「サスティナブル」VS「ファッショナブル」――ファッション村はなぜ地球環境を破壊することを好むのか?
DMにて質問をいただいた。
「ファッション村はなぜ、センスや知見の優劣を評論することを好み、サスティナブルな服を憎悪するのか」
「”ファッショナブル”と”サスティナブル”は相性がよくないのか、両立は不可能なのか?」
本稿はこの質問への回答である。
1.ファッション村とは?
ファッション村はその名の通り「ファッション」を至上価値とする村である。似ている村に変態村がある。
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変態村の主要産業が変態であるように、ファッション村にはファッションしかない。ファッション以外のことは何もわからぬ。ファッション村は、脳みそまでファッションアディクトでもある。マルジェラがどのシーズンまで関わっていたかで口角泡を吹き、リック・オウエンスのアイコラ写真を収集して遊んで暮して来た。けれども縫製とOEM工場に対しては、人一倍に敏感であった。逆にそれ以外なにも敏感ではなかった。ちなみに変態村の有名なダンス動画はこちらから見ることができる。映画史に残る名ダンスシーンなのでTikTokで流行ってほしい。
ファッション村は変態村と異なり、自然環境に恵まれていない。コンクリートジャングルで互いの服を格付けし合い、マウンティングを繰り返すメカニカルアニマルである。それだけでなぜファッション村が環境問題に無関心であるのか、明らかにも思える。ここで筆を折ってもよいが、しかし今回はせっかくいただいた質問なので真面目に回答をしていきたい。
2.サスティナブル・サスティナビリティとは?
前提となる問題を整理する。
ファッションの話題における「サスティナビリティ」とは"Sustainable Development Goals"(持続可能な開発目標)を意味する。まずこの「持続可能」の主語についての問題がある。人類なのか、動物なのか、それとも地球環境そのものなのか。一般的には、ファッションの文脈ならば人類で良いはずだ。あくまでアパレル産業を持続させるために、その原資を枯渇させないようにし、未来の世代に発展を継続して託すという意味として解する。
これはエコロジーに連なる思想としては、かなり人類側、経済側に妥協的な考えである。過激派としては、エコファシズムやディープエコロジーなど、もっと環境寄りの思想潮流も多くある。わかりやすい過激派といえばシャアのアクシズ落としである。あくまで本稿では上記の程度の受け入れやすそうなエコ思想までを対象とする。
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3.「ファッショナブル」と「サスティナブル」の相性は悪いのか?
これは自明である。まったく相性問題というのは存在しない。予め結論を述べるが「ファッショナブル」と「サスティナブル」はまったく独立した問題である。
なぜならファッショナブルの根拠はその服のデザイン≒デザイナーであるのに対して、サスティナブルは環境負荷である。単純に言って、デザインと環境負荷はまったく関連しない。よっぽど環境負荷をかけなければ実現しないようなデザイン(例えば毛皮とか?)を行うのでなければ関係がないということだ。
いわば「デザイン至上主義」と「エコ至上主義」は両立可能ということだ。例えばヨーガンレールはそうだったかもしれない。オールバーズもそうかもしれない。(ただしどちらも客観的に見るとデザインがかなり悪いので、デザインも両立していると思っているのはファンだけかもしれない)
しかし相互に独立した信念体系であるにも関わらずファッショナブルとサスティナブルの両立は、なぜ難しいように感じられるのか?両立しているブランドを例示しようにもサスティナブルなブランドから感じる総じてダサいオーラはいかんとも説明しがたい。この感覚を言語化し、追及することが本稿の最終目的である。本来的にはありえない対立は、どこから始まっているのだろうか?結論付けるならば価値の「根拠」の違いが、解決不可能な相性の悪さ、その源である。
4.価値判断の根拠
ファッショナブル派とサスティナブル派で重視する価値の違いを簡単に図示する。
・ファッショナブル → デザイナー、デザイン、センス、トレンド
・サスティナブル → 環境負荷、生産背景、イデオロギー
これは言い換えれば以下のように概括可能である。
・ファッショナブル → 「経験的な価値」帰納的、アポステリオリ
・サスティナブル → 「先験的な価値」演繹的、アプリオリ*1
「経験的価値」と「先験的価値」の違いこそが決定的な、互いに憎しみ合い、理解を遠ざける源なのである。「ファッショナブルの経験的価値」とは要するに、自分で手に入れた経験や知識、磨いたセンス、買った服、そのコーディネート、色使いや丈感の合わせ方、またデザイナーを評価する審美眼、デザインを語る批評性、などを価値にしているという意味である。対して「サスティナブルの先験的価値」とは、地球環境への負荷、生産背景の労働環境、適正な賃金、トレーサビリティ、人権問題、気候変動への対応などである。
ファッション村は北斗の拳マッドマックス地獄の黙示録じみた好戦的な民族が多く、経験的価値のみが評価される。いや大人しい民族もいるが、基本的に乱交社会である。これはTwitterというタイムラインの形式ゆえに築かれた文化であり、いわゆるmixiや2ちゃんねるのような特定のブランドのコミュニティに閉じこもるのではなく、文化の混じることを良しとしている。殴り合いと話し合いは表現技法の違いに過ぎない。ほとんどのファッション村の人間はただひたすら独り言として服の話をぶつぶつつぶやいているだけであるが、望ましくは同好の士による交流、文化の交じり、私見の議論、おすすめの紹介、男女LGBTQ異性同性交遊である。
あらかじめ決まった価値をひたすら肯定するような、例えばMB LABOの人間同士がMB氏の配信について熱く語り合うようなことをしない。ギャルソンオタク同士がギャルソンオタクみたいな会話を延々繰り広げることもしない。
それゆえに「サスティナブルの先験的価値」は遠ざけられるのだ。ドリス好きも異常に多いが、別にドリスの話題をずっとしたりはしない。Supremeの話もほとんどしない。バレンシアガの流行もまったく伝播していない。ただひたすら、孤独な発狂者が壁に向かって話しかけるようにツイートを行い、たまに応答が起こり、その応答に喜びを見出すのだ。
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5.ファッショナブル or サスティナブル / 先験的価値 or 経験的価値
構造を反転させ「ファッショナブルの先験的価値」と「サスティナブルの経験的価値」も加えて考察することで、以上の考察は簡単にまとめることができる。
a.ファッショナブル ∧ 経験的価値 → デザイナーを知っている知見、デザインを選ぶセンス、コーディネートへの取り入れ方、トレンドの解釈
b.ファッショナブル ∧ 先験的価値 → デザイナーネームバリュー、ブランドイメージ、トレンドの影響力、高いスペック
c.サスティナブル ∧ 経験的価値 → 生産背景を知っている知見、環境に良いものを選択する審美眼、イデオロギーを示す態度、丁寧な暮らし
d.サスティナブル ∧ 先験的な価値 → 低い環境負荷、生産背景の透明性、環境保護のイデオロギー
つまりファッション村の人間はaを好むがbは好まない。
ジルサンダーは好むが、ジルサンダーのロゴTシャツを着る人間は嘲笑される。
アルマーニカフェには行くが、アルマーニでは買い物をしない。
ブランドでイキり散らすタイプや、1つブランドに極端に偏愛するオタクは好まれない。
ダッドスニーカーやエクストラシルエットを否定するわけではないが、流行りたてのヴェトモンには全く飛びつかなかった。
よく言えば落ち着きがあり社交的な竹林の七賢人だが、悪く言えば感度の悪いワガママな中流所得のプチブル趣味である。それゆえに、コネと金のパワーでなんとかなるようなファッションの価値観、つまりbの価値観を持っていない。bはコネと金さえあればセンスなしでも叶えることができる。更に踏み込んで言えば、bとdのような先験的価値は、あらかじめその価値が"良いもの"として固定されているために、コネと金さえあれば叶えることができるのだ。「コスト」を今よりも更にかけることが許されるなら、原理的に言ってどのようなブランドもサスティナブルを重視して生産できるだろう。また消費者も今より更に「コスト」をかけられるなら、ないよりはあった方がいいものとしてサスティナブル製品を喜んで買っていくだろう。しかし現実にはその制限を超えることは不可能である。どのような思想であれ、態度であれ、この後期資本主義下においては金がかかるのだから。完全にエコロジーな生活は未だ、完全な金持ちにのみ可能である。
(余談だが尊敬するSUKEBENINGEN氏はかつて「古着でデザイナーズブランドを再現すること」を賞賛していた。これも明らかにaの価値観である。)
《書評》『ハイコンテクストなノームコア』は、じつはSUKEBENINGENの騙りである。 - Fashion,Fine-art,and Forecast.
