三代目神田伯山(明治五年7月20日~昭和七年1月30日)の墓参をしました。
三田の済海寺にあります。立派なお墓です。当時の隆盛が偲ばれます。
施主:神田会としてあります。水をかけた後の写真で見づらく済みません。
『次郎長伝』で満都を揺るがせた名人。持ちネタも数多く、影響を受けた芸人は数知れません。『次郎長』も少なからずSPレコードが残っておりますが、収録時間の関係で端折ったものが多く残念です。
唯一『大瀬半五郎』だけが一時間の長講ですが、これは機械式録音(ラッパ吹込み)故に音が悪くなかなか聴きづらいというのが正直なところです。
三代目は、二代目神田伯山門人で、最初は松山を名乗り後に小伯山。
二代目伯山は生前に伯山を小伯山に譲り、三代目を襲名させました。自らは初代神田松鯉と名乗り、これを隠居名としました。
神田派では元来神田伯龍が家元名前ですが(神田派開祖)、三代目神田伯山が大きな存在となったために、伯山がそのトップの名跡と目されるようになりました。
それ故に、三代目神田伯山の門人で、四天王と言われた伯治(三代目)、伯龍(五代目)、ろ山(初代)、山陽(初代)のいずれもが伯山になりたい色気はあったと言われます。
現在、神田伯山の名跡は、五代目神田伯山の最後の門人である神田昇龍(杉山嘉章)が預かり、三代目の墓の管理もしております。
三代目は『次郎長』、二代目は『水滸伝』、初代は『天一坊』を売物としました。
初代の『天一坊』を河竹黙阿弥が歌舞伎化した際に、原作は伯山の『天一坊』であることに敬意を表して『扇音々(おおぎびょうし)大岡政談』という外題にし、張り扇から紡ぎだされた物語であることを明示しました。
今年5月の歌舞伎座でも上演されましたが、『天一坊大岡政談』という外題になっていて(前回の2001年もそうでしたが)、いつの間にやら講談由来の芝居であることも分からなくなっております。
偏に講談の不甲斐なさの証明であり、大きなお墓の前で内輪としては忸怩たる思いでございます。
*こちらも併せてぜひお読みください【五代目神田伯残残照】
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