山本寛氏の『魔法少女たち』PV映像に対する感想とこれにまつわる全てについて | わんにゃんがうがおおおぉ!!!

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山本寛新作アニメ『魔法少女たち』PV制作費募集クラウドファンディングのリンク(※既に寄付金の募集は終了)。

 



 私宮尾もクラウドファンディングに参加し、リターン品の完成したPV映像を拝見しました。


 しかしそこには、少なくともあの京都アニメーション放火大量殺害事件を醸成させた日本アニメ業界の腐敗構造(※出資者、制作業者、消費者、全てに蔓延る欺瞞の根っこ)を相手取る、「仇は、討つ」のコピーに象徴された様な表現的な挑戦の一切が存在しませんでした。むしろ、『魔法少女たち』のPVに終始一貫したのは、アニメ表現に対する極限までの妥協、打算、無気力、逃避でした。従って、約1000万円の制作費にあまりにも見合わない『魔法少女たち』のPVこそが、むしろ日本アニメ業界に蔓延る腐敗を凝縮した仇討ち対象の具現そのものとも、私宮尾は看做します。

 京都アニメーションの社名ロゴムービーのオマージュや、中世末期ヨーロッパの魔女狩りの図版等でもって、同調圧力に流されるままのアニメファンのアニメ制作業者に対する予てからの攻撃性が、あの京アニ放火大量殺害事件という最悪の形まで発展した、と言いたい位の事は、たとえ「オタク」でもすぐに分かります。しかし、そもそも『魔法少女たち』のPVで最も肝心な事は、日本アニメ業界の製作と制作と、そして動物化したオタクとが結託し続けてきた文化的な腐敗構造へのアンチテーゼを物語作品のテーマ性として昇華する企画である事を、クラウドファンディング出資者の「オタク」に対してではなく、あくまで製作委員会方式で出資して下さるかもしれない企業のプロデューサーの面々に対して伝える事だった筈です。それを演出畑出身のアニメ監督が数十秒のPV映像で如何に演出し、昇華し得たかが伺えるという意味での、含蓄の深い見所が皆無だったと、私宮尾は何度も声を大にして叫びたい。

 御託を並べて嘘八百を撒き散らす事は簡単でも、出来上がったPV映像で嘘八百を貫き通す事は無理という事です。
 繰り返し述べます。
 『魔法少女たち』のPV映像に終始一貫したのは、アニメ表現に対する極限までの妥協、打算、無気力、逃避でした。

 山本寛という演出家の実力を計る手段は、彼が演出(監督)担当して完成した映像に込められた演出家としての気力の程度に対する、鑑賞者側に於ける感触、主観に依らざるを得ません。勿論、それは様々な映像メディアによって、ある程度は目を肥やしたとか、同時代的な現実社会問題への見識から虚構の存在意義を常に問い直し続ける等の自負を前提とする、映画やアニメを愛する「主観」には違いありません。従って、私宮尾は山本寛監督作で直近の『薄暮』は今も評価しています。いわゆる「作品に罪は無い」というやつです。しかしそれも正直、アニメーションそのものとしてはレベルが稚拙な部分がかなり散見されるのも事実だが、それでもあの福島の復興格差の問題を短く小さな恋愛物語に落とし込みつつ、恋愛物語よりも福島の背景美術こそを主役として表現するという前代未聞のアニメ演出には、今でも唯一無二の社会的な存在意義を確認できるし、これは不動の評価です。しかし、返す返すも、『魔法少女たち』のPV映像には、そのような『薄暮』にはあった挑戦を予見させる解釈の余地の一切が不在でした。

 『魔法少女たち』のPV映像は、このアニメ企画を商業ベースに乗せる上でとっかかりとなる意味でも、とても重要な位置付けだった筈でしたが、少なくとも私宮尾は、そこから感じ取らざるを得なかった山本寛氏の無気力さによって、もう既に『魔法少女たち』という企画は終ったのだと判断しました。

 演出家としての実力、もとい、気力がまともに伴いもせずに、多額の制作費の工面を呼び掛けてしまったにも関わらず、これに応じたファンに対して、謝罪の一つもまともにできない程度の彼の演出家としてのプライドこそが偽物であり、これは彼が予てから批判対象としてきた筈の、正に日本アニメ業界の腐敗の一部や、或いは、具現そのものに過ぎなかったという、私宮尾の主観による幻滅の話です。

 翻って、私宮尾は京アニ放火大量殺害事件の悲劇を、生涯、忘れたくても忘れられないでしょう。

 又同時に、その心の動揺から前後不覚になって他人の美辞麗句に希望の全てを易々と委ね切ってしまった自らの精神的な弱さと失敗とこれによる教訓とについても、一生涯、忘れたくても忘れられないでしょう。

 全ては私宮尾の心の弱さに起因した失敗でした。


 逆に、私宮尾の傷心に無上の癒しと渇とをもたらしてくれたのは、図らずも、他でもない、あの京都アニメーションの悲劇の犠牲者の一人の、とある背景美術担当のアニメーターの方が遺された【進みたい表現から、逃げない!】(※参照映像リンク)という言葉でした。

 加害者の一人に他ならない私宮尾が、大先生であると同時に被害者に他ならない彼女から救われてしまっていたのでは、てんで話になりません。

 私宮尾は、そんな現時点の私自身が憎くてたまりません。

 だが勿論、そのままの自分でい続ける気も、さらさらありません。

 私宮尾は、京アニ放火大量殺害事件を生涯、背負い続けながら、自分の道を自分の力で進みます。


(2021年9月初旬に執筆)

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