<2021.07.10>
昨日は調査が進まなかった。
前日の疲れが出てしまったこともあったが、それよりもマンションの複数箇所でゴキブリが大量発生したことが問題だった。新しいマンションでもないし、近くには飲食店や公園もあるから時折出るのは承知していた。ところが驚くべきことに、本日は1階の住戸4部屋、2階の1部屋から「ゴキブリが大量に発生した」との報告を受けたのだった。一瞬、私が汚水にまみれて帰宅したからか?との疑念が頭をよぎったが流石にそれはないだろう。長雨の影響でゴキブリたちが住まいを追われるか、あるいは逆に排水周りで住居への侵入ルートが確保されてしまったのだろうと想像した。止むを得ずマンションの管理費で呼んだ害虫駆除業者は、特注だという殺虫団子を設置し、市販の殺虫剤がいかに無力かについては蕩々と話しながらも、大量発生の原因について尋ねても頑なに答えようとはしなかった。見当がつかなかったに違いない。全戸の排水管清掃がもう少し早ければこんなことにならなかったのではないかと悔いが残った。この対応に追われ、昨日はほとんど渋谷川の調査はできなかった。
そして本日土曜日の勤務は13時までである。私は業務を終えると、前回妻が喜んでくれたスナックを再び買って病院へ見舞いに行った。彼女は私の顔を見るなり、こちらが熱病に冒されたままであることを見てとった。それからはやはりほとんど目を合わせてさえくれず、落胆の眼差しを虚空に漂わせるばかり。ひどい罪悪感が私の心に広がってきた。しかしながら、私もまた一人の人間、一つの人生。男には引き返せない時があるのである。
病院を出た私はその足で山手線に乗って新宿駅へ向かった。目当ては南口の作業着店である。店の外にまで商品がわんさと積まれた昔ながらのこの店には、管理人の仕事を始めた2年前にも一度来たことがあった。今回の目当ては長靴が胸元まで延長したような、防水の胴長(胴付長靴の略称)である。釣具店に行けば渓流釣り用のものがあるだろうとは思ったが、趣味のものは決まって値が張る。実用とコストパフォーマンスを考えれば作業着店が最も良い。しかしながら陳列された膨大な商品の中から目当てのものを探し当てるのは至難の技だ。店主に尋ねようと店の奥へ向かう道中で気になる商品に出会ってしまうのは店の戦略だろうか。灰色の作業用上着が目に入った。大災害時にテレビに映る役人たちが着ているようなあれである。これを着ていれば、白昼堂々作業員を装って川に降りることができるのではないかと思ったのだ。私も普段の業務で同様のものを着ているが、胸に管理会社の刺繍が施されているのが邪魔だし、汚水で汚れるとその後の仕事に差し障る。値札を見ると1200円と実に手頃だ。これを買おうと手に取りさらに奥へ歩くと、今度はヘルメットが並んでいる。上着だけでは作業員に見えないかもしれない。これがあれば誰がどう見ても作業員だし、いざという時の安全も得られて一石二鳥だ。値段はなんと890円。お買い得である。白、黄、紺の3色があり悩ましかったがここは無難に白をチョイス。レジでこれらを渡しながら胴長の在庫を聞くと、店番はレジのさらに奥のラックから薄汚いビニールで包装された商品を引っ張り出した。種類はこれだけ。サイズはフリーサイズ一択。値段は4000円。ビニールを開けた時のムッとするような匂いが気にかかったが選択肢はなかった。レジ横にあったゴム手袋も買い求め、渋谷川暗渠調査の装備が揃った。
しかし、このあと信じ難いことが起こってしまったのだった。
買い出しを終えてマンションに戻ると、集合ポストの前に大柄な男が二人立っていた。スラックスにワイシャツを着た二人は大荷物を抱えた私の姿を見るなりにこりと笑い、「お買い物ですか?」と問うた。私はその質問があまりにもなじまなくて呆気に取られたが、そもそも不法侵入の可能性もあるので毅然と相手の素性を問い返した。
二人は警察官だと言った。
何故だか不穏な空気を感じた私は、二人にはそこで待つように言って、管理人室に荷を置きに入った。深呼吸を一つ。何が自分を不安にさせるのか考える。まず、私は彼らを知らない。というのも、近所で事件が起こったときや、マンション内で住人が亡くなってしまったときには警察官が訪れてくるため、大体は顔見知りになっているはずなのだ。しかし、私はこの二人を知らない。刑事ドラマだったら「手帳を見せてもらえますか?」なんて平気で言うが、普通は無理だ。「警察です」と言ってきた人に「手帳を見せて」なんて発想にはならない。そしてもう一つの不安要素は一昨日の川底調査である。川からのそりと這い上がってくる瞬間が監視カメラの映像に残ってしまっている。ただし、そんなことくらいでわざわざ警察官がやってくるものだろうか。
整理がつかないまま、私は管理人室を出て二人の前に直立した。
「いかがなさいましたか?」
私が聞くと、角刈りの男が笑顔を崩さず「お忙しい中お時間いただいてすいません」と一言断ってから「一昨日のことなのですが」と返した。
不安に囚われ言葉を返せずにいると、男は追い討ちをかけるように言った。
「一昨日の夜はどちらにいらっしゃいましたか?」
「えーっと、」
頭の中を何かがぐるぐると駆け回っているような感じがした。思考が大事なところで寸断されて、答えが出ぬまま次の何かを考えている。これまでろくすっぽ遊びもせず、法に背くようなことにも危険なことにも触れることなく、品行方正に生きてきたのに。60年間積み重ねてきた信頼や安定が、ちょっとした出来心でガラガラと崩れてしまう。呆れたような妻の表情が脳裏に浮かぶ。2年前のあの時にキッパリ諦めていればこんなことにはならなかったのに。申し訳ない。欲をかいたのがいけなかった。世界はなんと上手くできているものだろうか。
このように追い詰められた時の人間の反応というのは実に面白いもので、私は彼らの質問に答えずにいることになんの抵抗もなくなっていた。ただ黙っていても構わない、という妙な鷹揚さを我がものとしていた。
そして、続いて男の口から発せられた話は、私の想像した最悪のパターンを遥かに上回るものだった。
「痴漢の被害届が出ておりまして」と男は言った。
一瞬胸を撫で下ろしかけた。しかし、彼が差し出した一枚の写真(正確にはA4のコピー用紙にインクジェットで粗く印刷されたもの)を見て、私の思考は破断した。それは路地に設置された監視カメラの映像から静止画を抜き出したものだった。そしてそこに写っているのは、ビシャビシャと汚水の足跡を残しながら歩く私の姿であり、そして私のおよそ1m前を歩く若い女性の姿であった。この写真を見れば誰もが、私がこの女性に襲いかかったに違いないと思うだろう。そういう距離なのだ。しかしながら、当然私には身の覚えがまるでない。痴漢行為をしたことなど一度もないし、そもそも私はこの女性を見た覚えもない。何かがおかしかった。
「現場周辺の監視カメラの映像を洗ったところ、これが写っていました」
言葉が出ない。あまりのことに、言葉が出ないのだ。
「私どもとしても、事を荒立てたいとは思っていません。誠意あるご対応をいただけることを願っています」
「進展があればまたお伺いします」と言って二人はマンションを去った。
私は激しく混乱した。
いや、私は今まさに激しく混乱しているのだ。
シンブンキシャ