6.結論と展望、そして闘争へ
これが表題の問いに対して最も根本的な回答である。解決不可能な相性の悪さ、その源は「経験的価値」と「先験的価値」の対立であると結論付けた。
では、どのようにすればファッション村の野蛮人に対して蒙を啓くことができるか、この煉獄のような地下世界にどうすれば理性の光を差し伸べられるのか、そのヒントもこの考察から導くことができる。例えばcのような「サスティナブルの経験的価値」には可能性がある。サスティナブル自体が武器になればよいのだ。経験的なレベルにイデオロギーを落とし込むとは、そういうことである。
ここからは私が語るべきではない。なぜならサスティナブル村とファッション村の永きに亘る闘争は、こうして今はじまったばかりなのだから(完)
”第三次世界大戦がどのように行われるかは私にはわからない。だが、第四次世界大戦が起こるとすれば、その時に人類が用いる武器は石とこん棒だろう” --アルベルト・アインシュタインのサスティナブルな予言
文責:DJ AsadaAkira
*1:*「先験的」とは、経験に先立つという意味。経験するまでもなく決まっている、ということ。
本当に正しいアンダーグラウンド式アルティメット完全無欠コーヒーダイエット~1ヶ月で8キロの減量~
注意:これは"小説"なので決して真似をしないように。
流行りのライフハックはLife(生活)をハックする方法である。
しかし私のライフハックはLife(生命活動)そのものをハックする方法だ。
1ヶ月のダイエットで8キロ痩せた。
最近、オーダーしたスーツが想像よりもタイトな仕上がりで出来上がってきた。パンツのクリースがキレイに落ちてくれなかったのだ。選択肢は二つあり、部分的にサイズを直すか痩せるか。私はオシャレなので後者を選んだ。
基本方針は前回のアンダーグラウンド・オシャレダイエットと同じである。
要するにバタバタと運動したり、長期間行ったりするのはオシャレではない。無駄なものに使う金があれば服に金を使いたい。シャネルのカール・ラガーフェルドがエディ・スリマンのデザインしたスキニーな服を着るために激やせしたように、オシャレのためのダイエットとはそういうものなのだ。
アンダーグラウンド・オシャレダイエットではECAスタックの方法に則った。ドラッグあり、ルール無用。痩せるために使えるものはなんでも使っていく。今回もはじめはECAスタックに頼った(第一部)が物足りなさを感じ、面白くやっていくため更に劇薬を投げ込んでみた(第二部)。
第一部
アルティメット完全無欠コーヒーダイエット
*用意するもの(それぞれ推奨品)*1
まずは話題のシリコンバレー式完全無欠コーヒーダイエットを批判したい。
あんなもの効果あるわけないでしょう?
身体的コンプレックスに自己啓発をコミットさせた低俗な書物である。
”消費カロリー>摂取カロリー”
この法則は何が何であろうと絶対である。たしかにグラスフェッドバターに含まれる酪酸やMCTオイルの中鎖脂肪酸は消化されやすいとはいえ、カロリーはカロリーである。また消費カロリーが増えるわけでもない。もちろん質の悪い脂質や糖質を大量に摂取するよりかは健康にとって効果的である。だがダイエット(減量)にとって効果的であるというわけではない。*2
しかし完全無欠コーヒーの良さとは、”痩せるコーヒー”というキャッチーなコンセプトである。生活の習慣規則にコーヒーを飲むリズムを取り入れ、自己のコントロールに役立てるそのバイブスは評価したい。効果が微妙すぎるところを除けば悪いものではない。そこで今回は本当に
科学的根拠に則った、絶対に痩せるコーヒー
”アルティメット完全無欠コーヒー”を作ることにした。
完全無欠コーヒーは原語にあたると"Bulletproof Coffee"と呼ぶ。
それならば私の作るコーヒーは"Anti-Materiel Coffee"だ!
再三の注意、本気でこれを真似すると人によっては死ぬ。飲めばわかるけれど非人道的兵器っていう感じが半端じゃないので本当にオススメしない、国際条約で規制されている兵器を人間に使ってみる実験みたいなものとしてご覧ください。
基本方針をおさらいしたい
・運動はしない(めんどくさいのはいやだ)
・アルティメット完全無欠コーヒーを飲み続ける(主に朝7時~夜7時までの間に飲む)
・超低カロリーの場合は筋肉も落ちやすいので落ちない工夫(ECAスタックなど必要)
・カフェイン、タンパク質、脂質はこまめな摂取で空腹感がまぎれる(また水分はコーヒーと別に1日あたり1~2リットルは飲む)
・またタンパク質はなるべく多目に、今回は体重1kgあたり1g摂取を目標とする(タンパク質不足は筋肉が分解されやすくなる、減らすのは脂肪だけというのが理想)
・摂取カロリー1日500kcal以下(絶対に普通の人はやめたほうがいいレベル)
・1ヶ月の超短期間で終わらせる予定。1ヶ月の減量目標8kgとする。*3
それでは早速つくってみよう。
まずは適当なブラックコーヒーを1リットル用意する。1リットルくらい飲んでカフェインは600mg、(個人的にはシェイクしやすい500mlのペットボトル入りコーヒー2本を使うと行いやすいと感じた)少し中身をコップに出してから、そこにMCTオイルを大さじ1杯(約100kcal)入れる。ここまではよくある旧完全無欠コーヒーと大差はない。グラスフェッドバターの酪酸は重要と言われるが、コスパが悪いので不要だ。高い割に効果はMCTオイルよりもものすごくいいのか?というとほとんどそんなことはない。代わりにホエイプロテインを30g入れる。これでタンパク質を約25g(鶏肉100g相当のタンパク質、100kcal)を摂取できる上に味がマイルドになり飲みやすくなる。こうして出来上がるコーヒーのカロリーは200kcalほどである。これを1日の朝から晩までゆっくりと飲み続ける。
しかしこれではただ健康に効果的なだけで、ダイエットに効果的なわけではない。そこで”痩せる薬”としてアスピリン4錠、ブロン8錠を混ぜる。諸兄らにはおなじみのECAスタックの出番である。
Ephedrine
Caffeine
Aspirin
