は支えきれなかった。全力でしがみついていた手が離れ、横田が何かわめきながらスウッと落ちていく。
「ゴーン」
鉄製の梯子にぶち当たって、パッと赤いものが飛び散った。
体の一部がちぎれ飛び、ザックが空中を舞った。
そのまま横田は遥か下のガレ場に落下して跳ねあがり、さらに砕けて、救助訓練の要救助者人形のように関節の向きを無視して転がった。
上松はほとんど宙吊り状態で、その一部始終を見ていた。ザックのウエストベルトが偶然、
梯子の最上段持ち手にひっかかって落下をまぬがれたのだ。彼は激しく嘔吐し、しばらくは心神喪失状態にあった。
やっと発した第一声は
「…横田…おれのせいだ。…おれが止めたから…梯子に…」
志野島も川村もガクガクと激しく震えて、しばらくの間は3人の息遣いだけが聞こえていた。
「…通報だよ…早く」
一番に正気に返ったのは志野島だった。その声に川村も弾かれたように上着を探った。
「だめだ、反応なし。GPSで使いすぎかよ」
「圏外じゃねぇだろ、電波きてねぇワ」
上松はまだ呆然と座り込んだままだ。川村は叱った。
「何してる?警察や救急に連絡だろうが!」
「…横田…おれのせいだ」
「ああ、そう思うなら、早く連絡しろ。おまえ、リーダーだろっ」
上松はヨロヨロと動いたが、すぐに脱力した。
「スマホはダメだ。バッテリー切れてる…」
「いいか、上松。横田はおまえのせいじゃない。責任をいうなら、横田にしがみつかなかったおれだ。シノもおまえもやるだけのことはやったんだ」
川村は噛んで含めるようにゆっくりと言った。苦渋に満ちた声だった。
聞き覚えのあるザリザリの音が近づいていた。
「OBのオッサンだ」
3人は神の降臨でも見るように、期待のまなざしを振り向けた。
「仲間が落ちたんですっ。通報してくださいっ」
「無線機ありますか?スマホは役に立たないっ」
左右から取りすがられても、その人は全くあわてるようすはなかった。
「ふ~ん?」ザリザリと梯子に歩み寄って、上からのぞいたようだった。「何もないな」
クルリと振りかえった口元はニヤニヤと笑っていた。
彼らの言葉を頭から信用していないかのようだった。そのままとりつく島もないオーラを発して、振り向きもせず霧の中に遠ざかっていった。
後にはあっけに取られた3人が残っていた。少なからず落胆し、混乱して。
「信じてもらえなかった…」
川村が愕然とつぶやいた。
「何もないって?」
上松がその言葉にすがるように立ち上がった。
たしかに何もなかった。いや、何も見えなかった。
さっきまでよく見えていた三連梯子の中段から下は、今は濃い平らな霧に覆われていた。白くて美しくて、夢のように平穏だった。
しばらく全員で下のガレ場に目を凝らしたが、霧は晴れず横田の姿も見えなかった。
(幻覚を見たのか?横田は無事?)
そんな期待がよみがえった。彼らはあたりに散って、あらゆる方向に横田の名を呼び続けた。霧の中からひょっこり彼が現れそうな気がした。
声をからし、息を乱して、どれくらい時間がたっただろう?不思議なことに霧の表銀座コースには人っ子一人通らなかった。
いくら登山者の少ない梅雨時でもこれはおかしい。だが、おかしいと言ってみてもどうなるものでもなかった。
「14時か、日没が19時としても、今日の行動をどうするかだな」
上松がやっとリーダーらしい口を利いた。
「降りる」下を見下ろしていた川村がきっぱりと言った。「横田はやっぱり落ちたんだ。そばにいてやろう。霧もだいぶ晴れてきた」
上松は激しく身震いした。
「いやだ!…おれは見たんだ。おまえらは見てないけど、おれはこの目で見ちゃったんだよっ。下には行けない。こう話していても目にチラつくんだ」
「バカッ、冷静になれ。おまえ、ものすごく冷酷なこと言ってんだぜ。親御さんの気持ちを考えろ」
川村の言うとおりだった。
的を射たその言葉に、上松は一言もなくうなだれるしかなかった。
「そばにいて通行人を待つんだ。コンロも食料も横田のザックだしな。回収する。横田のためにも、おれたちが遭難するわけにはいかないだろ」
「おれも降りたほうがいいと思う」志野島が言った。なぜか声をひそめている。「この稜線、よくないと思う。横田の蹴り食らって意識とびそうになったとき、見えたんだ。横田に黒っぽい何かがまつわりついてた。横田はソレから逃げようとして飛んだんだ。おれ、たま~にホントに見えるんだよ」
「うそっ?…」
川村が本当に信じられないという声を上げ、かなり沈黙が続いた。
いくら霧の中とはいえ、真昼間だ。そんなことがあり得るのだろうか?
