社青同解放派内「内ゲバ」事件について | 社青同解放派考 |
(最新見直し2005.12.29日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこサイトとして「社青同解放派考」を設け考察した。その社青同が今日現在複雑な党内対立状態にあり、且つまさしく内ゲバを演じているようである。以下、手に入った資料を断片的に書き付けておく。但し、何がどのようにこんがらがっているのか分からないので列挙方式を採り、概要が判明次第整理することにする。 「社青同解放派内『内ゲバ』事件について」考察する意味は、党派間絶対戦争に突き進んだ中核派、革マル派、社青同のうちなぜこの党だけがかくも無残な言葉そのものの意味での「内ゲバ」に突き進んだのか、その要因を明らかにする為である。この場合、この党派の主体的力量不足をその原因の一に挙げねばならないだろう。その二として、この党派にどういう混乱の種が蒔かれそれが煽られていったのかを検証せねばならないだろう。その三として、分裂後の主流派と反主流派がどこで理論対立していたのかを俎上に乗せて切開せねばならない。 部外者のれんだいこがやることではないけれども、左派運動にお見舞いされがちな不幸な事象の再発を防ぐために他山の石とせねばならない、それぐらいの根拠はあるだろう。既に「宮顕=異筋な闖入者論」を公開しているれんだいこの眼には、同じような動きが為されているのかいないのか調べてみたい気持ちもある。 2003.9.16日 れんだいこ拝 |
【「最高指導者・中原一(笠原正義)氏殺される」】 | ||
1977(昭和52).2.11日、革命的労働者協会(革労協会=社青同解放派)の書記長・解放派筆頭総務委員の中原一(本名・笠原正義)氏が、革マル派の襲撃に遭い死亡。茨城県取手市の国鉄常磐線取手駅西口前付近で車に乗っていたところを車で挟み撃ちされ、降りてきた6人の革マル派テロ集団に鉄パイプでめった打ちにされて殺害された。
革マル派の機関紙「解放」(77.2.21日付け)は次のように報じている。
|
【「解放派が革マル派に対して全面戦争宣言」】 | |
解放派は復讐戦を誓い、革マル派に対して全面戦争に突入する。 最高指導者を殺された社青同解放派の怒りは凄まじく、次のように声明した。
以降、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の全面に踊り出ることとなった。4.15日の革マル派4名殺害がその第一弾となった。77年中に7人の革マル派活動家を殺害した。 |
【「党内対立発生」】 | ||||
「反革命―革マルによる同志中原虐殺に対する正面突破をかけた闘い」が始まったが、この時党内が分裂する。次のような弱点が露呈した。
この時、「革マルによる同志中原虐殺の真相究明(いわゆるヨーロッパ問題)過程で、党内に「スパイ問題」が発生している。事の経緯は不明であるが、「事実に反して同志をスパイに仕立てあげ組織制圧をはからんとした動き」が生まれた。これにつき、次のような解説が為されている。
これにつき次のような批判が為されている。
|
||||
話は双方から聞いて見ないと分からないが、いずれにせよ、解放派は対革マル派戦に向かう最中で党内スパイ問題を浮上させ、これにより求心力を失い始めたことになる。 |
【「1976年、「9.14―15公判闘争」を廻って、路線的対立」が発生】 |
1976年、「9.14―15公判闘争」を廻って、路線的対立が発生している。「凶準の騒乱罪的通用粉砕・致死デッチ上げ粉砕」を掲げ、対権力・対革マルの正面対峙・突破作戦をとる急進派路線と、合法的法廷闘争を押し進めようとする応法派路線との重大な岐路であった。 |
この種のことで対立が更なる対立へと向うように煽られた経緯が見て取れる。 |
【「1978.10月、目上委差別ビラ事件問題」が発生】 | ||
この時、党内に「1978.10月、目上委差別ビラ事件問題」が発生している。東京・目黒上映実行委員会の差別ビラ執筆と配布を廻って、党内が混乱した。この時主流派は、党内整風運動を押し進め、「目上委差別ビラ事件」対応を通じて、「組織内部糾弾闘争〈内糾〉路線」を満展開し、反主流派を「反解放派差別主義脱走グループ」と規定することにより、「この差別主義グループを解体することが目上委差別ビラ事件の自己批判」なる統制主義路線を敷いて行った。 反主流派は、次のように批判している。