以前のブログ記事においてはLIPO6を使ったが、たまたま家に材料が揃っていたので自作してみた。飲んでみると溶け出したブロンの糖衣が甘さを引き立たせ、コーヒーとしての完成度が微妙に高い。意外な実験結果である。*4
というわけで出来上がった”アルティメット完全無欠コーヒー”を飲みながらまずは1週間ほど実験してみた。
第一部”アルティメット完全無欠コーヒーダイエット”実践編
経過観察中に残したメモを編纂し、なるべく思い出しながら補填して書き記す。
1日目~3日目
明らかな気分高揚、時折の空腹感に襲われるがその度にコーヒーを飲むとかなりの程度まぎらわすことができる。活動の低下は感じられないどころか、むしろ頭も体も冴え渡っている。昼はサラダチキン(約100kcal、タンパク質25g)と夜は鶏肉と野菜のカレー(約200kcal、タンパク質25g、脂質5g、炭水化物10g)を食べるようにした。またマルチビタミンとミネラルもサプリで摂取。基本的な食習慣はこれで1ヶ月変更なし。
4日目~7日目
以後、空腹感が消滅した。かといって食事自体はできるので、可逆的な摂食障害というような印象である。テンションの上がり方がとんでもない。瞳孔が開いており、周囲から怖がられる。要するにエフェドリンもカフェインも大きなくくりで言えば覚醒剤なので当然である。スタミナの減少が著しく、疲労感も強まっている。がしかしテンションは高いので動きに支障は出ていない。例えるならギアの軽い自転車を高速で漕いでいるような感覚と言えば近いだろうか。馬力はないが動き自体は非常に活発である。
1週間経過時点で体重は3kg減少。しかし体重は体内の水分量次第で1~2kgほどは動くので信頼できる指標ではない。またダイエットし始めは特にこの水分が抜けやすいので実際に脂肪がどのくらい減ったのか?というのは難しい。*5
8日目~9日目
体力の底をつく感覚。全身が怠さにまみれている。確実に寿命を縮めている感覚。私のLife(生命)がハックされている。ハイデガーが語るような「死への先駆的覚悟」とはまさにこうした境地ではないだろうか。そもそも生きていること自体が死へと向かうことなのだから、過激なダイエットで死へ向かうことと単に生きることとの差はどれほどあろうか?憂鬱は哲学の肥やしであり、哲学は精神力を強くする。これほどの過酷さに耐え得るのは身に付けた哲学の恩恵であろう。
ここで一度、夕飯にカップラーメンを1つ食べた。炭水化物と塩分の塊であるが、低カロリーな250kcalほどのものなので1日500kcal以下の制限は破っていない。そうすると倦怠感がかなりの程度解消された。炭水化物は非常に優秀な活動源であると実感した。
しかし、ということはつまり、体の脂肪がもっと効率よく活動源になってくれれば非常に楽なのではないか?と考えた。そこで改めて脂肪燃焼、代謝の働きについて勉強し直し、いくつかの考察を得た。
”第ニ部”
アンダーグラウンド式アルティメット完全無欠コーヒーダイエット
ここからが本編です。
体脂肪がもっと効率的にエネルギーとして使われれば、恐らく倦怠感や疲労感はなくなるのではないだろうか?アルティメット完全無欠コーヒーにはまだ改善の余地があるはずだ。
そこでいくつかの論文やブログなど調べ、もっと強力で完璧なコーヒー作りを行った。
ただのアルティメット完全無欠コーヒーではない。
ここからが本当のダイエットコーヒー、法律的倫理的にギリギリな”アンダーグラウンド式アルティメット完全無欠コーヒー”のレシピが完成した。
ここからは本当に絶対に真似をしないように強く推奨したい。
日本では未認可の処方薬を個人輸入する必要があり、それはアスリートが使うドーピングドラッグの一つである。副作用も非常に強い。そのような劇物を面白さのために酷い飲み方をしてみているので、真似をすると本当に死ぬかもしれないので再三再四の注意をしておく。
第ニ部”アンダーグラウンド式アルティメット完全無欠コーヒーダイエット”理論編
専門外のためこれは非常に図式的で、正しくない可能性が高い。私の主張の概要のみを理解し、詳細は各自で調べてもらいたい。
まず「脂肪燃焼」という言葉は適切な定義に基づいて使われていないのが問題である。脂肪がエネルギーとして使われる現象全体の名前でしかないので、より細かく定義する必要がある。
体内の脂肪はまず脂肪分解酵素によって分解される(①)
それから血中に流れ(②)
筋肉などで消費される(③)
つまり③「脂肪燃焼」という現象にはまず①「脂肪分解」と②「脂肪動員」が先立っている。これらのレベルを高めることが根本的かつ最重要なのである。
では脂肪分解と脂肪動員に関わるものは何か?大きくわけて3つのレベルがある。
重要度の高いものに、アドレナリン、ノルアドレナリン、ドーパミンの3種類のホルモン、まとめて「カテコールアミン」と呼ばれるこれらのホルモンと、インスリン抵抗性、インスリン感受性。アドレナリン受容体が①「脂肪分解」に非常に大きく関わっている。
カテコールアミンやインスリンよりは重要性が低いものに②「脂肪動員」に関わるセカンドメッセンジャーとしてのアデニル酸シクラーゼ、cAMP、またその他のホルモンであるテストステロン、エストロゲン、成長ホルモン*6などがある。
そして確かに関係するものの重要度がかなり低いものとして、脂質や炭水化物の質自体やビタミンBやら雑多なものたち、脂肪燃焼に関わるホルモンとは直接関係しないただの食事の成分がある。*7
カテコールアミン、インスリン>セカンドメッセンジャー、その他のホルモン>>>その他の食事
ところでECAスタックがなぜ効果的なのか。エフェドリンによってノルアドレナリンが分泌され脂肪の分解が進み、カフェインとアスピリンが脂肪動員を阻害する酵素とブロックするためスムーズな脂肪燃焼が行われる、という機序である。しかしエフェドリンの問題がアドレナリン受容体のαとβのどちらにも作用してしまう点である。α受容体への作用はむしろ脂肪の燃焼を妨げてしまうのだ。*8この悪作用なくβ受容体にのみ働きかけることができるならば、もっと効率的かつ強力な脂肪燃焼が可能なはずである。そんな薬物があるのだろうか?