「降りよう」やがて上松が決断した。「おれが先頭を行く。横田がぶつかった梯子んとこ…拭き取ってやりたいんだ。ワムラが言うとおり、おれ、ほんと冷酷だったワ」
降りてみると、横田がぶつかった明らかな証拠のように、鉄梯子の2連目には血といっしょに脳漿のような白ピンクのものがこびりついていた。
上松は詫びるかのようにそれをタオルでていねいにぬぐい取り、遺族に渡すためにたたんでポケットにしまった。
「あっちゃ~、雨だワ」川村が顔をゆがめた。「やっべえな。だいぶ降ってきた」
彼らは下に降りてすぐ黄色いウインドブレーカをたよりに、原形をとどめない横田を見つけ出し、彼のレインウエアで覆ってやっていた。
(これは横田じゃない)
3人の誰もが思った。
蛍光イエローのゴアテックスにからみついた、赤・黒・白・黄・肉色の筋や骨や臓物の一部。顔はなく、神経で眼窩につながった生々しいウミガメの卵のような目と、何かにぐっしょりぬれた髪の毛の束。登山靴を履いた足らしきものは、幾重にも複雑に折れ曲がって、
弧を描くようにわだかまっていた。
あたりに散らばった大きめの破片を拾い集めると、6月なのに指先にしんしんとくる異様な冷たさと重み。
(夢だ、夢に違いない)
だれもが一様に心に唱えながら、それでもこの現実に必死に対処しようとする、もう一人の自分にささえられて動いていた。
やせ尾根ではあったが、あまり遠くない崖っぷちにわずかなスペースがあり、何とかテントを張ることができた。そこからは三連梯子場への登山道が見渡せるのだ。誰かが通りかかれば、通報を要請できる。
「シノ、湯を沸かしてレトルトあっためておいてよ。おれとワムラで、今のうちにタキギ
拾ってくる。これから火をたけば誰か来てくれるかも知れない」
「こっち。ほら、谷合いにけっこうある。下って拾おうぜ」
雨の中、川村を先頭に用心深く谷を下っていく2人を見送って、志野島はコンロで湯をわかしはじめた。普段はテント内では火は使わないが、このテントには前室がなく雨も降っているので仕方のないところだった。
食欲がなかろうが、吐き気があろうが、胃が引きつっていようが、無理にでも何かを腹に入れなくてはならない。体力の消耗はこういう場合、仲間の足を引っ張りかねないのだ。
いいぐあいに湯が沸いたころ、志野島はある音を聞きつけていた。
ゾッと身の毛がよだち、いやな予感がゾワゾワと背筋を這い上がる。テントの入り口を見た。
あの音が規則正しく近づいてくる。
「どこ見てんの?」
突然、となりに誰かがいた。生臭い臭い。ぴったりと寄り添うように顔があった。
反射的に志野島は飛びのいた。ガシャッとコンロが跳ねとび、グラグラと煮えたぎった湯がきらめきながら両足を襲った。
焼きつくようなやけどの痛み。
「うぁ熱っ」
足をバタバタして温度を下げる姿を、顔はニタニタと見守って消えた。
熱いことは熱かったが、志野島にとって最大の不安は顔を見失ったことだった。狭いテントの中だ。生臭いにおいが強烈にただよっているということは、ソイツがまだ身近にいる。
危険なスズメバチでも探すように、そろそろとあたりを見回した。
前、右、左、いない。天井、いない。後ろ…やっぱり後ろか。
彼はためらった。後ろを向いたら顔と鉢合わせする。
きっとそうだ。うかつには動けない。
ぴとぉっ。ぬれ雑巾のような感触が左の首筋を伝い、ジリジリと前に来る。志野島は右から思いっきり振り向いた。
顔はなかったが、本当の恐怖はその瞬間だった。
火のついたままのコンロのガソリンがもれて、トロトロと彼に迫っていたのだ。逃げようにも出入り口は炎の向こうだ。
踏み越えようにもテントも衣類も化学繊維なのだ。
「か、火事だっ!ワムラっ、上松っ」
志野島の絶叫が2人に届いた。彼らは一瞬硬直したが、次の瞬間にはタキギを放り出して上り坂に殺到していた。
「今、行くっ」
「がんばれっ」
テントは炎に包まれはじめていた。
志野島が体当たりしているらしく、テントの壁に人型のふくらみがあった。
だが、どんなにもがいても、人間の爪や歯ではリップストップテントは短時間には裂けない。炎は天井に達し、滴るように覆いかぶさってきた。
張り付いて燃えさかるローソクのようになった志野島が見えた。
