公道の路面の逆バンク状態とはどう
いうものかというと、これをモデル
とすると解り易いかもしれない。
この段差なくしのスロープを例えば
左に斜めに登ろうとすると、傾いた
タイヤはスロープの面に対してアン
グルが強くなり、いわゆる逆バンク
の状態となる。
物理的に面からのミューが極度に下
がり、路面とタイヤを密着牽引する
トラクション不足となりスリップを
発生させやすい。
公道では、この逆バンク状態は三つ
の条件で発生する。
1.坂道で上に回り込むカーブ
2.道路にカントがついていて、それ
が途切れる地点(実質の逆傾斜では
なく相対的なバンク。鈴鹿の逆バ
ンクと同じ原理)
3.公道の排水機能として設定された
路面断面の蒲鉾型形状→日本では
右カーブが逆バンクになりぎみ
私が峠のワインディングの走法など
で言う「山を登り、谷をわたるよう
に走る」というのは、この上掲の画
像を見て貰えばイメージしやすいか
も知れない。
なるべく、このスロープに対して直
角に近いルートで登坂し下るのだ。
幅員の中で。
ラインはタイヤ一つ分どころか半分
だけでもその場の位置でミューが変
わるのでグリップ状態が変化する。
ゆえに、理論的にミュー変化の少な
いルートをトレースするのである。
つまり、コーナリングのRの中で路
面を瞬時に見て適切ラインを選択す
る。
けだし、他の人は知らない。
私はそれである。
すると、36年間、無事故無転倒、
という自己史と未来が現実になる。
道路のカラクリも、私の無転倒も事
実であるのだから動かせない。
速さなどは関係ない。
私は速く走ろうとはしていない。
私個人は「きのうの自分よりもきょ
うはもっと完璧に走りたい」のだ。
安定して路面に貼り付いたように。
わざと滑らせても、それも張り付き
のスライドとして。スリップはさせ
たくない。同じ滑るでも意味が異な
る。それは、結果が別物になる事が
多い。
道路は、どういう状態でどのような
時に滑り易いカタチが現出してくる
のかについては、四輪車の人もそう
だが、二輪運転者は知っていて損は
ないと思う。
ただ、ストリートで速い人、速くて
転ばない人は、狭い世界での「レジ
ェンド」は作れるだろう。
しかし、片山敬済氏がそうであった
ように「六甲で最速」よりも、彼の
ように世界チャンピオンであるほう
がいい。裏世界の王者よりも表世界
での栄誉のほうがいい。
「速さ」を求めるならば。
私は公道では「速さ」ではなく別な
ものを求めている。まだ自分の中で
未完成な別なものを。
また、二輪の場合に限って、私はロ
ードはほぼ「移動のための道」とし
ては走ってはいない。私が運転する
四輪車の場合は完璧に「移動の通路」
だ。
私の車に同乗した人はよく言うが、
私は四輪車はハイヤーのような運転
をする。
二輪の場合は、「道そのものを自分
が楽しむ」事を主軸としている。
でないと二輪で行く意味が自分では
よく分からない。
電車でも飛行機でもバスでもタクシ
ーででも目的地には行けるからだ。
でも、そうなると目的が「観光」と
なり、そのような事の為に二輪車を
消耗させるつもりは今のところ私に
はない。別な交通手段を使う。
私が二輪車に乗るのは、「走るため
に走る」というもの。
目的地があってもルートが大切で、
その行程のロードを楽しむ。
二輪では眠っているうちに到着する
事は決して無い。
人が死んだ時、睡眠で意識が無い
ノンレム睡眠と同じなのではなか
ろうか。医学的な「死亡」とは別でも。
自分の意識は停止する。
つまり、人間としての思惟は止まる。
二輪は、操作操縦は「生きて」いな
いとできない。
そこ。
生と生存を実感するために私は二輪
に乗る。
そして、二輪は応えてくれる。
挙動というボディランゲージで。
そこに対話と応答が成立する。
モーターサイクルは人間に一番近い
乗り物だ。