ググったらありました。
というわけで更に様々なドラッグを混ぜ込み本当の意味で"究極"の”アンダーグラウンド”なレシピが完成しました。
どのくらい強くなったかというと、ラルフローレンで例えるとRRLくらいだったものがパープルレーベルになったような、ミハラヤスヒロとキャロルクリスチャンポエルくらいの別物というか、まるでセリーヌにフィービー・ファイロが就任した時に似ているというか、2004年ごろのDior Hommeに匹敵するほどの勢いになりました。
”アンダーグラウンド式アルティメット完全無欠コーヒー”
*用意するもの(絶対に、絶対に推奨はしません)
まずは各薬物について概説を行う。
メインとなる成分はクレンブテロール。効いている量を調整しながら40mg~100mgまで混ぜた。喘息薬として使われるがあまりにも強いので日本ではほとんど処方されない。というか普通に処方薬なので普通に売ってない。β受容体にのみ働きかけ、効果は36時間持続する。筋肉を維持して脂肪のみを燃やすためボディビルダーにも愛用者は多い。ただドーピングに指定されているほどなのでどう考えても一般人の使用は非推奨。特に強い副作用は震え、こむら返り、とにかく筋肉がつる。ステロイド使うよりはマシ、というレベル。絶対にカリウムとタウリンを摂取するように注意。2週間で耐性がつくので短期決戦専用です。
フォースコリーはcAMPに作用する。またテストステロンや甲状腺ホルモンにも作用する。一応ダイエットサプリとして有名で、そこらへんで売られているが、試験用試薬として使われるたぐいのものでけっこうな劇薬。*9副作用は下痢、軟便など。
ヨヒンビンは精力剤として一部では有名であるが、日本では未認可。これも海外輸入せざるを得ない。効果は脂肪分解に悪作用を起こすα2受容体のブロック。副作用は特に起きていないが、多くとるとα1受容体までブロックしてしまい副作用が大きくなる。
ノコギリヤシはエストロゲンのブロック。ダイエットの効果は薄いがおまけとして。エストロゲンは腹や太腿の脂肪が分解しづらくなる原因なので排除していきたい。
標準量はコーヒー1リットルにMCTオイル大さじ1杯、ホエイプロテイン30g、クレンブテロール40g、フォースコリーの有効成分50mg相当量、塩酸ヨヒンビン3mgとα-ヨヒンビン0.3mg、ノコギリヤシ320mg、これらを混ぜてシェイク。明らかにやばい。絶対死ぬ。
第ニ部”アンダーグラウンド式アルティメット完全無欠コーヒーダイエット”実践編
10日目~12日目
薬の成分が混ざると危険そうなので2日間の休み。
摂取カロリーも1000kcalに一旦戻し、体力を回復させてから新コーヒーに挑むことにした。
12日目~15日目(新コーヒー1日目~3日目)
はじめて飲んだ時の心臓へのマッシブアタックはECAと同じく強力だった。小一時間は動悸が続き、筋肉が痙攣を起こした。がしかし2時間ほどで馴染んできて単に手が軽く震えたり、やたら筋肉がつりやすくなったりする程度に収まった。またフォースコリーの副作用だろう、腹痛を伴わない軽い下痢と軟便が2日間ほど続いた。不眠といえば不眠だが、まったく眠れないわけではなくむしろショートスリーパーでも活動強度がまったく落ちないので不自由なく夜更かしできるようになった。効きすぎてやばいので不眠でも全然体が動く。
体全身が隅々まで温かくなっている印象。頭はよく働き、体の動きも好調になった。怠さや吐き気、頭痛などはなし。苛立ちなど気分に悪い作用もなし。しかしやたらキマっている感じが強くあり、日常がずれている感覚に襲われる。いわば自分ひとりだけ違う世界線にいるような、ひとりだけエクストリーム日常競技にチャレンジしているような感覚といえばよいだろうか。ドラッグ感が非常に強い。また食事内容を変更し、クレンブテロールの副作用に対応するため1日あたりカリウム3000mg、タウリン6000mgを摂取するようにした。またナトリウムも多目を心がけキュウリの浅漬けを毎日2本(カリウム400mg相当)、トマトジュースを1缶(カリウム900mg相当)、タウリン3000mg含有の栄養ドリンクを2本、それらと合わせて500kcal以下の食事になるよう、昼はサラダチキン、夜は鶏肉と野菜のカレーを食べた。
14日目の時点で体重を測ると当初より4kgの減少だった。
16日目~21日目(新コーヒー4日目~9日目)
下痢の副作用は初めの2日間ほどで消えた。マッシブアタックも初回以来なし。手の震えと筋肉がつりやすくなる症状のみが残っている。馴染んできたようなのでクレンブテロールの量を80mgにまで増やした。サラダチキンを食べているだけで顎をつりそうになるが、かといって力が入らなかったり活動強度が落ちているというわけではなく異常なほど体がよく動く。テンションも高めにずっと維持されている。キマっている感じは相変わらず強い。カフェインと比べるとβ受容体への刺激が36時間ほど続くので1日中アドレナリンが出続けてずっとガンギマリである。
21日目の時点で体重を測ると当初より5kgの減少だった。
22日目~26日目(新コーヒー10日目~14日目)
手の震えも収まってきており、ほとんど副作用は気にならなくなった。クレンブテロールを100mgまで増量。筋肉をつることもなくなった。腹筋が明らかに割れてきている。テンションの異常な高まりもなく、「ふつうに元気」とでもいえばよいくらいの状態が続いている。クレンブテロールは2週間で耐性がつくので、恐らくはその影響だろう。しかし500kcal以下での生活にも関わらずこんなにも問題なく生活できていることが、明らかな異常である。
27日目~30日目(コーヒー終了して休息)
摂取カロリーを1000kcalに戻し2日間の休息。断薬から依存や頭痛など生じないか確認する期間にした。普通のブラックコーヒーと低カロリーな食事だけで生活を行うが、問題はない。食欲はやや戻ってきているが軽食のみで満腹感が働く。
30日目を終えて体重を測ると7kg減。
その後2日間ほど2000kcalで生活し改めて体重を計測してみると平均値で8kg~9kgほどの減少のようだった。恐らくは初めの一週間で急激に体重の減少が起きたのは溜まっていた水分が抜けたため、そして30日目に普通の食事に戻してから1kg~2kgも減少したのも溜め込んだ不要な水分が抜けたためだろう。過度なカロリー制限は体内の水分量がおかしくなるので変化が大きい。実際に除脂肪体重でどのくらい変化があったのかは測らなければ不明である。
まとめ
やはりドラッグを使うとエンドレスサマーがやってくることがわかった。6つに割れた腹筋が錠剤のシートのように見える。幻覚作用は含まれていないので気のせいである。
当初の目的であったスーツは完璧なフィッティングに調整された。というかふざけて痩せ過ぎたので、ビスポークしたシャツの職人に怒られるのではないかが心配である。落ちづらいとされる腹部や下半身もかなり細くなったように感じられる。また健康への影響も終了後は全く感じられない。というかあの完璧なキメ感が恋しくすらも感じる。
こうして書いてみたが量は調整して行う必要がマストなので、この通りにやってはいけない。というかそもそもコーヒーに処方薬を溶かして飲んでもいけない。ライフハックは文字通り命がけなのだ。
そしてわかったこととして、本当に痩せる薬というのはこのくらいヤバいものでないとあまり意味がないということだ。市販品でやっていく方法は「健康にはいい」かもしれないが「ダイエットにいい」ものかどうか非常に微妙である。
正攻法はLyle McDonald氏の著作を読むとよい。特にこのUltimate Diet 2.0は名著の中の名著である。通称U.D2.0。
https://www.amazon.com/Ultimate-Diet-2-0-Lyle-McDonald/dp/0967145627
2ちゃんねるでトピックスの抜粋が和訳され転載されているので参考になる。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/shapeup/1459504774/
このあたりも日本語で読めるライル・マクドナルドの話
ニュートリション ベースラインダイエット パート1 | Cyber Trainer MAGAZINE