猛烈な熱気が踏み込もうとする2人を過酷にさえぎった。彼を引き出そうとした川村は両手にやけどを負い、上松の登山靴には火がついていた。急遽、まわりの枝を引きちぎって炎を払おうとしたが、火の勢いに加勢したに過ぎなかった。
彼らの助けようとする試みはすべて徒労に終わった。
志野島は自力でペグをひきむしって崖っぷちに飛び出し、そのまままっしぐらに落ちていった。
長い龍のように焼き切れたロープを引きずって…。
「シノ…」
川村が倒れこむようにへたり込んだ。上松はよろめきながら志野島の後を追って崖のふちに立った。
遥か下のほうでチロチロと鬼火のように燃えるものがあった。
だが、もう、どうすることもできなかった。
「呪われてる。普通じゃない」
川村が声を絞り出した。
しかし、何に呪われるというのだ。そんなことをした覚えはない。
信じたくはなかったが、得体の知れない恐怖がジワジワと迫りつつあった。
だが、それは口にはできない。口にするだに恐ろしすぎる。
「いや、事故だ。偶然が重なったにすぎない」
上松は自分自身に言い聞かせるように否定した。錯乱しそうになる自分を必死に抑えて、焼け残ったザックをさぐった。目ぼしいものを引き出して荷造りしなおすのだ。
「明るいうちにもどろう。下山するんだ」
たしかにもう、神経的にここにはいられなかった。事故にせよ、何にせよ、友達が2人も死んでいるのだ。
上松は念のため、ツェルトを持ってきていた。テントが焼け落ちた今、ビバークの重要なアイテムだった。どんなに急いでも今日中には絶対に中房温泉登山口には下山できない。
それでも行けるところまでは行く。
心で詫びながら横田と志野島の遺体を残し、三連梯子を登った。雨はしだいに小止みになり、霧の向こうに青空が少し見えた。ハイマツ地帯を過ぎ、ガレた稜線上を越え、ヒュッテ西岳が望めるところまでもどってきた。
「そういえば、あのOBのオッサン」上松は思い出していた。「テントしょってないぜ。ヒュッテ西岳の営業は、たしか7月始めからだ」
「あれが来てから変だよな」川村も不審げだ。「とにかく、ヤツには用心しよう」
「うん、とくに難所はないから、大天井(おてんしょう)までノンストップで行くぞ。その辺で日が暮れるだろう」
霧がしだいに巻いて来ていた。
「霧だ。ワムラ、気をつけろ」
「ああ、しっかし、すげえな。また、まっちらけだ。離れるなよ。なんかイヤな予感がする」
わけのわからない不安が2人に警告していた。川村はナイフを取り出して身につけた。サバイバル用のゴツイものだったから、そのぶん安心感があった。
濃い雲の固まりはまもなく過ぎ、その後はじんわりした霧に包まれたが、道を見失うほどではなかった。彼らはひたすら先を急いだ。
ついに日が暮れだした。
「おかしいな?そろそろ大天井ヒュッテのはずだが?」
「うん…?」
上松は植生の陰に何か見つけたようだった。かがんで確認していた彼が、川村を呼んだ。
「これ、見覚えないか?」
川村の顔色が変わった。
金糸を織り込んだ青いリボン。きのう、4人でテントを張った時、菓子のふくろについていたリボンを、何気なくそのへんの枝に結んでおいたのだ。
「ここは…きのうの西岳テント場だ…」
ウソ寒いものが2人の背中をこわばらせた。いやな汗が全身ににじむ気がした。だが、間違いなかった。間違いなく270度の眺望を誇る西岳のテント場だった。
いったいどういうことなのだ。北北東に進もうとして南南西に戻ったことになる。
「こんなことってあるか?ルートファインディングはまちがいなかった」
川村がつぶやいた。
「わからん。とにかく間違えたことだけはたしかだ。無人だけどヒュッテ西岳に行くか?」
「いや、あれを見ろ」川村が絶望的に言った。「罠だ」
ヒュッテの方角からぶあつい雲が湧いてきていた。彼らは身の毛のよだつ思いがした。
霧が巻くとロクなことにはならないのだ。単なる悪天候や運の悪さだけではない、何か異様な意図というか、作為が働いている気がした。
川村が罠と言ったのもそれを表現したのだろう。
「やたらに動くのはマズイな。ここでビバークしよう。ワムラ、ストックよこせ。すぐ設営できる」
月が昇ってきていた。満月で、銀の盆のように丸く明るかった。霧は周りを幾重にも囲んで流れたが、満月を覆い隠すほどではなかった。