|
||
話は双方から聞いて見ないと分からないが、いずれにせよ、解放派は対革マル派戦に向かう最中で、この種のことで対立が更なる対立へと向うように煽られた経緯が見て取れる。 |
【「解放派組織分裂(第一次分裂)」】 | |
1980(昭和55)年、解放派は、学生武闘派を中心とした主流派の狭間派、労働者組織重視の反主流派の労対派(滝口弘人、高見圭司ら)に組織分裂した。これを仮に「第一次分裂」とする。(その狭間派が分裂に分裂を重ねていくことになる)成田空港闘争では、狭間派は反対同盟・北原派を、労対派は反対同盟・熱田派を支援した。 この時、「4.20グループ事件」が発生している。「内ゲバ廃絶・社会運動研究会 掲示板」(9.17日付「4.20グループの件」、投稿者・Giya)等々の投稿文から概要を整理する。
|
|
解放派は、文字通りの内ゲバを発生させていった。そのお粗末さ、それを権力に売りつけるお粗末さ、襲撃者が襲撃行為を不問にした構図で権力売り渡し行為をなじるお粗末さ、というお粗末づくしの話しとなっている。 |
【「三里塚9.15襲撃事件」】 | |
1980.9.15日、「三里塚9.15襲撃事件」が発生している。三里塚において狭間に与するグループが滝口に与するグループを武装襲撃。これによって、解放派・革労協の組織的分裂が決定的となる。この後も狭間派は武装襲撃を繰り返し、負傷者まで出した。 「『解放の通信』発行にあたって 」は次のように批判している。
|
【「解放派反主流派の動き」】 |
1980秋、SP大会に向けたSP有志の集りがもたれ、「公然派閥」作りの話しが開始される。 1980.12月、在京Ky会議を開催し、組織方針の討論に入る。第二回会議開催要求にたいし、一部から「事前討論」という方向が出されて討論に応じる。ここで「KRK再建」と「KRK再建反対」の意見が正面から対立。総務委員有志、L中央再建委共同呼びかけの「二・一五KF政治集会」について討論開始。 1980.12月、関西現代杜、宗派グループを排除。 1981.1月、総務委員有志会議(Ky会議内)がもたれ、とくに「二・一五中止提案」をめぐって討論された。 1981.2月、2.15政治集会は、Lの方針変更で活動家討論集会となった。この日、社会党の活動者会議が同時に行なわれた。 1981.3月、ヨーロッパ問題に関する総務委員会有志声明。 1981.6月、この頃までに永井、狭間、けん(いわゆる「NHK」)らの狭間派(学生の半分と労働者の一部)と、滝口、高見ら通称「労対派」(後の革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会、通称解放派全協)(学生の半分と労働者の多数)に分裂した。狭間派は、革マル派の軍事的絶滅を目指し、滝口派は対革マル戦においてはイデオロギー闘争を軸にしていくべしと主張していた。 1981.8月、第1回KRK全国代開催。 1981.9月、「日本社会党社会主義同志会呼びかけ文」全国発送。 |
1981.9.1日、テロ。
1982.1、同志会会議開催。「革労協再建全国連絡会議発足までの経緯」は次のように述べている。
概要「KRK再建か、再建反対かという対立が進んだ。しかし、同志会については、当初の主旨である、公然党内グループとして形成していくことで、その対立をこえて結集して出発した。その中には、私たちと路線的に一致している人々、及び、「社会党変革論」グループが混在していることが前提的な事実としてあげられる。私たちは、行動委員会運動を否定したり、社会党以外の闘争を否定したりする「変革論」の傾向と異なり、分派闘争としてSPにかかわる方針でいる」。 |
1981.4月、「革労協再建首都圏活動者会議への呼びかけ」が発表され、次のように述べている。
