五代目神田伯山残照2 | 有限会社宮岡博英事務所のブログ

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お客様より「五代目神田伯山先生について知っていることを書いたらどうか」というお勧めがあり、

大したことは書けませんが手元に資料がある限りしばらくの間お付き合いください。

思えば弊社の「神田伯龍独演会」には多くの「伯山会(伯山先生の後援会)」残党(と言っては失礼ですが、元伯山会のメンバー)がお見えでした。色々貴重な資料も頂戴しました。

残念ながら光陰矢の如し。そうしたお客様とお目に掛る機会も無くなりました。

ご意見、ご教示、ご批判大歓迎でございます。ご指導ご鞭撻の程をよろしくお願いします。

*画像は全て弊社が所有するものです。無断転載はお断りします。ご一報下さればご利用に否やはございません。

 

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五代目神田伯山(明治31年4月27日生*誕生日に諸説あり~昭和51年11月4日没) 

本名:岡田秀章

 

五代目神田伯山残照2

《高座のスタイリング》

酷い近眼のため、普段は度の強い眼鏡が手放せなかったが高座では絶対に眼鏡を使わなかった。

帯も三尺帯を用い、足袋も白足袋を履かなかった。これは三代目伯山のスタイルという。

 

《毎回違う人名、地名、演出》

これは速記本や台本ではなく、耳で憶えたものを演じることが主だった時代の演者に特徴的なことである。

人名、地名、演出がその都度違う。それでいてしっかり一席になる。切れ場も自由自在。諧謔も自在。『大菩薩峠』の凄惨な”新坂下の決闘”でも「藪を突いて蛇を出すってのは良くあるんですが、駕籠を突いたら虎がでちゃった」でぷっと軽く噴き出すような含羞を持つ。

しかし晩年は放送用の収録で、詰まってしまい、ちょっと待ってくれと一息入れて沈思黙考。すると嘘のようにスラスラとストーリーが出てきたという。

 

《点取り》

細長いボール紙を点取り(講釈師のカンニングペーパーというか備忘用メモ)に使用。人名や土地の名前が少し書いてあるだけ。時に自筆の可愛いイラストが描いてある。こんなメモ書きでよくあれだけの講釈が出来るなと思う程。

 

《コカイン常用者》

最晩年まで常用した。鼻の穴に綿棒で塗るスタイル。現一龍齋貞山も楽屋で「先生、何しているんですか?」と尋ねて怒られたという。入院先でも所望。現寶井琴柳は「一番近い薬があるから買って来てくれ」と使いに行かされたという。五代目伯龍も常用者でいつも眼がどろんとしていたという。

 

《天皇嫌い》

長男が戦死したために、天皇をテンスケと呼ぶほど憎んだ。

度々の勲章辞退も本当はそれが理由の筈。しかし高座では平気で「国粋会の幹事長をしておられる○○さん」などと右翼と付合いがあることを隠そうともしない。この矛盾が如何にも講釈師らしい。

 

《確執》

三代目伯山の弟子を自称した結果、本来の師匠であった五代目伯龍との仲は険悪となり、五山の放送が流れると抗議の電話を入れる程だった(六代目伯龍談)。

 

化粧品店経営者から四十歳を超えて入門してきた五代目小金井芦洲(後の櫻洲)に対しては土手組あがりの素人と軽蔑し徹底的に嫌い高座に上がれないように仕向けたりもした。

五代目小金井芦洲=後の櫻洲と六代目神田伯龍(塩原太助が逃げ込んだゆかりの地、四万温泉賽陵館に招かれた際のものであろう。櫻洲は塩原太助を得意とした)

 

大富豪で講釈ファンでお旦(スポンサー)からプロになった浜井貞鶴→品川連山→神田小伯山→二代目神田山陽についても極めて批判的であった。「小伯山の名を汚されたから、これから神田派の出世名前は若伯山にしなきゃならないかな」と言う程であった(下記写真で人間関係が偲ばれる)。

昭和四十年に講談組合頭取(会長)の四代目邑井貞吉が没すると後任を選挙で決めることになった。選挙を不服と考える伯山は組合から独立する(頭取には五代目一龍齋貞丈が就任)。これは副頭取の(五代目貞丈、五代目馬琴、七代目貞山、五代目伯山)の中で最もキャリアの古いのは自分なので当然頭取は自分がなるべきと考えていたのだろう。意外やそういう発想も持っていた。