ニュートリション ベースラインダイエット パート2 | Cyber Trainer MAGAZINE
こちらのブログも合わせて読むべき
トレーニングと栄養: The Ultimate Diet 2.0 メモ
マクド氏は哲学的に言えばカントみたいなものなのでとりあえず読むように。海外のボディビル界隈ではテッパンである。ちゃんと科学的エビデンスに則った客観的な考察が非常に信頼できる。というかダイエット情報ってマクド以外のものを読む必要ないのではないか?だいたい内容は網羅されているし、正しく、ウソがない。
美容とかダイエットという人間の欲望が絡んでくるところに金のニオイを嗅ぎつけ集ってくる山師たちが世の中には多すぎる。完全無欠コーヒーとかもそうでしょう。管理栄養士や医者たちも健康とダイエットは重なりつつも異なる専門分野なので片手落ちになりがちだ。
騙されたくない人はとりあえずマクドを読んだ方がいい。
【クーポン】
iherbで使うと安くなるクーポンコード「KTT467」
僕にも多少安くなるリワードが来ます。
*1:別に成分が似たようなものならなんでもいいのでは
*2:低糖質ダイエットと低脂質ダイエットで効果に差はなし、体質の影響も見られず:米研究
アメリカでは業界が有利になるようなダイエットの研究を賄賂で行わせるなど、ロビーイング活動も活発である。効果を検証する論文が1本や2本あったところで信用するのは早計だ。かなり信頼できそうな最新のChristopher Gardner氏による研究結果を参考にすれば、例えば巷に流布する「糖質or脂質さえ抑えれば痩せる」という言説は非常に微妙だということがわかるだろう。Gardner氏は低糖質ダイエットを効果的と宣伝していた過去がある。完全無欠コーヒーはここまで流行してしまったが、低糖質ダイエットのブームはそろそろ疑われてもよい頃だろう。
*3:消費カロリーは多目に見て1日あたり2500kcalほどなので、理論値1日あたり2000kcalのアンダーカロリー。7000kcalで体重1kgとすれば1週間で2kgは痩せる計算。ただし本当に1週間2kg痩せるにはダイエットの経過で燃焼効率が落ちていく現象への対策が必要だろう。
*4:また改めて勉強し直したところ以下のようなことがわかった。
エフェドリン(強すぎて規制)>シネフリン(LIPO6の有効成分)≧メチルエフェドリン塩酸塩(ブロンの有効成分)≧プソイドエフェドリン塩酸塩(鼻炎薬によく含まれている)
みたいな強さの序列があるらしい。海外掲示板でもシネフリンを使う方法が推奨されていた。またアスピリンは効果もあるがデメリットも大きいので使わない方がいい、という意見も多いようである。しかしアスピリンを使ったほうが、恐らくは減りづらい脂肪(腹部や下半身の血行が悪く、脂肪を分解するホルモンが作用しづらい箇所)に有効なのではないかと思われる。
http://www.yyokota.net/training-site/lipolysis.html
腹部や下半身は他の部位とホルモンバランスが異なり、β(痩せるホルモン系)よりα(痩せるホルモン阻害系)の方が強く働いているため痩せづらい。アスピリンは痩せづらい一因であるプロスタグランジンを抑制するようである。また血行がよくなるので、その効果も期待できるのではないかと考え今回は投入した。
*5:余談だがいわゆる停滞期・チートデイもほとんどこの水分の変化でしかない。細胞1つ1つを風船だと想像すればわかりやすいだろう。風船の中身は脂肪と筋肉と水分である。脂肪が減ってくると風船はしぼむ。しかし膨らみをなるべく維持したい身体は水を風船に注入しなんとかキープしようとする。――ダイエットが進むにつれ水分が細胞に水分は溜まっていくのはこういう原理であり、チートデイはこの細胞に溜め込んだ水分を抜けやすくする効果がある。しかし、言ってしまえばそれだけだ。そんなこと気にせずチートデイの1日分もカロリー制限し続けた方がより短期間で痩せるだろう。特にこの超短期間ダイエットにおいては不要である。人間が飢餓を感じると体の代謝を抑制していくのは本当だが、それはいったいどのくらいの期間をどのくらいのアンダーカロリーで生活すればどのくらい代謝が落ちるのか、そのような細かなデータは確認できていない。有名なミネソタ飢餓実験を参考にしてみると、そのような代謝の低下がたかだが1日のオーバーカロリーで解消されるとも信じ難い。よって、ダイエット神話の一つと判断し退けることとする。
*6:ただしあまりダイエットにとっては効果的とはいえない指摘もある
*7:何がいいたいかというと、例えばビタミンBは確かにダイエットに効果的だが、何パーセントほど脂肪燃焼に影響するのか?ということだ。完全無欠コーヒーで推奨されている脂質、糖質制限もそれは何パーセントなのか?科学的エビデンスに基づいて、効きすぎてやばいから規制されたECAスタックですら10%程度だという記述を読んだことがある。それならばECAスタック以下の方法なんて1%以下だろう。2000kcalの1%は20kcalだ。筋肉を増やせば痩せるといっても、筋肉1kgあたり
13kcal程度なのだからまぁそんなものでしょう。あまりにもコスパが悪すぎる。ちなみに後述するが、クレンブテロールは20%~30%ほど影響するとか読んだ。本当かはわからないが。これは脂肪分解に関わるカテコールアミンに直接、強く、しかも36時間もずっと作用し続けるためだろう。
*8:またα1受容体に作用すると血圧や循環器に圧倒的な悪影響が現れる。喘息患者だったりすると最悪死ぬ。
SUKEBENINGENが語る「ハイコンテクスト・ノームコア」と「ビギンくん」の見分け方&ファッションの未来
基礎知識:「ビギンくん」とは、雑誌『Begin』で紹介されるようなド定番で無難なファッションアイテムを全身に纏っていい気になっているファッション初心者への侮蔑語である。
はじめに結論から述べよう。
SUKEBENINGENが賞賛する「ノームコア」→「ハイコンテクスト」と「ビギンくん」との区別は彼の議論において重要である。この区別がつく者はハイコンテクスト側の仲間入りを果たすが、できない者は「モード厨」との罵りを受ける。しかし「ハイコンテクスト」の定義は曖昧であるため、定義から演繹的に行われる議論は中断を余儀なくされる。ならば「どのように区別が判定されているのか」について、判定の側から帰納的に遡ってみることは、「ハイコンテクスト」について理解する一助となるだろう。
そして研究の結果、この「ノームコア」と「ビギンくん」が混同され得る危険性に、SUKEBENINGEN自身も危機感を感じているように思えるが、区別する基準は一度も明示されていない。
(記事の最後に参考資料を用意したので各人でご参照頂きたい。また『FREE MAGAZINE』から関わる箇所も引用しているが、もちろん記述はゼロである。)
続きを読む《展評》hatra―2016AW/BALMUNG―2016AW「黒い花」
・hatra―2016AW
ハトラの今シーズンはとある合同展で見たものだ。デザイナーズ服が鮨詰めに並ぶ中ですらも、ハトラの服は浮いていた。
トライバルな意匠は他ブランドでも多々見られるがそれとハトラを分けるものは使用の大胆さである。あたかも古代文字、というよりもゲームによくあるような古代文字を真似て作られた架空の文字のようである。文字状である、だが無論のこと無意味である。このことによって観者に対してわずかな規則性を発見させ、結果として服への注視を強いるのだ。読み取れる文字であればまた違う、集中はすぐさま文字の意味の次元に移り服は文字の意味に従属するか、または単なる服の「柄」として認識されれば視線は柄に従わせられる。無意味でありながら服への注視を促す強制性はデザイナーの長見氏が語るように「積極的に性や人格をキャンセルしようとすること」として機能している。