「9・15襲撃を行なった宗派的政治グループは、今日、総務委員会を僭称し、組織の官僚的乗っ取りに走っている。9・15襲撃-12・12党内闘争勝利宣言-2・8集会=総務委員会僭称の過程は、組織内論争の原則的推進を放棄し、一方的に組織を分裂させ、革労協中央を名乗り、階級闘争の、敵対物へと自己形成しつつ、階級闘争の革命的推進から集団脱走していく全過程であった」。 |
「宗派的政治グループの登場と脱走の全過程は、同時に、革労協の労働者階級の階級政党としての革命の党への形成の不成功ということを条件としていること、そして彼らにより組織が荒廃せしめられてきたこと、そして組織の中央部を僭称していること、このことの判断の上に、我々は革労協の再建を決意した。全国の同志と共に組織的作業に入るために、とりあえず首都圏の再建を志す同志の結集をもって討論を開始し、宗派的政治グループを生み出したことの階級的自己批判、歴史的総括-80年代総路線形成の作業に入ることを呼びかけるものである」。 |
「労働者階級の党の建設を目指して結成された革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の再建こそ緊急の任務である、解放派が築き上げてきた共産主義的プロレタリア革命運動の発展のために、革労協の革命的再生こそが不退転の決意で闘い取られねばならない」。 |
1982.4月、「『解放の通信』発行にあたって 」が発表され、次のように述べている。
「総務委員会議長の『9.15声明』に続いて、総務委員7名の『ヨーロッパ問題に関する声明』を発し、又、東京、関西をはじめとする全国の同志の組織再建へのアピールが出され、革労協再建へ向けた全国代が開始された。我々は、全国代を重ね、革労協の歴史的総括を深化してきた。この討論の積み上げの上に、全国的再建運動の組織的推進の為に、今年四月、全国代において『革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)再建全国連絡会議』を結成し、革労協再建への本格的活動を展開することを決定した。『解放の通信』発行をテコに、革労協再建へ総進撃しよう!」。 |
1983.1.15日、「殺人」襲撃。
1983年、いわゆる三里塚「三・八分裂」。最大の争点となったのは「一坪再共有化=大地共有運動」。これをどう論ずるのかで混乱。
1984年末~85初頭、宗派グループは、永井公判闘争において、永井の致死無罪を証明する為にとして、あろうことか当の12号館前のいわゆる第二現場で、致死で起訴されている木戸同志に、永井のアリバイ立証を行ってほしいとの『要請』を弁護士ルートを通じて公式に行っている。「この話に、我々は、わが眼を疑い耳を疑った」(「プロレタリア革命」1月号)とある。
1984.6.20日、「革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)再建全国連絡会議」名で、「全国の同志諸君!全協を推進しよう! 解放派を再生しよう! 労働者革命を目指し前進しよう!」アッピールが出されている。
1984.7.1日、「呼びかけ 革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会(仮称)準備会」名で、「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会(仮称)へ結集せよ!」アッピールが出されている。
1984.10月、「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」名で、「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会(仮称)の結成宣言、全協第一回総会に結集しよう」アッピールが出されている。
1985年、宗派「解放」新年号で、「革命をとおして大地を含む生産手段の共有化をもった“生産者の自由で平等な連合”があらわれてくるのである」と主張し、革命ののちの「大地共有化」を承認する。
1985.6.15日、「革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)再建全国連絡会議」名で、「全国の同志へ、ともに革命的労働者党建設をめざし奮闘しよう!!」アッピールが出されている。
