姜沆:日本儒学(朱子学)の父

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日本愛媛県大洲市の市民会館の前には、韓国の儒学者である姜沆を称える記念碑が建てられている。 彼と大洲市とは、約400年前(慶長の役)、彼が大洲に幽閉されたことが縁となり、現在に至っては 50名ほどで構成された姜沆研究会で、彼に関する多角的研究が行われているという。
激しい戦争の中、捕虜になって日本に来た儒学者姜沆、彼の生涯と日本での足跡は、 当時の日本にどのような影響を与えたのだろうか。

姜沆
姜沆(1567-1618)は韓国の南部にあたる全羅南道の霊光出身である。幼い頃から学問的才能が優れていて、 27歳にはもう科挙に及第し、官職についたという。しかし1597年豊臣秀吉による丁酉再乱(慶長の役)が起こり、 全羅道に集中攻撃が始まった。その時故郷で休暇を過ごしていた姜沆は、戦争を耳にし南原城に軍量米の運搬を急ぐが、 成功できず、その後家族と共に海路で李舜臣将軍麾下に行く途中日本軍の捕虜となる。それで1597年から1600年の 約3年間に渡って、姜沆は日本での捕虜生活を送ることになった。その時の日本での生活については、彼が帰国後直接書いた「看羊録」に、他国での淋しい思いや当時の日本の政治状況が、 詳しく綴られている。

しかし「看羊録」によると、捕虜として連れて行かれたはずの姜沆には、奴婢がついており、 僧侶快慶とは漢詩を交わすなど、捕虜とは思えない自由な生活を送っていたという。 しかしこのような自由な生活の中でも、 故郷を偲ぶ彼の思いは次第に高まり、脱出を試みるが失敗に終わる。当時日本では脱出に失敗した朝鮮の捕虜は、 極刑が処されていたが、姜沆にだけはそれまでの寛大な態度を崩さず、客を迎えたかのような待遇をしていたという。 それは当時大洲城主であった藤堂高虎が大変尊敬していた僧侶快慶と姜沆との関係が、お互い詩を交わすほど好意的であったから であるとの見方もあるが、それよりもその時の彼の学問や徳望が、もうすでに当時の日本の人々に影響を与えていた からであるともいえるだろう。

捕虜になった理由
慶長の役は、豊臣秀吉の指示のもと、朝鮮人の耳や鼻を切るなどの虐殺が行われていた凄惨な戦争であった。 しかし姜沆が殺されず捕虜となったのは、彼が儒学者であったことが知られていたからであると考えられる。 当時日本は武力の時代で、儒学の道徳次元からは、野蛮ともいえる時代であった。その時代は豊臣秀吉が執権していた 16世紀末に絶頂を迎える。それに比べ儒教を国教としていた朝鮮は、政治理念だけではなく、一般生活の中にも 朱子学(中国南宋の朱熹によって大成された儒学)思想が深く浸透していた。しかし日本では唯一知識層であった 僧侶すらも、一部だけが接していた貴重な学問だつたので、日本としては姜沆のような先進知識を持った学者が必要だった のであろう。それで連れ帰って来たその知識人たちには、他の捕虜とは違う特別な待遇をしていたと考えられる。またその中でも 姜沆に特別寛大だったのは、それほど姜沆の知識が高く評価されていたからであると言える。

藤原惺窩との縁
姜沆は比較的自由な捕虜生活を送っていたが、当時の日本社会に同化されることはなかった。 彼は自分の節度を曲げずに、国に帰るという一念で日本語の勉強も一切していなかったという。 しかし壬辰倭乱(文禄の役)の前、日本に訪れた朝鮮の使臣を通じて、若干朱子学に接していた 僧侶藤原惺窩(1561-1619)との出会いがそれまでの姜沆を変えることとなる。 藤原惺窩は日本にまだ普及していなかった朱子学をより深く学ぶため、当時藤堂高虎によって大洲から 京都の伏見城に移されていた姜沆を訪れて行った。その時、朱子学の勉強のために僧衣まで脱いで、 正装した藤原の学問に対する姿勢に、姜沆は大きく感動されたという。そのことがきっかけとなり、 姜沆は藤原惺窩に四書五経など朱子学を教え、日本に朱子学つまり儒学が定着できる基礎を築き上げた。 そして1598年豊臣秀吉の死後、徳川家康は日本天下の統一と同時に江戸に幕府を開き、 戦争で混乱していた社会の安定のため、新しい時代の政治理念とし価値観として儒学を受け入れる。 それは当時の支配階級のイデオロギーに大きな影響を及ぼし、後には朱子学を教える学校(寺小屋: 江戸時代の庶民のための初等教育機関)もできたという。このように日本社会に朱子学の根を下ろしたのが 藤原惺窩だとしたら、その根が下りるように種を蒔いてくれたのは、姜沆であるといえるだろう。 400年が過ぎた今でも、愛媛県大洲の人々に、姜沆が日本朱子学の父と呼ばれているのもそのためである。

姜沆が朝鮮に戻れたのは、日本に連れて行かれてから2年8ヶ月が過ぎた1600年のことであった。 戦争によって予期せぬ運命を送っていた姜沆、彼は400年前、武で朝鮮を侵略した日本に、 学問で教育文化を伝えるという大きな足跡を残し、今では韓国よりも日本で体系的な研究が行われている。 従って彼が捕虜生活の中で残したものは、これからも偉大なる業績として称えるべき歴史と言えるだろう。