令和皇室を揺るがす母子――。2017年秋の婚約内定会見以後、3年余にわたって小誌は小室圭さんの友人や同級生、母・佳代さんの知人や元婚約者X氏など、多数の人物を取材してきた。過去のメモをもとに改めて徹底取材し、「将来の天皇の義兄」の真の姿に迫る。
◆ ◆ ◆
「結婚を認めるなんて、許せない」
その日、朝から宮内庁にはこんな抗議の電話が殺到し、職員は対応に追われた。
11月30日、秋篠宮の55歳の誕生日である。
〈眞子さま結婚「認める」〉
こんな見出しが新聞各紙の一面に躍っていた。長らく懸案となってきた秋篠宮家の長女・眞子さま(29)と小室圭さん(29)の結婚問題について、秋篠宮が初めて「認める」と明言されたことが大きな波紋を広げている。
同日、秋篠宮家にはもう一つ、大きな動きがあった。
「じつは11月30日付で、秋篠宮家を支える皇嗣職宮務官の女性が2人、同時に辞めたのです。時期外れに、一度に2人の辞職というのも異例です。急なことだったのか、補充人員もまだ一人しか決まっていません」(皇室担当記者)
さらに、同日に発売された『週刊現代』にも、見逃せない記事が掲載された。
「小室さんの母・佳代さんの借金問題について、元婚約者のX氏が『今後一切、返済は求めない』とする独占告白が掲載されました。今回の会見で秋篠宮さまが小室さん側に求められた『目に見える形での対応』とは到底言えませんが、これで結婚に向けた障害は事実上無くなった」(同前)
先月の「立皇嗣の礼」を経て、正式に皇嗣となられた秋篠宮。だが、冒頭の通り、ご一家には厳しい逆風が吹いている。秋篠宮家をここまで追い詰めたのが、眞子さまのお相手・小室圭さんと母の佳代さんをめぐる借金問題とその後の対応だ。令和皇室を揺るがす母子の背景には一体何があったのか。
◇
圭さんは91年10月5日生まれ。横浜市役所の職員だった父・小室敏勝さんは、学生時代に恋人・角田佳代さんと「卒業したら結婚しよう」と約束を交わしていた。言葉どおり、敏勝さんの就職後まもなく、90年頃に2人は結婚し、ほどなく圭さんが誕生する。
明治大学理工学部建築学科を卒業し、市役所では都市計画に携わっていた敏勝さんは、圭さんが2歳のころ、横浜市港北区の新築マンションを購入。圭さんが小学生のころには敏勝さんが授業参観に参加し、児童からも「優しそうなお父さん」として知られていた。
専業主婦の佳代さんは教育熱心だった。電柱にバイオリン教室の張り紙の掲示を見つけると、3歳の圭さんに週1回のレッスンを受けさせた。当初はバイオリンを持ち、立ったまま居眠りすることもあった圭さんだが、佳代さんが自宅での練習を怠らせなかった甲斐もあってか、腕前は上達。佳代さんは自宅マンションから1時間以上かかる東京都国立市の国立音楽大学附属小学校(音小)に、圭さんを進学させた。
「ウチの息子はバイオリンの天才です」
母は周囲にこう言って憚らなかった。
圭さんは、明るく素直な子どもだった。おかっぱ頭で、両親のことを「お父さま」「お母さま」と呼んだ。比較的、経済状況に恵まれた家庭の児童が多い音小にあって、小室家はむしろ庶民的な家庭と言えたが、その折り目正しさに、同級生たちは驚かされたという。
そんな小室家の日常が突如、暗転する。02年3月5日、敏勝さんが38歳の若さで亡くなったのだ。
「お父さんが首を吊って自殺した」
小室家からほど近く、一家が日頃から馴染みのあった喫茶店で、佳代さんはマスターにこう打ち明けた。
「私たちが寝ている間に、バタッと音がして、お父さんが家を出ていったんです。そのときは眠くて起きられなかったんだけど、ハッと気付いて、子どもを連れて追いかけた。そうしたら、川辺で首を吊っているお父さんが……」