1987.9.21日、文筆主体が分からないが、「反対同盟六戸の脱退―分裂に対する見解と決意」が声明されている。この声明は次のように述べている。
概要「彼らは、『闘う農民相互の連帯や農民や労働者人民との連帯のもとでの土地の共有化への様々な過渡的な試みを積極的に支持し、目的意識的に推進していくことである』と述べている。宗派グループの“おどろくべき”ジグザグである。確かに路線は不動のものではなく、路線の再編はある。しかし路線はわが団結の命運=未来であり、死活をかけたものである。従って『手直し』=再編する場合には死活をかけた総括―自己批判が前提として立てられるはずである。党の自己批判の否定―党の『地平』の絶対化―自己無びゅう化で糊塗してはならない」。 |
【「主流派(狭間派)の№2永井啓之氏が除名される(第二次分裂)」】 | ||||
1988(昭和63).1月、社青同解放派の指導者の一人として位置していた狭間派No.2の地位にあった永井啓之氏(永井啓之獄中書簡集「仁王のように立ちて」)が除名されている。これにより、解放派の主流派を形成してきた狭間派が主流派、反主流派の永井派に組織分裂した。これを仮に「第二次分裂」とする。
この対立の背景が分からない。いずれにせよ№1と2がそれぞれの派を結成して分裂したことになる。「永井幹部は狭間派の中で狭間最高幹部に次ぐ地位にあったが、大衆闘争も重視すべきだと主張したことなどから63年に除名され、独自の機関紙を発行するなど分派活動を行っていた」とある。「前年に成田闘争の北原派から分離独立した小川派に同調した総務委員・永井啓之を中心とする永井グループが分裂した」ともある。 主流派は、その理由として次のように述べている。
これに対し、山岡論文「内部粛清殺人テロを兇行した宗派グループの最期的腐敗を弾劾せよ!」は次のように批判している。
|
【「永井派幹部の辻美喜・氏が狭間派によりリンチ殺害される」】 | |
1989.2.5日、永井派の元軍事指導部、辻美喜が狭間派によりリンチ殺害される、とある。
これ以上のことは分からない。 |
【「永井氏が狭間派による殺される」】 |
1989(昭和64).6.25日、革労協(狭間派)の最高幹部であり実質ナンバー2の永井啓之氏が内部粛清で殺害された。川口市の自宅から拉致された。武南署員が駆けつけたところ、付近の電話線ケーブル三本が切断され、アパート二階に住む永井幹部がヘルメット姿の七、八人の男に襲われワゴン車で連れ去られたことが判明。埼玉県牛久市の県道トンネル内に放置された寝袋の中に突っ込まれて死んでいる状態で発見された。殴られた跡があり、顔は判別できないほど膨れあがり、肋骨15本などが骨折する無惨な状態だった。 |
【「6.25永井内部粛清に関する声明」】 | |||
狭間派は事件の三日後に声明「6.25永井内部粛清に関する声明」を発表し、次のように正当化弁明している。
|
|||
れんだいこは解放派の党史ないし分裂理由、当時の情況に対する知識がないので判断しにくいが、「6.25永井内部粛清に関する声明」の論法の酷さ変調さについてはすぐ指摘することができる。「世界史的意義を万人に説明することのできる人民の護民官」(レーニン)的迫力を全く喪失しており、この声明のこの論理が権力側の常套話法であり、この論理に馴染む者の背景の胡散臭さが見えてくる。 1・被害者がスパイであると指弾され、2・テロ被害の責任が被害者に被せられ、3・加害者が、死という結果に対して言い逃れし、4・死んだ責任は当人の思想的脆弱性と反革命的所業の強さと深さによる動転を主因とすると責任転嫁し、5・テロの正当性を居直る、という論法はどこかで聞いたことがある。これに、「蘇生しなかったのは本人の責任」なる冷や水を浴びせれば、紛う事無き「戦前日共の小畑中央委員リンチ致死事件」を廻る宮顕話法そのものである。 れんだいこは、解放派の主流派、反主流派のそれぞれの論理に通じていないので弁論できないが、この論法については左派ないし革命派としては許し難きものであることを指摘することができる。そういう意味で、「この執筆者を洗え」ということになる。いずれにせよ、批判の知恵を得る為にも宮顕に対する特殊な考察が是非とも必要ということにもなる。なかなか理解されないが。 2005.3.2日 れんだいこ拝 |