造形的問題として言えば、良くも悪くもハトラの服は”内向的なオタク”を象徴するようであり、構図的に見れば中心に寄って正面的な造形なのだが、今回のこのトライバルな意匠も同様なのである。その点で常ながら一貫している。アイコニックな表現を取り入れたために”デザイナー志向”を強めているという批判は一面では正しいが、だからといってなんだというのか?この合同展で見ればすぐさま理解できよう、デザイナーズ服などというものは既にあふれかえりいかにアイコニックであろうと奇抜であろうと、着用者を没個性にする力の方こそ着用者の個性を引き立てる力よりも余り有る。いっそ提唱するなら「服に着られている」というありふれた貧しい箴言をこそむしろ言祝ぐべきだ。信条観念から先験的に導かれる「個性的」という価値より、服によって引き起こされる「没個性化」は服が服のみを求めるために起こるのだからより自律的な価値がある。
ところで、昨年からボトムスもいくつか作られるようになったがこれは総じて怠惰の産物である。下半身は上半身と違って常に稼働し、それでいて服の引っかかる筋骨は少ないためにデザインの遊びが少ない。定番のパーカーがそうであるような意味で、「着心地」を表面的なデザインで表現することは極めて困難だろう。かといって自律的なボトムスなどというものを作れたとしたら、それではトップスと齟齬を来す。過多なトップスの分量をそのまま分裂させずにボトムスへと流すのなら、恐らくはトライバルの意匠や柄によって叶えるべきだったのではないかと思う。いくつかはたしかに柄の使われたボトムスはあるのだが、下半身に流れを導くものではなく腰部に集中させるものでしかない。より悪く言えばアートピースほどのものでしかないのではないか。方法はあるはずなのだが、その方法をとると今度は”内向的な”印象が減るために背反の解決が必要になる。勝手忖度して言えば、根本的にはデザイナー自身の身体感覚の延長から分断された先に解決策はあるのだろう。なんにせよ、今後のハトラは”一貫性”こそ注目されるはずだ。
・BALMUNG―2016AW「黒い花」
ちょうど京都でジェンダーをテーマにしたバルムングの展示が行われていたようだが、これは見ていないながらあえて述べるならアセクシャルやノージェンダー、アンドロジーナスファッションなどという流行に流されたテーマの設定ではないか。わざわざ己が身の足まで”流され行く”必要性はないだろうと思い、触れずにおく。
まず第一に「服に性別はあるのか?」という問いに答えるなら、否である。服というのは単なる物、布を切って貼って縫い合わせて作られた二次的な加工物である。布や糸などの単なる「物」に「性別」が差し挟まる余地などそもそもない。だが服が「物」の中でもとりわけ人の形をかたどるために男性的・女性的という比喩が盛んに用いられる。男性的という言葉は概して直線的また硬質であることを指し、女性的という言葉はその反対に曲線的また軟質であることを指す。その程度のデザインに基づく印象でしかなく、その程度のデザインに基づく印象であるからこそ”女性的”なメンズ服と”男性的”なレディース服、という次元の語りようが可能となっている。ではバルムングはどうかというとそもそもほとんど人の形をしていない。その意味で純粋に「服」であり、服でしかない。
とはいえ服の作用に性別の識別があるのは確かである。男はレースを好まないが女はレースを好むためにレースの服を着る人間はほとんど女であり、またセーラー服は女に好まれるために女性的な服の側に分類される。もっとも――無論、歴史的に見れば17世紀の男達はレースを好み、クラシカルなsailor(船乗り)の男達はセーラー服を好む。要するに、大衆はトレンド(流行)として男性的・女性的というテイストの分類をしているに過ぎないのだが、そのようなトレンド分析に踏み入ることは大衆向けのファッション雑誌に任せておけばよい。たとえ現生人類が絶滅しようとも、造形は文化ではなく身体を基礎とするために、男性の身体に沿う造形と女性の身体に沿う造形とが、逞しい身体に沿う造形と細身に沿う造形とが――キャンバスの形態に対応する絵の具の形態が求められるように――唯一重要なのである。
バルムングの今シーズンは今までのコレクションに比べて変わったように見える点と変わっていない点がある。前者はセーラー服や記号性であり、後者はシルエットなどの非身体的な造形である。前者は言うまでもないわかりやすいものだが、後者はわかりづらい。変異を感じることは無理からぬことだが、2015SSで登場したデニム地のコートと関連を持つ。
バルムングの作る服を形から大別すれば、軽い素材を使ったMA-1に近い形のブルゾン、重い素材を使ったコート、オーバーシルエットのパーカー、この三種類の服しか作っていないと言える。この三種類の外形の内部にレース地やレザー、刺繍、時にはゴミ袋などの様々なバリエーションが配置される。セーラー服はこの分類からするとコートに近いが、強いて言えば既存の形に意味を与えることには成功しているだろう。だが特に見るべきは厚地のニットで作られたプルオーバーのコートである。2015SSのデニム地のコートでも同様にパイピングが使われているが、あくまでもアクセントほどの効果でしかなかったが、今回はパイピングによって身体の否定までが行われている。
素地が分厚いために身体の凹凸、つまり筋骨は服のシルエットに埋没する。それでいてパイピングは身体に敵対する位置に配置され、素の身体は完全に否定される。特にパンツのサイドに施されたパイピングがこの否定に役立っているだろう。前述のようにハトラもオーバーシルエットに挑みながらパンツを作れていないのに対して、バルムングは難なく成功している。「積極的に性や人格をキャンセルしようとすること」という長見氏の語るテーマに相応しいのはむしろバルムングのように思える。しかしそれだけにセーラー服のようなわかりやすい記号は今回のコレクションの中では不純とも捉えられ、またインスタレーションでは特に浮いて見えた。
ところで「浮いて見えた」といえば、インスタレーション会場は床一面にアルミホイルが敷き詰められ蛍光灯が明滅していた。あたかもアンディー・ウォーホールの「Silver Factory」を思わせたが背後の「ホワイトキューブ」と半々であり、ウォーホールの故事にはあまり則らず服は「浮いて見える」というよりも単に見づらく、見づらいものが持つ特有の神秘性――同行者は「寺の薄暗い中で見る仏像を思い出す」と語ったが――いささかartyな印象が強かった。いっそ振り切ってしまえば良いと思うが、これこそ”ファッション”なのだろうと独り言ちするばかりである。服なんて、あまり拝むものではない。
また以前したためたhatra・chloma・BALMUNGについての批評も合わせて紹介しておく。
hatra・chloma・BALMUNG ――①|愛・着る・ファッション|note(ノート) https://t.co/BE1MRgNSKG
hatra・chloma・BALMUNG ――②|愛・着る・ファッション|note(ノート) https://t.co/qPnhu5oGsq
hatra・chloma・BALMUNG ――③|『愛・着る・ファッション』|note(ノート) https://t.co/z1p2imCF6L
http://s.fashion-press.net/news/23089
http://s.fashion-press.net/collections/6114
《展評》PARISオートクチュール展 ――三菱一号館美術館
・PARIS オートクチュール展
グレやヴィオネが彫刻的というのなら、バレンシアガはどうであろう?私の使用する「彫刻」という言葉の定義は簡潔に言って「土台を必要とする表現作品」のことである。無論この「土台」をリテラルに捉えるのではなくひとつの概念として言うならば、イーゼルやディスプレイもまた然りと言えようが、服にとって限定するなら身体のことである。オートクチュールとプレタポルテを強いて分ける時の意義というのは、この「土台」が単一か複数かであることのみと言ってよい。
しかし今回のオートクチュール展で実感させられたことは、以上の問題意識は疑似問題であったということだ。簡略に、あまりにも簡略な言い方をすれば「サイジング」という程度の産業構造から導かれる必当然的かつ非美的な問題でしかない。