当時、圭さんはわずか10歳。だが、母にこう声をかけた。
「僕がそばにいるから大丈夫」
残された母子はここから、強すぎるほどの絆を結んでいくことになる。
「パパが欲しい」と泣くんです
夫を喪い悲嘆に暮れる佳代さんは、連日その喫茶店で涙を見せた。佳代さんの話の間に夜が更け、傍らの圭さんが眠ってしまうと、マスターが小室家まで送り届けたこともあった。
そんなある日。佳代さんが圭さんとともに、小柄な女性を連れて喫茶店にやってきた。30代半ばと思しきTシャツ姿の女性は、店に入るや、不可解なことを次々に口にした。
「私、このお店のこと、来る前から分かってたんだ。そこにある絵のことも」
壁に飾られた油絵を見ながら話す女性。奥の席に座ると、出入り口付近の席を指して、語りかけた。
「圭くん、ほら、見てごらん。あそこにお父さんがいて、こっちを見てニコニコしているから」
圭さんは嬉しそうに「ええっ!」と声を上げた。佳代さんも、そんな女性に全幅の信頼を置いている様子だった。
佳代さんは、父親のいない息子が不憫でならなかった。このころ圭さんを通わせていた神奈川県内の絵画教室で、幅広い年代の生徒たちを相手に、問わず語りにこう語っていたのを教室の仲間は覚えている。
「この子、父親を亡くしているんです。だから息子のパパを探さなければならないの。息子が夕方になると『パパが欲しい』と泣くんです。黄昏病なの……」
実際、敏勝さんの死後しばらくして、佳代さんに男性の影がちらつくようになる。近所に住む彫金師のY氏だ。奥さんに先立たれて独身だったY氏。佳代さんが絵画教室で、当時50代半ばだった絵の先生に、明け透けに相談を持ちかけることもあった。
「(Y氏は)60歳近い男性で、個人でアクセサリーを作っている人なの」
「その人、私の手を握ってきたんですけど、そのくらいの年代の男性でも性欲ってあるんですか」
ほどなく、Y氏は小室家に居候を始める。小学5年生の圭さんにとっては突然現れた同居人だったが、愛想良く接してみせた。
「圭も、その方をすっかり気に入っているのよ」
周囲にそう語るほど、すっかり安堵した佳代さんは、Y氏との結婚を意識するようになる。敏勝さんの死から1年ほどが過ぎていた。しかし――。
「結婚はやめてほしい。出て行って!」
結婚話が浮上すると、圭さんは突然、泣きながらこう訴えた。それまで“大好きなお母さまが幸せならば”と押し殺してきた感情を、圭さんが初めて爆発させた瞬間だった。
圭さんが見せた、最初で最後の反抗。Y氏は結局、小室家を出て行った。
こうして母子密着を強める2人。父親探しは頓挫したが、一方で、佳代さんはますます圭さんの教育に熱を注ぐようになる。バイオリンや絵画教室に加え、圭さんの小5の夏休みには、都内のインターナショナルスクールが主催するサマースクールにも参加。佳代さんが“ママ友”から評判を聞きつけ「是非、ウチの子も」と希望したのだった。
大黒柱を失った小室家の暮らしは、決して楽ではなかったはずだ。じつは敏勝さんの死から1週間後、敏勝さんの父・善吉さんも後を追うように自ら命を絶っている。圭さんは、その祖父の遺産を一部相続したが、だからと言って経済的にさほど余裕ができたわけでもない。それでも佳代さんは、圭さんに「最上の教育」を施すことに強くこだわった。圭さんも母親の期待に応えようと、数多の習い事に黙々と取り組んだ。
04年。圭さんは高校まで一貫教育のカナディアン・インターナショナルスクール(東京都品川区)に入学する。年間授業料は約200万円と、決して安くはない。母子は小5のサマースクールを契機に、英語のできる国際派となるべく、同校への進学を決めたのだった。