|||
永井氏は次のように追悼されている。
|
永井氏の殺害後、永井派は分解した。旧永井派が集団脱走したため、狭間派労働者組織が崩壊。さらに関西グループも狭間派から離脱する。
11.7日、北海道帯広市の列車内で、狭間派の女性活動家が、包丁で腹を切って自殺するという事件が起きている。
11月、「永井殺害事件」から4ヵ月後、狭間派最高指導者・狭間嘉明が、「永井啓之殺人事件」容疑で逮捕される。警視庁公安部は、6年にも詐欺容疑で逮捕したが、永井幹部殺害事件の手掛かりを得ることはできなかった。
1990.11.1日、東京都新宿区の警視庁独身寮「清和寮」に2つの爆弾を仕掛け、寮を爆破。警察官1人を殺害し、8人に重軽傷を負わせる。
1991.1月、関西の西原学を中心とする西原グループが分裂。
ここに10年のブランクがある。この間の歩みがわからない。青解派が千木良派と山茂派に分裂し激烈な抗争をつづけている。
1996.5.14日、、横浜市青葉区で革労協(挟間派)の十数人が、革マル派の国学院大生ら数人を鉄パイプで殴り、1人を殺害、6人に重傷を負わせた。
【「明大ゴスペル・ヘブン研襲撃事件」】 | |
1998.5.26日、明治大学和泉校舎で、革労協系の学生ら7人の活動家が「国際へブライ文化研究会」「ゴスペルソング愛好会」を名乗る反共系団体と衝突し、革労協系の生協職員ら4人が高井戸署により傷害などの疑いで現行犯逮捕された。さらに6.1日には、別件でもう1名が逮捕された。 革労協は、学生会中央執行委員会、学苑会中央執行委員会名で次のように声明した。
|
【「韓国人牧師襲撃事件」】 | |||||
1998.10.18日、東京都新宿区戸山二丁目、プロテスタント教会牧師の金圭東・氏(49歳)が襲撃され重傷を負う。革労協狭間派の仕業とみられる。
「解放(1998.11.1日付け681号)は、革命軍の戦闘詳報を掲載している。同じく「国際反共ファシストの頭目=金圭東に革命的鉄槌―徹底せん滅 ファシスト解体・絶滅戦の歴史的突破口切り開く」なる見出しで次のように声明している。
「10・18戦闘の革命的意義」なる見出しで、次のように声明している。
「10・18の戦果を拡大し、反共ファシストせん滅へ総進撃せよ」なる見出しで、次のように声明している。
「反革命革マルをせん減し、権力闘争の飛躍を闘いとれ」なる見出しで、次のように声明している。
|
【「狭間派が主流派と反主流派に分裂(第三次分裂)」】 | |
挟間派は1989.6.25日の元革労協(挟間派)最高幹部内ゲバ殺人事件以降も、神奈川グループや関西グループの脱退などで分裂を繰り返していた。また最高幹部・挟間嘉明の健康悪化による指導力低下で、山田を中心とする学生グループと古参幹部を中心とする労働者グループで主導権争いが起こった。以後、主流派を「現代社派」、反主流派を「赤砦社派」と表記する。
「反共主義とファンダメンタリズムを掲げる「明大ゴスペル愛好会」(ゴスペル研究会、ヨハン早稲田教会系列)との闘争への対応をめぐり、穏健派である総務委員会内多数派の現代社派(主流派、千木良派=狭間派)と強硬派で少数派の木元派(赤砦社派、反主流派、明治大学系、山茂派)が対立。その際、後者は主流派によって杉並区高井戸の「現代社」社屋内でメンバーが次々と査問される課程にあったが、ひそかに彼らはこの革労協のシンボルであるビルの「乗っ取りXデー」をゴールデンウィ-クの「社防隊が手薄となるタイミング」に狙い定め、クーデターをかけるが失敗。逆に外部へと放遂される形で追い出され、現在の台東区下谷の賃貸マンションに「赤砦社」を置き、山田茂樹をリーダーとして新拠点を構え、分裂が決定的となった」とある。 |
【「山茂派の指導者・山田茂樹(50)がテロられる」】 | |