もう、火を使うのは恐ろしかった。彼らは水と乾き物で味気ない食事をとった。
奥行き2m10cmのビバークツェルトは、ストックを横にして2本で前後に突っ張って
間口をしっかりとった。こうすれば、2人でもまあまあの居住空間ができるのだ。
「どう考えても、おかしい」地図を広げて自分たちのルートを確認していた上松がつぶやいた。「ここは大天井のはずなんだ。西岳であるわけがない」
「あんまり、気にするな。事実関係だけ見るんだ。リボン確認しただろ。回りの景色も西岳のテント場に間違いなかった」
「それが誤認だったら?」
「おまえも見たろ。なにが言いたい?」
「ここが西岳だと思わされていたら?」
「誰にそう思わされなきゃいけないんだ?西岳の大自然にか?」
そう言ううちに川村も胡乱になってきたらしく、表情が不安そうに変わる。
「やっぱり気になる。ちょっとおれ、リボン確認してくる」
「気をつけろ。何か音はしないか?」
上松はしばらく耳を済ませた。
「大丈夫、静かなもんだ。行ってくる」
這い出して行く彼を、川村はツェルトのベンチレータから首だけ出して見守る。
あいかわらず霧は流れていたが、月は清明で、ハイマツの枝もよく見えていた。それほど時間がたたないうちに、彼はリボンを見出していた。
「あった。ワムラ、リボンあったワ」
「そうか…。間違いなくきのうのテント場だということだ。ま、いい。早く帰って来い」
疑いようはなかった。霧のまにまに見える風景も、どう見ても大天井ではなかった。それでも、もう一度確認しようとしゃがんだ時、上松はブワアッと背中からつき飛ばされていた。
一瞬、(鹿???)と思った。
樹林帯では気の立った牡鹿に後ろから角で突き飛ばされることがある。だが、ここは森林限界だ。
ドドドドドドッと競馬場で競走馬の群れが激走するような地響きと、ゴゴゥワァァという息も止まるような圧迫があった。
ワケもわからず、上松はテント場の傾斜をコロコロと転がっていた。危険だ。どこまで落ちるかわからない。
必死でハイマツの枝にすがり、体の落下を止めた。前方からの強烈な圧力を匍匐前進でしのぎながら這い上がった。平坦地まであと1歩の時だった。
視界いっぱいに山吹色のものが襲いかかるように舞い上がり、ズシンと重量感のある音をたててガレに激突した。
「わあああぁっ、か、顔だぁぁっ」
同時に川村の極限の叫び。
上松は意味がわからなかった。
それよりもこの状況になって、はじめて脅威の原因がわかった。
風だ。
突出した西岳テント場は突風が吹くと恐怖的状況になる。
うかつだった。風を全く考慮に入れていなかった。ツェルトは川村を内蔵したままズリズリとザレをすべり、節句のこいのぼりのように凶暴に風をはらんだ。
入り口のつり紐がハイマツに絡みつく。まずい、下は岩場だ。
「ワムラっ、ベンチレータ閉めろっ。風はらむっ」
言うより早く、川村は努力していたのだ。だが、皐月の鯉そのままに激しく上下にはためくツェルト内では、翻弄されるしかなかった。手提げ袋を叩きつけるように、彼はザックとともに何度も岩場に激突した。
さっきの顔はなぜか弾かれたように消えていたが、そんなことで喜べる状況ではなかった。
恐れていたことが起こった。
ツェルトの床は紐であわせるようになっている。叩きつけられる弾みで、それに首を突っ込んだのだ。はためくたびに否応なく首が絞まっていく。川村がバタバタともがくのが、薄い生地を通して上松にも見えた。
死に物狂いで這い寄った。やっとの思いでツェルトに抱きついた瞬間だった。生きた鯉が跳ねるようにそれは大きく空中に踊り、上松は蹴りだされるボールのように空中にいた。
月が、霧が、ハイマツが、下の岩場がクルクルとめまぐるしく回転し、ものすごい勢いで迫っていた。
パアンッというような乾いた衝撃音が全身からほとばしった。
川村は首吊り状態になりながらも、それを見ていた。あの高さから叩きつけられてはもうダメだろう。
「ちっくしょぉお」
最後の力を振り絞った。彼は何度か失敗しながらもナイフを取り出した。吹き散らされて、激しく踊り狂うツェルト内ではかなり危険なことだった。
彼は刃先を首に絡んだ紐に押し当てた。
グオンッという怒涛のような風圧がツェルトを吹きなびかした時、夜目にも黒々とした液体がその首筋から噴出するのが見えた。ナイフは紐とともに頚動脈をも切断していた。