中学生になった圭さんは、コミュニケーション能力に長けた少年に成長した。ユーモアもあり、クラスの人気者。ファッションにも気を遣い、中学3年生のときには自主制作映画の主人公を務めるなど、目立つ存在だった。なのに、親しい仲間内でもいつも聞き役に徹し、自らの内面をさらけ出すことはなかった。
高校に上がる頃、母子の世界に変化が訪れる。佳代さんと、後に婚約者となるX氏が出会ったのだ。共通の知り合いが開いた会合でのことだった。X氏は当時、50代後半の外資系商社マン。ある晩、X氏は佳代さんから連絡を受けた。
「圭が一晩かけて作った学校のレポートを、誤って削除してしまって。何とかなりませんか」
ITに詳しいX氏を見込んでの頼みごとだった。結局、修復はできなかったが、高校生だった圭さんは持ち前の人懐こさでX氏の心を掴んだ。たびたびパソコンを持ってきては、
「ここが上手くいかないんですけど……」
と相談を持ちかけるようになったのだ。そんな交流の中で、X氏の家に母子が2人で遊びにくることも増えていった。佳代さんは夫を自殺で亡くしたことをX氏に打ち明けた。そして時折、こう漏らした。
「母子家庭だと、圭もいろいろと後ろ指をさされることがあるかもしれない。父親代わりになってくれる人がいないかな」
思わぬ言葉が、X氏の口を突いて出た。
「圭くんのために、お父さんがいたほうがいいんですかね」
X氏の背中を押したのは、例えばこんな出来事だ。圭さんがカナディアン・インターナショナルスクールの卒業パーティの直前、X氏にこう“おねだり”をした。
「ネクタイを貸してください」
身につけるものにこだわりがあるX氏が洒落た蝶ネクタイを渡すと、圭さんはことのほか喜んだ。それを見たX氏の胸に、こんな思いが去来した。
「息子がいたら、こんな感じなのかな――」
10年9月、X氏と佳代さんは両家の家族に挨拶を済ませ、婚約した。佳代さんとは一度手を繋いだきりでそれ以上のことは何もない。それでもX氏が婚約したのは「圭くんの父親代わりになれれば」という一心だった。こうして、X氏は佳代さんから「パピー」と呼ばれ、愛車のジャガーで母子を様々な場所に送り届けることになる。それはこれまで2人だけの世界に欠けていた「経済的援助」と、後ろ指をさされぬ「世間体」を小室さん母子が手に入れたことを意味した。
「コムロック」と呼んで
同時期、圭さんは国際基督教大学(ICU)に進学。10月14日に佳代さんはX氏にメールで〈ICUの授業料の金額について記します(略)金額¥453,000(学期毎)口座番号等は明日伺った際に〉と具体的に要求した。そのメールには、3学期の授業料の引き落としが11月26日とも記されており、X氏は11月1日に同額を振り込んでいる。
その後、圭さんは奨学金の審査に合格し、授業料は奨学金で賄えるようになった。だがその後も、翌11年4月に40万円、9月に44万円、10月に45万円など、佳代さんに求められる通りに、X氏はお金を振り込み続けた。
圭さんはICUの寮に入ると、こう自己紹介した。
「男を上げたくて入寮しました。『コムロック』って呼んでください」
ICUには「ボール」と呼ばれる寮主催のパーティがある。その日ばかりは学内での飲酒が解禁になり、寮のリビングスペースに置かれたDJブースを囲んで学生たちが羽目を外すイベントだ。圭さんも例外ではなく、HIP-HOPの曲に合わせ、ハイテンションで踊った。後にこの寮からは大麻で逮捕者も出た。
翌年12月には、六本木のクラブイベントで、指に大きな指輪をつけた圭さんが口元に裏ピースをあて、その間から舌をのぞかせる“卑猥ポーズ”をキメた写真も撮られている。母の前で見せる優等生の顔とはまるで違う一面だった。