1999.6.4日、主導権争いなどから内部対立が激化、「解放派(革労協狭間派)千木良派(党中央グループ)による内々ゲバ」。狭間派のテロ部隊が、牧師と談話中の革労協(挟間派)・学生グループ最高幹部・山茂派の指導者・山田茂樹(50)に対し東京都北区豊島の日本キリスト教団「王子北教会」礼拝堂に4、5名が「死を狙った襲撃」をかけ、鉄パイプで重傷を負わせた。新聞報道で、「同派内部では、路線対立や主導権争いなどから、学生中心のグループと労働者側が対立を深めていた。山田幹部は学生側のリーダー格とみられていた」とある。(氏は現在もその後遺症により、単独での歩行に困難を強制されている) さらに同日午後6時45分頃、現場から3.5km離れた足立区西新井の駐車場内で、逃走に使われた車両内に時限式発火装置がしかけられ炎上した。車両は5月に埼玉県日高市内で盗難されたものだった。 山茂派は次のように声明した。
|
【「千木良派と山茂派の攻防」】 |
6.8日、山茂派が、襲撃に備え搬入していた伸縮式鉄パイプや特殊警棒、金属バット類を好日として中心メンバー17名が凶準で逮捕された。6.11日、山茂派が、明大駿河台の学生会館内の革労協の拠点を占拠し、6.12日、狭間派は「私服部隊で武装潜入」をかけ奪還を図るが、襲撃開始寸前未遂に終わった。堪忍袋の緒を切った山田派は翌日「6.13軍声明」を出し、狭間派に対し事実上の「解放派内全面戦争」を宣言した。死の淵から帰還した山田は幹部小沢(従来彼らは「革労協の「軍事部門」の担当」だったキャリア?)らと、巻き返しのための「革命軍」を早速強化、全国で報復に乗り出す。 |
【革マル派論文「青解両派の「相互絶滅戦」を演出する国家権力」】 | |
革マル派は、「青解両派の「相互絶滅戦」を演出する国家権力」論文で、「両派それぞれの中心人物どもが何者かに襲われ、死亡あるいは重傷を負うという事件が相次いでいる」として、その背景事情を次のように分析し披瀝している。
|
【主流狭間派=千木良派幹部の長田佳比古氏(50)がテロられる】 | ||||
1999.7.2日、反主流派(明大系山茂派、赤砦社派)が主流派(狭間派、千木良派、現代社派)」狭間派古参幹部・明大生協理事・長田佳比古(50、荻野)氏をテロ、「千葉県松戸市岩瀬の市道をオートバイで走行していた際に待ち受けていた襲撃隊にテロられ、脳挫傷で死亡した」。 | ||||
革命的労働者協会総務委員会名は、「解放(1999.7.15日付697号)」で「7.2長田虐殺抗議声明」を出し、概要次のように述べている。
つまり、解放派が、権力・革マル闘争の過程で分裂し、明大生協グループが徹底抗戦派として位置していた如くである。次のような観点が披瀝されている。
|
||||
長田氏が党内でどういう立場に位置していたのか、錯綜していて部外者のれんだいこには分からない。 |
1999.7.7日、東京都中央区茅場町の地下鉄日比谷線茅場町駅のホームで男女がもめ、男の1人が止めにはいった駅助役(58)の顔を殴った。駅員らが男を取り押さえ、警視庁中央署が逮捕した。逮捕されたのは、過激派「革労協狭間派」非公然活動家、秋山祐一郎容疑者(45)。警視庁は内ゲバ事件とみて捜査している。
【「反主流山茂派の相川一郎氏が襲われて二日後に死亡」】 | |||
1999.7.21日、主流派の狭間派(千木良派、党中央グループ、現代社派)が、反主流派(山茂派、赤砦派)の生協職員・相川一郎(中山)氏を襲い、相川氏は二日後に死亡。7.22日、狭間派は、明大生田キャンパスに再度、全国動員公然ゲバ部隊を差し向け、構内の山田派に白昼の襲撃。狭間派の37名は凶準と建侵で構内に入った全員が検挙・起訴された。この大量逮捕がたたり、拠点の明治をはじめ山谷や福岡、九州大など「同派のシンボル」から狭間派が一掃され、山田派一色に塗り替えられることになった。 「内ゲバ廃絶・社会運動研究会 掲示板」の「ハザマ私兵グループその2 、投稿者:すえいどん、 投稿日9.18日」を参照する。
中山氏の履歴は次の通り。
次のように述べられている。
|
【「主流狭間派幹部・安部利昭氏がテロられ死亡」】 | |
1999.11.14日、反主流派(山茂派)が、主流派幹部安部利昭さん(当時50)を襲撃し、安部氏は「福岡市城南区で革労協狭間派のがハンマーなどで頭を殴られて殺される」。 これに関連して、11.21日革命的労働者協会日本社会主義青年同盟名で、「11.14反革命テロに対する報復宣言」を発表している(解放派機関紙『解放』706号、99.12.1日)。