キラキラと振りまかれた血潮が、銀の溶液のようにあたりに散っていった。
上松は全くの無音世界にいた。
心臓の鼓動のたびに全身がズキズキと痛み、途切れ途切れの呼吸は血のにおいがした。かなりの高さを背中から落下したために、骨や内臓、筋肉にもかなりのダメージを受けたのは、自分でもわかっていた。
カチャカチャという音が聞こえ、それがまもなく不吉なザリザリという音に変わった。全身がボロキレのように萎えている彼は、目だけをその方向に向けた。
「まぁ、あわてることはない」
そいつは最初に会ったときにほざいたセリフを、また口にした。
満月に照らされた装備と服装は時代離れしていた。ニッカーボッカというのだろう、職人のようなズボンに分厚い靴下をひざ下まで引き上げている。オーダーメイドらしい高級な登山靴はひどく重そうでゴツかった。
(OBオヤジか…。こいつが来るとロクなことがない。死神かもな?おれも長くないのか)
そんなことが頭に浮かんだ。
「はぁ?なに言ってんの?」
そいつが心外そうに言った。
いや、こうしてじっくり聞いてみると、言うというより思念が直接頭に響いてくる。それを脳が音声として、耳から聞こえたかのように処理している気がした。
OBオヤジは『さとり』のようにこっちの意思が読めるようで、何度か姿を現すたびに彼ら4人の思考を読み取っていたらしかった。
「母校の数え歌が聞こえてさ。懐かしくてね」
たしか、最初に会ったときもそんなことを言っていた。まぁ、死神にしては、やけに善良な言葉だった。
「昭和44年だったよ。それから、ずっと1人。たくさんの人が来て通りすぎて。…でも、それだけ」
(……?)
「縁がないんだ。だから、さびしくてさ。だれにも触れない年月を10年20年と積み上げるんだ」
(どういうことだ?OBオヤジは昭和からずっと山にいた?)
「そこに、君ら4人が来た。あのT大の数え歌、ぼくもよく歌ったものだ。縁がある、そばにいられる。ほんとうにうれしかった」
(こいつはなにを言ってるんだ?話が読めない)
「最初の横田くんさ、友達になれると思った。そしたら、ぼくをあんなに嫌うんだもの。ショックでさ、志野島くんに頼ったんだ。横田くんのこともあったんでちょっとおどかしたら火事になっちゃうんだもの」
OBオヤジがニタリと笑うのを見て、上松は怒りで血が煮えた。
「なんだとっ。やっぱり、おまえだったのかっ」力を入れると骨がきしんで、恐ろしく全身が痛んだが、黙ってはいられなかった。「おまえは人間じゃぁねえな。化け物かっ。おまえのせいでみんな死んじまったっ」
「ひどい。ぼくはなにもしていない。川村くんなんか、あんまりだ。刃物を持ってて…。ぼくは金気(かなけ)はダメなのに」
被害者意識丸出しの言葉だった。
だが、(金気がダメ…?)思い当たる民話があった。
「そうか、おまえは悪鬼の類だな。遭難者か?化けて出るな、バカッ」
「化けてなんかいない。ぼくはずっとこのまま。いつまでも21だ。君らとあんまりかわらない年だ」
そういわれて、上松はあらためて良く良く見ずにはいられなかった。月明かりに浮かび上がった皮膚も顔つきも手の形状も、どう見ても20代の若者のそれではなかった。
だが、頭に響いてくる声だけは、なるほど確かに若いかもしれなかった。
「なにがしたい?」
「さびしくてたまらない。そばにいたいんだ。縁のある人に頼りきりたい。一体化だよ、一体化したい。それだけ…」
一体化?どういうことだろう?抽象的すぎる気がした。説明が必要な言葉だったが、そいつは黙って上松をじっと見つめた。
不意に、ひよ~んと、首がやけに伸びた。
ちぎれたボロ雑巾のような湿った皮膚をぶら下げて、皮一枚でかろうじてつながった頭部は、お化け屋敷のロクロッ首のように40cm以上も肩を離れた。おそらく滑落したのだろう、体のあちこちがグズグズに崩れて見えた。
トロトロトロ~ッと蝋かパラフィンでも流れるように皮膚がとろけて、強い腐臭のする粘液がタラタラとしたたりおちた。
赤いゲジゲジやミミズ、シデムシ、ナメクジの類を一面に這わせた暗い眼窩のまわりには肉はなく、青ゴケをはやした頭蓋骨と抜け散らかった汚い髪が見えた。
白くうごめくのはウジの塊だろうか?