だが、多感な時期を迎えても、圭さんの世界の中心には、いつも母がいた。
大学に上がる頃から、圭さんも自身の将来設計を考え始める。漠然と「国際的な仕事がしたい。国と国とを結ぶような……」と口にしていた。そんな息子に、佳代さんが「圭ちゃんには、こんなお仕事が向いてるんじゃない?」と言うと、圭さんはいつも「お母さまもそう思う?」と応じた。母の願いと圭さんの希望は混然一体となっていた。
話題に出た職業の一つが、アナウンサーだ。
圭さんが10年7月に「湘南江の島 海の王子」に選ばれ、1年間にわたり藤沢市の観光PR役を務めたことは、よく知られている。じつは圭さんが応募したのは、「海の王子」コンテストが、日本テレビの辻岡義堂アナを生んでいたから。アナウンサーを目指すにあたって、「海の王子」がアピールポイントになると考えたのだ。コンテストに合格すると佳代さんは喜び、しばらくの間、息子を「王子」と呼んだ。
大学2年になった圭さんは、11年11月から、アナウンサーとテレビ局の合格実績第1位を誇るアナウンススクール「アスク」で、3カ月間のアナウンサー養成基礎科に通い始めた。当時の履歴書からは、圭さんの並外れた自己PR力が滲み出る。
〈国際社会に対する理解が人一倍ずば抜けていて、その理由は自身の生活環境にある。僕は高校までをインターナショナルスクールで過ごし、グローバル教育で評価の高い国際基督教大学に進学した。異なる文化に対し全くバイアスを持たず、適切にメッセージを発信できるのは僕にとってはごく自然なことであるものの、確かな一つの「スキル」であると自負している。無論、英語力は話すまでもない〉
奇異に見えるほどの強い自己肯定も、母の強い愛情ゆえだったのか。
佳代さんは、圭さんの友人関係も把握していた。圭さんに恋人ができると、デートコースを事細かに決める。過去の交際相手の中には「圭くんは母親の操り人形」と漏らす女性もいた。
圭さんが高校3年生の頃、有名料理店の社長令嬢と交際したことがあった。それを知った佳代さんは、
「圭ちゃん、いいじゃない!」
と、飛び上がらんばかりに喜んだ。佳代さんは、圭さんの交際相手の家柄を気にしていたのだ。
そんな圭さんに、母を一気に上流に押し上げる、“運命の出会い”が訪れる。
12年6月のことだ。ICUで開かれた交換留学の説明会で、圭さんの後ろの席に座ったのが、眞子さまだった。
当時、2人は20歳。眞子さまは皇族として見られているという緊張感もおありだったのか、初対面の学生と積極的に交流されることはなかった。そんな眞子さまの心の襞に触れたのが、聞き上手で、相手を喜ばせる術に長けた圭さんだった。関係はすぐに発展し、翌7月には初めてのデートへ。そして、眞子さまが8月にスコットランドのエディンバラ大に留学される前に、交際をスタートさせた。圭さんは、佳代さんの期待に応えるために、いつも全力を尽くした。
眞子さまが日本を発たれた翌月には、圭さん自身の米UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)への留学も始まる。佳代さんは圭さんを見送るため、X氏の車で成田空港に同行した。
出発直前、母はドラッグストアで何やら買い物をすると、息子に手渡した。
「何かあるといけないから……」
避妊具だった。圭さんは黙って頷くと、何食わぬ顔で携えていたトランクにそれを仕舞った。その光景は、隣で見ていたX氏の記憶に焼き付いている。
そしてこれが、X氏が「父親代わり」として圭さんを見た、最後のシーンとなった。
記念写真に入れないX氏