|
【「反主流山茂派活動家・片岡知和氏がテロられ死亡」】 |
2000.2.8日、主流派の狭間派(千木良派、党中央グループ、現代社派)が、反主流派(山茂派、赤砦社派)の活動家・片岡知和(25、福井大生)氏を襲い、片岡氏は、福岡・博多区の駐車場で襲撃され死亡した。その翌朝、狭間派の襲撃キャップ柿沼忠氏とサブの女性が山田派の追っ手によって捕捉され、神奈川県真鶴で殺害・重傷を負った。柿沼忠氏は死亡、女性幹部は電車内で血の海に沈み失血死寸前を救われる(同列車は最寄りの総合病院のある2つ先の小田原まで救急車より早いという判断でこのままこの列車で小田原駅まで搬送し、結果それが生命の分水嶺へとはたらいた)。
昨年11月の安部テロに対する報復の模様。狭間派の内ゲバとみられる事件は、昨年6月から全国で発生し、片岡さんを含む4人が死亡している。 |
2000.2.9日、解放派(革労協狭間派)山茂派による刺殺内々ゲバ。神奈川県真鶴町のJR東海道線真鶴駅の上りホームで、男女2人刺され死傷、容疑の3人組逃走。
2000.8.30日、革労協の女性活動家で明大生協従業員組合書記長・片山美恵子さん(48歳)がJR山手線鶯谷駅前で刺され死亡。
2001.5.16日、千葉県八街市八街ほ九四五の飲食店駐車場で、革労協狭間主流派幹部で会社員、矢野義孝さん(49)が襲われ脳挫傷で死亡。矢野義孝さん(49)は成田市三里塚を活動拠点に県内では最高幹部の一人だったという。反主流派は昨年二月、三里塚芝山連合空港反対同盟北原派から絶縁されている。
2001.5.16、県警公安三課と佐倉署は、革労協反主流派活動家の小堺正博容疑者(48)を逮捕し、東京都荒川区内など三カ所の同派活動拠点を捜索した。小堺容疑者は黙秘している。調べでは、小堺容疑者は昨年四月と今年2月の二回、東京都練馬区の東京陸運支局で、車のナンバーから矢野さんの住所や所有車両を特定して殺人を助けた疑い。矢野さんは5.16日、出勤途中に八街市八街ほの駐車場で数人に鉄パイプなどで襲われ殺害された。小堺容疑者が殺害現場にいたかは分かっていない。既に死者8人、けが26人の犠牲者が出ている。
2001.7日、狭間派が「学合中執正・副委員長声明」を明大当局に差し出す、とある。
2002.5月、狭間派が明大和泉学館への「放火ゲリラ」の手引きを行い、二度にわたって九九%手中に収めた明大攻防のぶち壊しを謀った、とある。
2002.10.30日、JRうぐいす各駅南口で、片山美恵子同志がテロられ死亡している(享年48歳)。「内ゲバ廃絶・社会運動研究会 掲示板」の「ハザマ私兵グループ、投稿者:すえいどん、投稿日9.18日」を参照する。革命的労働者協会(解放派)の赤砦社「解放」の「ハザマ私兵グループによる8.30片山美恵子同志虐殺に大報復を叩きつけよ!」には、「ハザマの私兵どもの凶刃に、全身17ケ所をメッタ刺しにされ」とある。
片山美恵子氏の履歴は次の通り。
1952.5.3日誕生、1971年明治学院大に入学。事情で中退し、片山在根氏を出産。その後アルプス電気に就職、在職中に子連れで三里塚闘争に決起。1983年明大生協に就職。明大生協労組分裂以後、明大生協従業員労組委員長。この間片山在根氏が沖縄で死去するも悲しみをこらえて闘いを継続。1999年の北条千秀氏の死去の際には「1.22北条千秀追悼集会」の最先頭で闘い抜く。1999.5月の解放派分裂に対して、ハザマ私兵グルーブとの闘いを毅然として闘い抜く。2002.6.8日の凶準弾圧に始まる解放派に対する組織破防法型弾圧に対しては、弾対活動の中心を担い不眠不休の闘いを展開していた。死の直前にも、8.26国労続開臨大闘争に、明大従業員労組と東京・山谷日雇労働組合を率いて決起。8.30当日も下馬生協争議の支援に向かう途上であった。 |
この時の声明で、「ハザマの私兵ども」として、ハザマ、外園、八十島らが名指しされている。「裏切り六人組」として荒井、荒木、袴田、柳川、田中、小林が名指しされ、「お前たちも、われわれの第一級のターゲットとなった」とある。
