姜沆 かんはん

1567年5月17日~1618年5月6日


鴻儒 姜沆 顕彰碑



鴻儒 姜沆 顕彰碑
(愛媛県大洲市・大洲市民会館前)

1990年3月11日
姜沆記念碑を建てる会


(平成19年11月8日)

碑文(表)

年譜
西暦 年齢 事項
1567   全羅道霊光郡佛甲面で出生。
1588 22 進士に及第。
1593 27 科擧試験文科に合格。
1597 31 丁酉乱(慶長の役)で軍糧供給の任に当たるも兄濬・渙ら一族と共に
藤堂高虎軍勢の捕虜となり伊予の大洲に連行抑留。
1599 33 京都伏見に移送され藤原惺窩赤松廣通等と交流。
朱子学を講授。
惺窩の周旋で儒学の経典を筆写。
1600 34 釈放され釜山に帰還。
1618 52 故郷で死去。

その後弟子尹舜擧等により「看羊録」「睡隠集」などが刊行される。

碑文(裏)

近世日本思想史に大きな影響を与えた
儒学者 姜沆の伊予での七言律詩

錦帳名郎落海東  錦の名郎 海東に落ち
絶程千里信便風  絶程千里 便風に信る
鳳城消息鯨涛外  鳳城の消息 鯨涛の外
鶴髪儀形蝶夢中  鶴髪の儀形 蝶夢の中
両眼却慚同日月  両眼却って日月を同にするを慚するも
一心猶記旧鴛鴻  一心猶記す 旧の鴛鴻
江南芳草群鶯乱  江南の芳草に 群鶯乱る
■有飛■返寓公  ■し飛■有らば寓公を返せ

大洲市長 枡田與一 書

※ ■は表示不可能な文字です。

日本朱子学の父 儒学者 姜沆の碑

朝鮮王朝時代のすぐれた学者姜沆かんはん(号睡隠)は豊臣秀吉が朝鮮に再出兵(慶長の役)したとき 藤堂高虎の水軍に捕らえられ二人の兄、濬・渙、家族らと伊予の大洲に連行されました。
十か月に及ぶ大洲城での姜沆の生活は学者として遇され 金山出石寺の僧らとの交遊 漢詩の唱酬で毎日を送る自由な身分でした。
京都伏見の藤堂邸に移送されてから 江戸儒学の開祖となる 藤原惺窩 竜野の城主赤松広道 海運王吉田素庵らとの自由な交わりの中で惺窩は「四書五経倭訓」を完成しました。
姜沆と二人の兄ら十数人が四書五経の大字本を筆写し惺窩がそれに和訓を加えて刊行したのです。
近世日本思想の転換期に姜沆と藤原惺窩の友情は日本人も羨む程のものであり惺窩が儒学者として自立し得たのは姜沆の力があればこそでした。
姜沆が日本儒学思想に与えた影響は絶大です。

(副碑・碑文より)




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