真面目に見るほどに展示された数々の豪奢な衣服はまるで脱がれたスターの衣装のように見え、メットガラの控え室を覗く気分であった。特に超絶技巧的であるわけではない。素材が「最高級」なのであり、その素材のための「仕立て服」という印象であった。たった一つの土台にとって(土台が一つであるために)シンギュラリティを獲得しているわけではない。それどころかむしろ服自体の表現としてはプレタポルテに劣るものも数多い。スキャパレリよりもフラボアの方がよっぽど”アーティー”にすら感じる。
とはいえ、中でも特異な感想を抱いた服がグレとバレンシアガであった。グレもバレンシアガも服の表面上に構造物を作るが、グレは身体に親和的な「装飾」であるのに対してバレンシアガは身体に敵対する「構築」を行っていた。最後の部屋で展示されているバレンシアガの『イヴニングドレスとペティコートのイヴニング・アンサンブル』は特に印象深い。身体にまったく無関係に構築される空間は、その過剰なクオリティーの素材によるところもあってオートクチュールだからこそなしえた一つの身体に対する(脱)シンギュラリティである。あのアンサンブルが似合うことは人の身体では有り得ないために、目の前の服がまるで服ではないかのように概念の規定を逃れる。服であるのか、それとも彫刻であるのか、恐らくは人が身に纏えば醜くもなろう、床に横たえればフラミンゴの死体に似るが、ともかく美しくあるために最低限度の空間を支持する物体さえあれば勝手に美しくなる。この服にとって人間などハンガーに等しい、という意味では身体を足蹴にする「彫刻」であると言いたい。
この展示は服飾史的にも見所がある。コルセットの解放など知らぬ存ぜぬというようにディオールが執拗に数々のラインを提案して回帰させる様など、人間の欲望の所産こそが「モードの地獄」であると考えるに楽しい。
「マルジェラ・デュシャン批判」――コンセンサスレス・コンプレックス・コンセプチュアル・ファッション
コンセプチュアル・アートの創始はデュシャンに由来する。クールベ以来の絵画を「網膜的」と批判したデュシャンは、既製品の便器を逆さにして展示し、芸術の成立する条件を最小限の形式で示すことにした。作品物から美的な厳めしさを丁寧に排除し、単なる物(オブジェ)であらしめることによって、その美的な意味の空白に意味深長な疑念を抱かせ、観者のコンセプション(構想力)を喚起させたのだ。有名なあの便器には元々は花が添えられるはずだったが、それでは花の美しさに観者は低俗な美的関心を寄せてしまうだろうために、花を添えるコンセプト(意図)は放棄された。パイプを取り外して有用性を無くした何の変哲もない便器、このオブジェの性質についてある批評家は「まさに、つつがない(筒がない)」とくだらない冗談で評するが、的確ではある。マルジェラもまた1997年のコレクションではあたかも未完成で袖の付いていない服、袖に腕を通せない服を発表したが、これもまた「つつがない(筒がない)」と評すべきだろうか。
マルジェラをデュシャンになぞらえる者は多い。我が国で唯一の真っ当なファッション批評家、蘆田裕史氏はこう述べる。
“マルセル・デュシャンは近代美術史のひとつの転換点となったが、それと同様にしてマルジェラは近代ファッションのあり方を更新した。”
なるほどこの見解に一旦は勝手ながら同意しよう。ラルフローレンのようなそれら「リアルクローズ」は単に俗っぽい服を称揚し客の身体を服の中で作られる身体像へと透明なまま速やかに招いてしまうクールベ的な「リアリズムの服」という意味で、もしくはゴルチェやヴィヴィアンはマネのように神話伝統へのロマンティシズムを振り切れず画面に分裂を来したように、過去へ逆進するアヴァンギャルドとして、それら偽りのアヴァンギャルドに対峙するコンテクスト(文脈)の上に、真性のアヴァンギャルドであるマルジェラが位置すると、そう解釈させてもらうことにしよう。
詳らかな話は雑誌の誌面にて改訂増補するとして、重要なのはマルジェラがファッションの歴史上で果たした意義についてなのだ。デュシャンは『泉』が拒否された時に抗議文を自身の雑誌に掲載した。
“マット氏が自分の手で『泉』を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ”
マルジェラについても同様のことが言えよう。マルジェラがマルジェラ自身で服をデザインしたのかどうかは重要ではない。単にファッションの内外にあるものの中から関心をもったものを、自身のコレクション作品に選んだのだが、デュシャンと同様に、作ることには優れないが審美眼には優れたデザイナーだった。デュシャンの絵画はあたかも低質なピカソであるように、マルジェラがその造形志向をあらわにするトランプやスキーグローブ、ビンの王冠を使った作品群は低質なダダイスムすら感じさせる。ペンキ・パンツにしても「painted pants」という「パン・パン」という語感からの発想であり、モナリザの複製画にヒゲを描き足した『L.H.O.O.Q』が「Elle a chaud au cul」=「彼女のお尻が熱い」のもじりであることと同種の言葉遊びでもある。
中でもとりわけカビドレスは、身体と切り離された「展示用ファッション」という堕落したジャンルを創設さえもした。――後続の「展示用ファッション」にはアンリアレイジが並ぶだろう。カビドレスを見る時に、我々が注視するのは表面のカビと布地でしかないが、普通の絵画が絵の具とキャンバスによって作られることと構造的に異なる。あらかじめ服という布を加工して出来上がった二次的なものの表面にカビという素材で有機的な模様が描かれるが、服が既に二次的なものであるために「カビの柄のドレス」としてしか認識されず、絵画のようにその媒質の格闘もなければイリュージョンもない。そしてコンセプト(構想)も低俗である。「カビ」もあらかじめネガティブな素材であるだけ一層先験的であり、あらかじめ約束された破壊的性格=アヴァンギャルド性を表現する図解でしかない。つまりメタルバンドのTシャツと何ら変わらないということだ。コンセプチュアル・アートへのコンプレックス(劣等感)によって作られた概念「コンセプチュアル・ファッション」にせよ、基本的にはそのコンセプト(構想)が重要であるために視覚も身体も、造形すらも作品構成上のヒエラルキーの下層、ほとんど無価値な位置に貶めるのだ。
しかしそれでもなお、マルジェラに造形的な価値を見出すとすれば、マルジェラの審美眼によって選択=作品化されたレプリカシリーズのみであると主張するところだが――もっとも、それも単なるファッションの歴史における階段の踊り場としての役割に過ぎないが――、ここでデュシャンの例を引くならば『L.H.O.O.Q』に続いて『ヒゲを剃ったL.H.O.O.Q』という単なるモナリザの複製画そのものを作品として作ったように、過去=歴史への言及そのものを作品の動機とするならば無限の階梯=複製へと至る。マルジェラの価値をそもそも複製的であるとするならば、H&M とマルジェラのコラボほど皮肉的だが正しいものはない。蘆田裕史氏はH&Mとのコラボを批判したが、私はいっそこれこそ正しくデュシャン的だと称揚したい。
多義的であるために混乱するマルジェラの作品解釈について、想定されるだろう5つの主義を簡単にまとめ末尾とする。私がレプリカシリーズのみにしか価値を認めない理由の理路でもある。
数字の主義になるべく基づいて各作品を点検する。
「5つの主義」
1.視覚と身体を追求する造形主義
2.クチュールに続く伝統主義
3.アプロプリエーション、サンプリングなど、引用による非造形主義
4.制作を放棄する破壊的なダダイスム
5歴史の文脈を本質とする.コンセプチュアル主義
a.シームレスパンツ
1→造形上のミニマムを追求する視覚的な表現
2→「服飾事情的」な、シームを排除したがるテーラー・クチュール好みの手仕事礼賛
3→過去のビスポークに見られるデザインの引用
4→シームを否定する
5→ある種の「無」の側賞として、ブランドという歴史的問題へのアンチテーゼとしてシームを排除することによる観念的な動機
b.スキーグローブのブルゾン
1→マテリアルの効果を利用した造形表現
2→技術の高さ、手仕事を礼賛
3→過去の服を引用し再構成する引用
4→みすぼらしさを強める効果として
5→ノーブランドなアイテムをマテリアルとして過去の歴史を表現する
c.カビドレス