 

以後伯山は活動の場を独演会、自主興行、ラジオ放送出演に限定することになる。しかし後援者、お客様に恵まれていた伯山独演会は毎回満席だったという。

 

若手には温厚で、現貞山も「用事のある時だけ呼ぶから、一人にしておいてくれ」と楽屋の仕事は楽だったという。

常に何かしらの本を読んでいた(台本でなく)。

現琴柳は大変に可愛がられ独演会の前座を務めるばかりか、養子になれとまで誘われる程。しかし、この事を師の芦州に話すと「馬鹿野郎、俺の弟子だから使ってもらっていることが分からねえのか!」とカンカンだったそうです。

 

《後援者》

後援者とお客様に恵まれていた。

後援会『伯山会』には、吉村昭、津村節子の夫妻、有吉佐和子、杉森久英、鴨下晃湖、近藤顕房(岩松堂社長で『琵琶歌』の作者)、南波武男(中里介山作品の管理者)、神保朋世等々が伯山会メンバーに名を連ねている。

狷介孤高のようでいて中々のヨイショの達人であった。トンカツをお客様にご馳走になった際に、うっかり「この店は衣が厚いところがイイ」と言ってしまいしくじりそうになったこともあるという(六代目伯龍談)。

 

後援会紙『伯山』(昭和40年6月=講談組合脱退から30号続く)にも“弁天山美家古鮨”、“藤邑羊羹“、”人形町喜ずし”、“日本橋鮒佐”、“天庄”、“救心”、“龍角散”の老舗広告が並んでいる。

 

後援者として前述の鶴岡政次郎氏。新年会には必ず『笹川の花会」を所望したという。伯山を使って年頭訓示を行ったのである。

そして藤木幸太郎氏(今横浜市IR承知反対で話題になっているハマのドンのご尊父)との繋がりもあった(下記写真)。

《門人や影響を与えた人》

伯山の「講談はもはや大衆芸能ではなくなった」という考えから講談だけで食っていくことは今後不可能と、本職を持っている人を弟子に取った。

 

『神桃会』(神田と桃川の頭文字をとった)と称して、伯山が所有する所縁の芸名(神田五山、神田伯鯉、柴田南玉、桃川燕国、神田松山、桃川錦燕、千代田錦鏡)を彼らに与えた。

 

彼ら門人の講談会を開いた。この門人の中から神田伯鯉は、昭和44年に真打披露を本牧亭で行ってNHKで放送もされている。

 

『神桃会』は伯山没後も活動を続けたが、結局は消滅した。

千代田錦鏡(本名:佐藤四郎)が桃川如燕の名跡と墓を預かる。

神田松山(本名:杉山嘉章)が伯山の名跡と墓を預かる。

松山は昭和55年に現一龍齋貞水に入門しなおし一龍齋鏡水を名乗る。三代目神田伯山の五十回忌の施主となるが廃業。昭和63年1月には六代目一龍齋貞丈門下となり一龍齋貞一。後に廃業。さらに2006年初頭より六代目神田伯龍の門人となり、神田昇龍となった。

 

神田昇龍は、多くの演題を伯山から教わり、全くそのままと言っていい程の調子を遺している。

 

伯山独演会の前方としては小金井芦晃、寶井琴窓(「ウチの琴窓さんは何故か伯山先生の前を良く読んでいた」六代目馬琴談)と言ったベテランで中座読み(真打もしくは真打と同格の力を持ちながらトリでは出ない人)に当たる人が務めた時代もあった。

 

立川談志は伯山に心酔し、自分の『ひとり会』に招いて『平手の駆付』を頼んでいる。

“正しい骨格の芸を学んで下さい”という賀状を貰ったと度々述懐している。

 

現琴柳も度々前座を務めているが直接教わったことはないが、かなり憶えているとのこと。

 

現貞山は、「俺より琴柳が可愛がられていた」と言いながらも 『平手の駆付』は教わったと言う。

最近久々に復活上演した。

しかしあんまりにも似てしまうので他には教わらなかったとのこと。

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