目次
批評するとはどういうことか
赤田祐一は謝罪文で「いじめ紀行」を「作品」と呼び、「全文を読んでから、批判などして頂きたいものです」と述べている。批評には二つの立場がある。作品論とテクスト論である。
作品論・作家論とは
作品を書いた作者の意図が絶対に正しいとする立場である。
「いじめ紀行」は、小山田圭吾と障害児との「心の通い合い」を描いた作品である、作者がこういう意図だと主張すれば、読者は逆らえない。作者の意図に反する読解は、すべて誤読となる。
ブログ記事「小山田圭吾における人間の研究」の作者は私である。この作品の意図は、アーチストの人格と作品との関連、である。それを論評したもので、他の意図はない。したがって、これ反する読解は、すべて誤読となる。
テクスト論とは
読者は自由に作品を解釈してよいとする立場である。作者の意図など無視してよい。
「いじめ紀行」を、差別を助長する不適切な記事だと解釈するのも自由。ただし、そう解釈した責任は読者にある。
「小山田圭吾における人間の研究」を、小山田がいじめをやったと扇動した記事だと解釈するのも自由。
ただし、そう解釈したのは読者である。作者の意図を無視しているのであるから、その解釈の責任は読者にある。
以上のことから、作者である私に責任はない。
仮にあったとしても、太田出版や赤田祐一や北尾修一や村上清や、あの記事を許諾した小山田圭吾よりずっと少ない。
こべにの突撃!隣の晩ごはん
去年のこと、混雑した道を歩いていたら、向かいからおばさんが歩いてきた。
ぶつかる、と思って私は足を止めた。しかしおばさんは平気で直進してきて、私を突き飛ばした。何が起こったのか、一瞬わからなかった。振り返ると、おばさんは向かってくる人を次々と突き飛ばしながら、まっすぐに歩いていた。ぜったいに道を譲ろうとしないのだ。
人々はおばさんを避けるように左右にのがれ、ちょうどモーセの海のような道ができた。
おばさんはそこを一直線に歩き続けた。
こべにid:kobeni_08 というブロガーの活動を見ていて、このおばさんのことを思い出した。
こべには、「小山田圭吾氏いじめ記事に関する検証」という記事を書いて、メディア関係者に突撃している。
事実に基づく記事ならまだしも、憶測とチェリーピッキングだらけのヨタ記事である。
「嘘も100回言えば真実になる」とでもいうように。
許せないのは、私への誹謗中傷を行っていることだ。
訂正を申し入れても、聞く耳を持たない。
清義明氏にからんで論破されても、こべには平然と次のように書いている。
菊竹進氏から訴訟を起こすと警告されても、こべにはケロケロケロ、アッケラカーのカーである。
もし読者がツイッターをやっていれば、こべにとその仲間にからまれるかもしれない。ブロックしたいのもわかるが、こいつらは放置すればますます付け上がる。
そんな時は、私の記事を参考にして、こいつらを論破してほしい。
こべにが私について書いている記事はデタラメである、だから訂正しろ、と私は申し入れている。
自分の方が正しいというなら反論すればいいだけだが、それもしない。できないのだ。なぜならば、私の言い分が正しいから。
ジャンヌ・ダルクにでもなったつもりか、ひたすら私への誹謗中傷を、ばらまき続けている。
私のブログはいつもふざけているので、どうせ今回もふざけてネタにしているのだろうと思うかもしれない。
そうではない。
私はまじめに怒っている。
私に悪意はない、あるのは怒りである。
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