1→カビによる視覚的効果を狙っている
2→一点ごとに異なるという手仕事と同種の表現
3→カビという日常的な表象を美的に展示する
4→カビによって服を破壊する
5→着用や量産を禁止し、刻一刻と変化する歴史と時間を表現する
d.レプリカシリーズ
1→過去の優れた造形の作品を選択し提示する
2→手の込んで作られていた過去の作品への敬意の表明
3→レディメイドとして引用を行う
4→自らの制作を放棄する表明
5→歴史の文脈を再構成するような視座の象徴として
e.ドールシリーズ
1→人形向けに作られた造形のおもしろさを提示する
2→仕立てるという意味では人形用だからこそ強調される
3→人形用の服であっても服であるために引用を行う
4→人間用の服を否定する
5→ファッションの歴史から取りこぼされたファッションを拾い上げる
まず明らかに、なににでも結びつけて解釈できるがゆえに、あまりにも過剰な4のダダイスムはマルジェラには適さない。言い様を変えれば4が適しないものなどないために、余計な想定である。
次に3の引用による非造形主義だが、bとcにおいては造形的志向が明らかであるために適さないが、主義としてではなく方法論としてならば留保付きで採用可能である。2は否定こそできないが、これを採用することはマルジェラを単なるクチュールの伝統に連なるものと見なすだけになるため、これも主義としてではなくマルジェラの「趣味」としてならばとても妥当な視点である。1の視覚的・身体的な造形についてだが、aでは効果が弱く、bやトランプのベストなどの悪趣味さとコンフリクトするためにほとんどの作品に適用しづらく、適用しても押し並べて視覚的な効果が弱いという難点が付きまとう。問題は5のコンセプチュアル主義であるが、これも4と近く、なににでも結びつけ易く、事実可能であろう。4と同じく過剰さが付きまとう解釈だが4とは異なり発展的な視座をもたらしえる。
このように点検をすると解釈としては3と5のセット「引用という方法によってファッション史とそこからこぼれてきたものへの批判的検証」こそがもっとも適切と思われる。しかしこの”間違い探し”の結果が適切であろうとも、クチュール伝統主義へ向けられた懐古的趣味は付きまとい、それでいて造形的問題は蔑ろにされているということは留意されるべきである。そしてこの留意を認めながら上記a,b,c,d,eや数ある作品群を俯瞰するならば、唯一、レプリカシリーズのみが伝統主義から離反し良い趣味のものを視覚的に選択していることに気づくだろう。それゆえに私はレプリカシリーズのみを評価する。
デュシャンに並べてレディメイド的な評価を口ずさむ者がいようと、アートとしての価値すらあるかのように評価する者がいようと、ハイデガーの如く時間の哲学を読み込む哲学者がいようと、ましてや「匿名性」が云々などとあたかもエディ・スリマンに向かって「少年性とロック」が云々とコピーライトに過ぎないものを口真似してありがたいマントラのように唱え続けるものがいようと、彼らのような美術的または哲学的比喩は常に外在的なコンセンサス(総意)に頼り、ファッションの内部にあるべきはずの内在的なコンセンサス(歴史)を含まない。現代アートにおいてコンセプチュアル・アートが有意義だったことは認めるが、それは世に劣悪なモダニズム・アートが蔓延するほどモダニズムが硬直化したゆえの反省的ポスト・モダニズムであり、ファッションには未だそこまで何かが蔓延できるほどの硬直化=理論化すらないにも関わらず概念だけを賢しらに輸入するのなら”Fashionable nonsense”(知の欺瞞)の誹りを免れない。
ファッションのおわり、黙示録前史
「ファッション」の歴史はたかだか半世紀である。アートは二世紀、文学はそれより一世紀ほど古い。——これは私の独断である。
ファッションの歴史を記述する時に、オートクチュール以前と以後で分ける見方がある。画家の地位は元々単なる肖像画や宗教画を描くだけの職人であったことと同じく、ファッションデザイナーというのも元々は豪華絢爛な誂え服とその表現を支えるための技術の研鑽を行う職人、もちろんまさにその時代には「ファッションデザイナー」という呼び名すら存在していないが、スポンサーに請われて作るだけの職業であった。画家がこの職人芸としての評価から離れて芸術家として自律的な課題による作品に取り組むようになったのは、「絵画そのもの」または「画家そのもの」が評価の対象となり(『芸術家列伝』など)、またその後に安価な絵の具やカメラの発明で職人芸の価値が著しく毀損され、物理的価値から離れた芸術的価値のための技芸として発展したという歴史がある。
ファッションも元は、諸説あるが儀礼用としてはじまったとして、同様に産業革命とともに工場で作られる既製服の技術力があがり、誂えものの物理的価値が次第に減少していったのだが、ある意味では絵画にとってのカメラのような安直な機械の発明が遅れに遅れようやく最近になって3Dプリンターが出てきた程度であることがファッションの悲劇である。強いてわずかばかりでも歴史上記述する価値がある事件といえば、ストレッチ素材の発明くらいだろう。それでもイッセイミヤケのA-POCなどは別としても、未だにスーツなんて骨董品の形を安く形成するための低級な技術と見なされている。
しかし服と絵画との歴史を比較するとき注意すべきは、技術発展という目に見えてわかりやすい話ではない。比較すべきはむしろ「そのものの価値」というのが歴史上、ファッションには生まれていないということだ。もちろんヴィンテージやよほどのマスターピースは、好事家が自らのワードローブに作品をかき集め擬似的コレクターの役割を果たしているが、それはほとんど資料価値による骨董品収集だ。これらのものと芸術作品との違いを改めてここに定義するなら、つまり、セザンヌからピカソへと至るまでの自律的な課題があってその解決方法が見いだせるような作品のこと、と言える。単なる事実が羅列された流れを歴史と呼ぶのではなく、歴史というものをどのように見ることができるのかという「歴史観」の問題であり、その歴史観の記述に役立つ作品である、ということだ。ファッションにだってもちろん歴史はある。しかし歴史観は存在しない。全ての問題はここに起因する。アントワープ・シックスに、印象派のような課題とその解決への意識が共有されていたと見なすことは誰にも不可能である。
服と絵画の最も異なる点が「アート」ではないということだ。服の価値は、歴史や批評の領域内には存在せず、個々人の趣味の領域内にだけ存在している。演繹的な断言をすれば、「3Dプリンター」などの技術革新は大した問題ではない。ファッションには大した問題というのが一つも存在しないために、大した問題にはなりようもない。
絵画と違って「そのものの価値」というのが個人の趣味に依存するためだ。景色の再現が課題であるような絵画はカメラによって死を迎えたが、ファッションにそのような共有された課題を見出すことはほとんどできない、それゆえに、逆にいえば、死に対して抵抗的な形で共有できる課題もないということであり、すべてが死ぬ。
完璧なフィッティングのスーツがいかに安価で作られようとハウス・スタイルは生き残るだろう——ただし、それは同人誌の人気サークル程度の規模として、様相として、オタク的ファンと作家の小さなコミュニティーとして、彼らの仕立てる優美なハウス・スタイルは素人の悪夢的デザインと並列され、死につつ生ける亡者となる。また何世紀か前の再現不可能とされるオートクチュールもゴッホの『ひまわり』の如く乱造されるだろう。素晴らしいことに、絵画はいかに粗製乱造されようとそれでも作家自体の価値が保たれているが、ファッションにおいては親近感とシンパシーだけが唯一のクライテリアとなりきっとコミケのような地獄絵図が現出するだろう。
誰でも表現者になれる幻想の世界。それは「誰でも子どもの運動会はおもしろい、友人の演劇は観に行く、同僚のカラオケは褒める」程度のものに堕していく——否、ファッションは元からそんなものではないか?
ファッションという服を使った表現作品において内在的な課題は存在しないのだが、無論これこそ逆説的な課題であり、つまりファッションにとっての唯一なる課題は「そのものの価値」の不在という基礎的問題なのである。