「裏切り六人組」(荒井、荒木、袴田、柳川、田中、小林)が明大生協理事長宅に押しかけ自宅周辺にビラをまき散らし、「就労の安全を保障しろ」などと迫る、とある。
2003.12月、狭間嘉明最高幹部が病死(享年55歳)。
武本 | 1973年、埼玉県に生まれる。1992年、千葉大学に入学。1994年、千葉大学反帝学評に結集。1996年、全学連委員長に就任。2004.6.2日、戦時下の革命的学生運動の創出に奮闘中、ハザマ私兵グループの白色襲撃により死去。享年31歳。 |
高山 | 1965年、長野県に生まれる。1984年、東京理科大学に入学。1985年、三里塚闘争に決起。1986年、千葉大学に入学。1993年~1996年、全学連書記長として、学生運動を指導。1997年、駒沢大学に入学。2004.6.2日、戦時下の革命的学生運動の創出に奮闘中、ハザマ私兵グループの白色襲撃により死去。享年38歳。 |
2006.3.28日、革労協反主流派の幹部・岸本修(54)が拠点「赤砦社」(東京都台東区)から救急搬送されたが死亡した。赤砦社は死因を心臓麻痺としたが、全身にアザがあった。翌日、傷害致死の容疑で社内に家宅捜索が入る。
同志三浦(岸本修)を追悼する 同志三浦は、二〇〇六年三月二十八日、東京都台東区のわが革命党本部において、 入浴中に突然心臓麻痺におちいり、同志たちの全力の救命措置と医師の「救急救命治療」の努力の甲斐もなく、三月二十八日夕刻、緊急搬送先の病院において死亡が確認された。享年54歳であった。 同志三浦は、革命党の新たな飛躍に向けて昼夜を分かたず多忙な組織任務を全力で担っていた。肉体的精神的疲労が蓄積し急激な入浴ゆえに、突然肉体的変調をきたし「心臓突然死」(心臓麻痺)したものである。 日帝国家権力はすぐさまこの事態を、唯一の武装闘争勢力であるわが解放派壊滅の絶好の機会ととらえ、事故死を百パーセント承知の上で同志三浦の死因を意図的に「内内ゲバ」なるものにデッチ上げ、ブルジョワマスコミを総動員した反解放派攻撃を仕掛けてきた。われわれは同志三浦の闘いに、悪罵を投げかけ蹂躙せんとする一切の敵対を許さず粉砕する。 (中略) 同志三浦は、一九五一年五月二十七日に岡山県真庭郡久世町に生まれた。一九七〇年台初頭の激闘の真っ只中、医師を志し一九七一年大阪医大に入学する。狭山闘争をはじめとするあらゆる闘いに決起し、とりわけ反革命革マル絶滅戦の最先頭で闘い抜く。一九七三年に社会主義青年同盟に加盟。 (中略) 一九八〇年革労協関西地方委員会に結集。 一九八〇年反解放派脱落グループ(反内糾脱党グループ)と対決し、関西地方委員会の旗を敢然と守り抜き闘う。 (中略) 同士三浦は、一九八八年三・一七、三里塚空港爆砕・パイプライン爆破戦闘を先端とする本格的権力闘争の飛躍への反動として生起した、路線転換グループと全面対決し関西地方委員会の旗を守り抜いた。そして、一九九九年ハザマ私兵グループによる革命党(軍)破壊-脱落に煮えたぎる怒りをもって解体戦に決起し、とりわけ党内闘争を「利用」した日帝国家権力の解放派壊滅攻撃を粉砕するべく、党の弾対部活動を主要に担った。 (中略) 闘い途上、倒れた三浦同志の意思を引き継ぎ、革命勝利の日まで更に闘いぬくことを宣言する。 |
【社青同解放派内ゲバ被害資料】 |
年度 | 死亡者 | 同負傷者 | 死亡者 | 同負傷者 |
68 | ||||
69 | ||||
70 | ||||
71 | ||||
72 | ||||
73 | ||||
74 | ||||
75 | ||||
76 |
|
|||
77 | ||||
78 | ||||
79 | ||||
80 | ||||
81 | ||||
82 | ||||
83 | ||||
84 | ||||
85 | ||||
86 | ||||
87 | ||||
88 | ||||
89 | ||||
90 | ||||
91 | ||||
92 | ||||
93 | ||||
94 | ||||
95 | ||||
96 | ||||
97 | ||||
98 | ||||
99 | ||||
00 | ||||
01 | ||||
(私論.私見)