じつはX氏は、虚栄に満ちた小室母子の生活に違和感を覚えていた。当時の小室家の収入は、佳代さんのケーキ屋のパート代が月12万円、敏勝さんの遺族年金が9万円。だがX氏の目には、母子の暮らしぶりがあまりに贅沢に映った。
例えば、10年10月4日に、X氏は佳代さんからこんなメールを送られている。
〈圭は明日19歳のバースデーを迎えます。今年は圭の大好きな恵比寿ウェスティンHの『龍天門』でお祝いDinnerしたく(中略)少しリッチな誕生日会食となると思われ、ご負担をお掛けしスミマセン〉
圭さんの20歳の成人式(12年1月)には、帝国ホテルで写真撮影をした。車で送迎するX氏に、佳代さんは「主人が生前、この写真館を贔屓にしていたの」と語った。だが、父親代わりのはずのX氏が、母子と一緒に記念写真に収まることは許されなかった。2人だけの世界に、“異物”は不要だった。
一方で、ことあるごとにX氏は佳代さんから、「アナウンススクールの入学費」、「生活費」などの名目で無心され、貸したお金の合計は、439万3000円になった。利用されるだけの関係性に嫌気が差し、X氏は12年9月に婚約を解消したのだった。
◇
ロスと、エディンバラ。遠く離れていても電話やスカイプで連絡を取り合っていた眞子さまと圭さん。留学を終えた13年12月、大学4年生の圭さんは、眞子さまに「将来、結婚いたしましょう」とプロポーズした。交際スタートから1年あまり。普通の大学生ならば考えられない速度で、圭さんは将来を約束した。
上流志向の強い母が望んだ「家柄の良い女性との結婚」。佳代さんの期待に常に応えてきた圭さんは、千載一遇のチャンスを逃すまいと、性急にことを運んだのではなかったか。
だが小室母子には吉兆と凶兆が同時に訪れていた。
直前の13年秋、X氏は佳代さんに借金の返済を求めた。すると佳代さんは、圭さんを伴ってX氏の自宅を訪問。弁護士と相談して書いた、借金に関する“弁明書”を携えていた。
〈(400万円超のお金は)贈与を受けたものであって貸し付けを受けたものではありません〉
手紙にはそう記されていたが、X氏が何よりショックを受けたのは、冒頭の宛名の漢字が間違っていたことだった。婚約までしたのに、なぜ――。X氏の胸にやるせなさが募った。
こうした一連の借金問題は、婚約内定後の17年12月に『週刊女性』に報じられるまで、圭さんから眞子さまに明かされることはなかった。借金自体もさることながら、不都合なことを隠していた態度が、秋篠宮ご夫妻の不信を招いた。
「母と過ごす時間のほうが……」
長い間、母と支えあい、母の希望に沿うように生きてきた圭さん。だが、圭さん自身が何をしたいのか、どう生活の糧を得て、いかに生きていきたいのかは、30歳を目前にしても見えてこない。これまでの仕事選びでも、やはり見え隠れするのは母の存在だった。
14年7月、圭さんは三菱東京UFJ銀行に入行。だが、16年4月、2年足らずで退職した。
圭さんは日ごろから、周囲にこう語っていた。
「良い職よりも、母と過ごす時間のほうが大事。忙しくて家族との時間が無くなるなら、他の方法を探す」
その後、一橋大学大学院に入学して経営法務を学ぶ傍ら、奥野総合法律事務所でパラリーガルの職を得た。だが、2年でそれも辞め、18年8月からは、米フォーダム大学ロースクールに留学。「夢追い人」のごとく漂流し、今は来夏の米司法試験を目指しているという。だが、国際弁護士になるのか、米国で生きていくのか、その先行きは判然としない。
眞子さまは文書でお気持ちを公表し、秋篠宮は会見で「目に見える形での対応が必要」と強く求めた。そしてボールは今、小室圭さんの手に握られている。
小室圭さん年表
source : 週刊文春 2020年12月10日号