<2021.07.08>
ほとんど眠っていない。
夜を徹してインターネットで調べ物をしていた。2年前にブルーシートの包みを運ぶ男たちを目撃した時も渋谷の地下について調べはしたが、その秘密にまつわる情報はほとんど見当たらなかった。いくつかの妄想めいた記述はあったもののあまりにも浮世離れしており興味さえ湧かないほどであった。そして残念ながら、今回も結果は同じであった。朝までかけて渋谷川の概論を復習したに過ぎなかった。
渋谷川という名前が当てられている区域は限られている。私がブルーシートを目撃した渋谷駅南側、稲荷橋から下流側の天現寺橋までの区画のみが渋谷川であり、以下浜崎橋の河口までは古川と呼ばれる。また、現在は暗渠となっている稲荷橋以北の上流部はかつて宇多川と穏田川と呼ばれていたが、戦後の都市化によって生活・産業排水が流入しドブ川化。1964年の東京五輪に際して蓋をされ、下水道の暗渠となった。渋谷川自体も明治期には蛍さえ飛び交っていたほどの清流だったが、上流部が下水道となったことで川としての姿は失われ、今では大雨の際に下水混じりの水が流れ込むのみとなっている。
今月から二度目の東京五輪が始まる。汚れた川に蓋をかけるようなことはなかろうが、今度も何かが隠されるのだろうか。
マンションの管理業務は朝8時から始まるため、今朝は夜が開けるのと同時に虫を見た橋へ向かった。降り続いた雨は昨晩遅くに止んでいたからか、川の水位は幾分下降したように思われたが、それでも虫の存在を確認することはできなかった。
マンションに戻り、管理組合の会議に出席したのち、昼休みには妻の病院へ行った。道中のスーパーで味が強く高カロリーなスナック類を買った。病院食では到底出なそうなものをと思って買ったけれど、病院に着くまでにそれが正解だったのか自信がなくなってしまった。食欲が湧く食べ物って一体なんだろうか。私はそういうことがあまり得意ではない。
恐る恐る渡したスナックを妻は喜んで受け取ってくれた。普段は決して手に取らない類の食品だったために、物珍しかったのもあるだろう。私は大変安心して、言うまいと思っていた虫の話をしてしまった。というのは2年前、妻に心底呆れられてしまっていたからである。当時急いで地下の秘密を暴かねばと躍起になっていた私は、妻との食事も蔑ろにして川へ通った。そう容易に信じてもらえないとわかるや誰彼構わず発見譚を打ち始めた私を、妙な宗教に入れあげた遅咲き信仰者のように見ていたのだろう。案の定、今回は前回と同様かそれ以上に妻を落胆させてしまった。虫を見たと言った瞬間から、私の目を見ることを彼女はやめた。私はやはり言わなければよかったと後悔した。このまま病院の精神科に行ってこいと言われるような気がして、逃げるように病院を出た。ただでさえ不安を抱える病身の妻に、要らぬ心労を上乗せさせてしまったことを心苦しく思った。しかし、今回ばかりは引くわけにいかない。むしろ、2年前に諦めてしまったことをこそ嘆くべきなのだ。
今日から動き出すことに決めた。ここで動き出さなければ後悔することになることは明らかだ。何も発見できなくとも後悔はしないに違いない。
まずやるべきことは、あの橋の下で虫を探すことである。まだそんなに時間が経っていない。運が良ければさほど場所を移動せずとも発見できるかも知れない。これは紛れもなく時間との戦いだ。急いで調査を開始しなければならない。
管理人室に戻り業務をこなす傍ら、調査の準備を進めた。懐中電灯は見回りようのもので良いだろう。冬場の雪かき用に、長靴とポリカーボネイト製のスコップがある。十全だ。管理人というのは探検家や未踏を求める調査員に向いているのではと思った。
18時に業務が終わり、陽も落ちた。しかしながら、まだ恵比寿や渋谷の人出は多い。外出自粛がこれだけ求められているにもかかわらず、東京都心部はかつての喧騒を取り戻しつつあるのは、緊急事態宣言が常態化したからだろうと思う。出発に備えて飯を食う。いや、出発と言っては味気ない。出陣とでも言うべきだろう。私の人生は今日をもって変わるのだ。近所の中華料理屋に電話をかける。妻が外食を好まないから、今まで気にはなっていたものの手を出せずにいた、中華そばの出前をとった。信じられない速さで我が家に届けられたその中華そばは実に典型的な、店のショウウィンドウから飛び出してきたかのように整ったもので、醤油味のスープはまだ火傷しそうに熱かった。店屋物のラーメンなんて食べたのはいつぶりだろうか。東京都下の家電量販店に勤務していた時、一度だけ部下と食べた記憶がある。妻の料理よりだいぶ濃い味付けが実に美味い。スープまで飲み干すとひどく喉が渇いた。
