村上義弘 全ては競輪から教わった

【村上義弘の決意】競輪選手を目指したきっかけは家計を楽にするため

2021/06/30 (水) 18:01 29

KEIRINグランプリ2勝、日本選手権競輪4勝を含む特別競輪13勝。46歳の今もなお、近畿の柱として圧倒的な存在感を放つ村上義弘選手。競輪界のレジェンドはどのようにして誕生したのか。その原点を探るべく村上義弘ヒストリーを3回に分けてお送りします。

父親から競輪を教わり、滝澤正光さんに憧れた中学時代

 1994年にデビューしてから、早いもので27年。今回は、競輪選手になることだけを夢見て、ただひたすらに自転車に乗っていた中学・高校時代について書いてみたいと思う。

中学時代は滝澤さんに成りきって練習していた(撮影:桂伸也)

 もともと父が大の競輪好きで、子どもの頃、京都の向日町競輪場に連れていってもらったり、選手のことやレースの駆け引き、専門用語など、競輪について、詳しく教えてもらうことが多かった。いつしか自分も競輪が好きになり、中でも、夢中になった選手は滝澤正光さん(43期、現日本競輪選手養成所所長)。子どもながらに、先行する姿に力強さを感じて、憧れを抱いたりした。

 そんな自分が本気で競輪選手を目指すようになったのは、中学2年生のとき。当時、うちの家は、両親が離婚し、母と姉、弟と暮らす母子家庭だったんだけど、朝から晩まで働く母の給料と父が入れてくれる養育費で生活していた。ところが、父が交通事故に遭い、一時期、命を危ぶまれるほどの状態に陥ってしまったとき、3人きょうだいの長男として、こんなふうに決心した。

「俺が中学を出て働いても、どこまで家族を支えられるか、5歳下の弟(村上博幸、86期)をちゃんと大学まで行かせてあげられるか、わからない。それだったら、競輪選手になったほうが大金を稼げるかもしれない。今から高校を卒業するまでの5年間、一生懸命練習すれば、競輪選手になれるんじゃないか」

後に自分を追って競輪選手になった弟の博幸(撮影:島尻譲)

 誰にも相談せず、その日から、家にあった自転車で町中を走るようになった。もちろんロードレーサーではなく、荷台が付いた普通の自転車。格好も、最初はジャージと運動靴だったけど、自転車専用のウェアやシューズを身につけて、サイクリングしている人を見たとき、いきなり呼び止めて、「すみません。それって、どこで売ってるんですか?」と聞いたりした。

 中学時代はヤンチャなタイプで、毎日のように仲間と夜遊びをしていたから、練習するのはだいたい深夜だったけど、彼らには一切秘密にしていた。家族のために一生懸命取り組んでいることを知られるのが、なんだか恥ずかしかったからだ。

 滝澤さんが毎日200kmの乗り込みをするということを知り、当然200㎞は無理としても、運動神経が優れているわけではない自分を鍛えるために決めたノルマは約2時間。雨の日も雪の日も休むことなく、時には滝澤さんをイメージして、フォームをマネしたりしながら、がむしゃらにペダルを漕ぎ続けた。

大怪我に見舞われても…家族の存在が自分を奮い立たせた

 その甲斐もあって、自転車競技の名門と言われた京都・花園高校に入学した1年生の段階で、日本競輪学校に合格できるレベルのタイム(1000m走行時間1分10秒以下)を出すことができた。母に「俺が競輪選手になって楽をさせてあげるから、あと3年間だけお願いします」と頼み、高校に進学させてもらっただけに、家族にちょっとした希望を与えられたことがうれしかった。

 しかし、1年生の終わり頃 練習中の交通事故で、右脚の膝と前十字靭帯を損傷。3ヵ月ほど入院することになった。

怪我した時はショックだったけど、それも良い経験にできた(撮影:桂伸也)

 そのときはもう、絶望するしかなかったけど、それを上回ったのは、やはり「家族のために、競輪選手にならないといけない」という気持ちだった。だから、「とにかく、自分が今できることをやろう」と思い、下半身が使えない分、それまでほとんど取り組んだことがなかった上半身のウェイトトレーニングに没頭した。

 すると、それがよかったのか、高校入学当時は51kgだった体重が、退院する頃には65kgまで増加。復帰してから2ヵ月後くらいに、1000mのベストタイムをマークできたし、高校3年生のときには、国体の1000mタイムトライアルで優勝することができた。まさに怪我の功名とはこのことだろう。

 そして、高校を卒業し、競輪学校に73期生として入学したのが、1993年の春。中学時代から夢見た競輪選手への第一歩を、ついに踏み出すこととなった。(取材・構成:渡邉和彦)

※次回は7月14日(水)公開予定です。

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村上義弘 全ては競輪から教わった

村上義弘

Yoshihiro Murakami

1974年京都府生まれ、花園高出身。日本競輪学校73期卒。代名詞は「先行日本一」「魂の走り」。KEIRINグランプリ2勝、日本選手権競輪4勝を含む特別競輪13勝。実績だけでなく競輪に向き合う姿勢や常に全力を尽くすレーススタイルは、選手・ファンから絶大の信頼を得ている。ファンの存在を大切にし続ける競輪界のレジェンド。

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