残りの部分はミイラ状にゴワゴワと干からびて、しわだらけな渋紙にそっくりだった。60歳以上の印象はここからきたのだ。
そいつは感極まったようにニタニタと笑った。
次の瞬間、ゆらりと垂直に浮き上がり、それからカカシが水平にゆっくり倒れるようにガバァと真上に倒れこんできた。人間では絶対にできない直線的で重力を無視した動き。
「うわぁっ」
なんともいえない生ぐさい悪臭とともに腐肉が絡みつき、冷たく腐敗した体液が口、鼻、目、耳のあらゆる部分からじんわりと流れ込んでくる。えぐくて臭くてにがくて渋いくせに、変に甘くて酸っぱい吐瀉物のような味。
「やめろっ」
嫌悪に総毛立った。身をもがいて振り払おうとしたが、体は絶望的に動かなかった。しだいに口の中が汚液に満たされ、叫びがゴボゴボとくぐもった。
「ああ、君は暖かい。気持ちがいいよ。心臓が動いてる。ぼくもこうだったんだ」
腐汁はしだいに内臓部分に達し、まだ生きて生命活動を続けている上松のそれをゆっくりと侵食しはじめていた。同時に、崩れて繊維の束だけをのこした筋肉組織と糸状の神経の断片が、生き物のように複雑にうごめいて絡みついた。
自分が徐々に生き腐されて行くのを感じた。
死骸に集まる昆虫があたりを覆うように埋め尽くしていた。
肺機能が停止し、もう、呼吸はできなかった。ぬるぬると冷えきって、変にベタつく腐乱液が血管を腐臭で満たしながら心臓に流入するのがわかった。それが命の兆候を根絶やしにしながら全身をめぐると、体温が急速に奪われ、強い収縮的な痙攣が全身を覆った。
すべての思考がとぎれ、苦痛のようなものがわずかに残っていたが、それもすでに生命の残滓をあらわすものではなかった。
彼は一部に生々しい部分を残しながらも、一部が死蝋化、一部腐敗し、残りが白骨およびミイラ化していった。
濃い雲が月を覆い隠し、再びあたりが明るくなったとき、上松の姿はどこにもなかった。
ザレの一角が、一体分の人でもうずめたかのように盛り上がっているのを除けば、見渡すかぎり、西岳のテント場にはもう、だれもいなかった。
山霧の巻くときは用心に越したことはない。
ザレ場で音がするのは鳥や動物でないなにかが、さびしさのあまり彷徨い出ることがあるからだ。
月は落ち、夜明け前の登山道を、早出のパーティが登ってきていた。
彼らは薄れ行く星の光に興をもよおしたのだろう、薄明かりの中を、こんな歌を歌いながら遠ざかった。
♪ぼくが山で呼んだら 君は返事をするかしら
都会の明かりも喧騒も ぼくの心には届かない
ぼくはいつも石を積む 君の幸こそ多かれと
君はすべてを忘れ去り 花の手向けももう来ない
ぼくが一人で呼んだら 君は振り向き見るかしら
ぼくの寄り添う眼差を ぼくの差し出す手の平を
ぼくが山で呼んだら ぼくが一人で呼んだら
山霧の巻くとき(山岳ホラー)