22時、マンションを出た。街には人がまだいるだろうが、悠長に待ってはいられない。虫はいつ流されていってしまうとも知れないのだ。
22時15分、橋に到着。まだ人がパラパラと行き交っている。私はそこから一つ上流側の橋へ向かった。というのも、虫を発見した橋の付近には6mほど低い川面へ降りられるポイントがなかった。一方一つ上流側の橋の脇には、コンクリートの護岸に大ぶりなホッチキスの針のような梯子が打ち付けられている。これを使って川に降りるのだ。梯子の近くで長電話をしているふりをしながら人の切れ目を待つ。切れた、と思うとひょっこり酔っ払いが現れたりするから難しい。私は方針を変えた。誰にも見られずに川に降りるのは不可能だ。そこで私は、当たり前のように振舞うことにした。誰に見られているわけでもないが、その先に誰もいない電話に「あ、はいそうですか。じゃぁ私が先に降りていますね」と言って柵を越えた。心臓がバクバクと早鐘を打っている。人目を忍んで柵を越えるだなんて、こんな冒険は小学生の頃以来だろうか。不安だ。しかしワクワクする。四十年は開いていなかった汗腺が開いてぬめりのある汗が吹き出す。懐中電灯を持つ手が震える。深呼吸をして、一段一段確実に梯子をくだった。川底に足をつけた時、大きな失敗をしたことを知った。長靴の丈が足りていなかったのだ。実際、雨の日に比べれば水位は下がっていたし、純粋に長靴の丈は水位をギリギリ越えてもいた。しかしながら、川は流れているのだ。長靴にぶつかった水は左右にだけ進路を取るわけではない。長靴の壁を駆け上がり、ごぼごぼと音を立ててその中を満たした。ほとんど長靴は意味を失っていた。同時に下水の臭いが鼻を突いた。渋谷川に流れる水は下水だ。わかってはいたが、橋の上からその臭いを嗅ぐのと、足を浸しながら嗅ぐのとではわけが違った。強い吐き気に襲われる。ラーメンなど食べなければよかった。ここへは空腹で来るのが唯一の正解だったのだ。心が折れそうになる。しかし自らを鼓舞した。今まで経験してきた悪質なクレームの数々を思い出す。全くもって理不尽な主張に対して平身低頭したあの屈辱に比べれば、この不快感など取るに足らない。ここで引き返したら二度と冒険することはできないのだ。私は田んぼの中を歩くように重くなった長靴を引きずりながら下流へ向かった。虫を見たポイントをスコップで浚った。予想はしていたがやはり何も出ない。流されてしまっているのだ。そこからひたすら、川底を隈なくひっくり返すように下っていった。下流側に三つ目の橋までおよそ150m。梯子が打設されているこの橋が本日の終点だ。ここまで来るのに2時間弱。気力も体力も限界だった。この川は川底もコンクリートで真っ平に舗装されているためものが引っかからない。一度流れれば一気に河口まで流れるようになっているのだろう。植物が生える余地もほとんどなく、生物の気配もまたほとんどなかった。ここまでに目にした有機物は、上流から流れてきた手のひらサイズの蟹が一匹だけだった。
最後の力を振り絞り、梯子を伝って橋の上へ上がった。ここで二つ目の失敗をしていることに気がついた。監視カメラだ。橋の欄干から伸びる電柱の上部にカメラが設置されていた。どれだけ楽観的に見ても、私を捉えていないとは思えない角度でそれは据えられていた。その上カメラと目があってしまったわけだから、私の顔もまた撮られたに違いない。犯罪をしたわけではない。しかし、60年間ルールも破らず、ただただ実直に生きてきた私にとって、柵を越えた様をカメラに撮られるのは恐るべきことだった。実に不用意だった。犯罪に慣れた者ならばそこまで気も回っただろうが、私はこれまで監視カメラを意識することなど一度もなかった。むしろ、店頭で万引き犯を監視したり、マンションの不法侵入者を監視したりと、監視する側にばかりいた。不覚だ。マンションへ戻る道中、時折視線を上げると至る所に監視カメラがあることに気がついた。世界は私の知らない間にこんなにも様変わりしていたのかと驚愕した。こんな街でなお罪を犯そうとする者がいることが信じられなかった。
マンションに戻って、屋外の管理人倉庫にスコップや長靴を戻し、汚水で汚した共用部を掃除してようやく部屋に戻った。体に悪臭が染み込んでしまったような気がする。24時を過ぎてしまった。今日はもう寝て、明日の調査に備えることとする。
シンブンキシャ