6.#とくに「s」と「sh」が致命的(3)
「え……ええええええええ!?」
それはまるでデジャビュ。
爆音とともに、大草原に向かって力強く堆肥のもとを放つフェンリルは、まるで先ほどまでの俺のようだ。
気のせいか、その獰猛なはずの顔は、苦悶と恍惚のはざま、みたいな表情を浮かべているようにすら見える。
「な……なにが起こってるの……!?」
「見ないであげて!」
ぎょっとして肩越しに身を乗り出そうとするアメリアの目を、俺はとっさに手で覆った。
恐怖から一転、俺の心には申し訳なさが波のように押し寄せていた。
唐突なようだが、皆さんは欧米人が苛立った時に”shit!”って言うのを聞いたことがあるだろうか。
あれは俺たちが「くそっ!」って言うのとまったく同じで、shitは本来、「くそをする」という動詞です。
下品だし、調子づいて英語圏で使うとマジで顰蹙を買うから、よいこはやめておこうね。
さて、動詞を原形で叫ぶと命令形になる。
”Sit!”は「座れ」。
ただし日本人は、「s」と「sh」を区別するのがとっても苦手なんだよね。
つまり、座れというつもりで、思いっきり”Shit!“と叫ぶとそれは――
「……すまん、フェンリル……っ!」
俺は思わず心の中で手を合わせた。
downまで付けたのは俺です。おまえは俺を恨んでいい。
フェンリルは今、強制的に腹を下されるという、おそらく前代未聞の攻撃を受けていた。
ちょっとこれ音声にもモザイクを掛けてあげたほうがいいんじゃないか、といった、名状しがたいサウンドが辺りに満ちる。
異様な爆音を警戒してか、アメリアは俺の手を振り払おうとした。
「ちょっと、手を離してったら! 状態を確認しないことには仕留めたかどうか――」
「仕留めたから! 見ないであげて! 状態なら俺がレポートするから! 松竹梅で言うとデラックス松って感じ! 色も形も申し分なし!」
「その単位、全然レベル感がわかんないんだけど!」
噛み合わない会話を交わしながらも、やがて漂ってきた臭いに、アメリアも事態を把握したらしい。
周囲で警戒態勢を取っていたエルヴィーラやマリーも、そろって構えを解き、微妙、としか言えない表情を浮かべた。
「これは……」
「ターロさん、いったいどんなスペルを……?」
詳細はコメントいたしかねます。
ただ視線を逸らしてだんまりを決め込む俺をよそに、フェンリルはすっかり腹の中をすっきりさせたようだった。
凶悪だった唸り声が鳴りをひそめ、まるで犬が甘えるような「くぅーん……」という弱々しい声が響く。
それに引かれて顔を上げると、フェンリルがこちらを見ていた。
ことが済んで理性を取り戻したかにも見える彼。
気まずいような、突然腹に生じたる空虚にたじろぐような、峠を越えた快感を噛み締めるような、そんな佇まい。
世界だとか種族だとかを超越して、その瞬間、俺たちはすっかりわかりあった。
俺だって、胃腸の弱い日本人ですもの。
なんとはなしに見つめ合ってしまっていると、その様子を見守っていたマリーとエルヴィーラが、はっとした声を上げた。
「フェンリルの瘴気が……獰猛な黒魔力の気配が、完全に消え去っています……!」
「ああ……、見ろ。フェンリルの足元の辺り……すごいな。規格外の大きさだ。あんな完全な形、初めて見た……」
「えっ」
マリーはともかくとして、エルヴィーラ。
あんたなにコメントしてるんだ!?
一番この手のことには忌避感を示しそうな、きれい系美少女エルフの、まさかの発言にぎょっとして振り向くと、マリーが慌てたように仲裁に入った。
「あ、あの、ターロさん! エルヴィーラさんが言っているのは、源晶石のことですからね!」
「源晶石?」
マリーが指さす方向に目を凝らしてみると、確かにフェンリルの足元に、しずくのような形をした、赤ちゃんの拳ほどの大きさの石が浮かんでいる。
それはうっすらと光を発していて、本体は淡い青色をしているようだった。
「源力は黒魔力と白魔力に分かれる。つまり、白魔力を魔物にぶつければ、魔力が還元されて、源力の結晶――純粋な魔力の塊になるんです。こういう、ハントの際に生じる恵みを『ドロップ』と言って、私たち冒険者はそれを集めてもいるんですが……」
とくに源晶石は、小粒でも魔術のサポートに利用できるため、ギルドでの換金率が高く、冒険者の中でも好まれているのだという。
こんなに立派なドロップは初めて見ました、と、マリーはほうっと息を漏らして告げた。
「やはり、ターロさんはすさまじい白魔力量の持ち主なんですね。ぶつける白魔力の量が多かったから、結晶量も多かったんだと思います。すごいですね!」
狐耳をぴょこっとさせて、こちらを見上げながら微笑む。
彼女の指さす先では、フェンリルが徐々に、通常サイズの狼くらいにまで縮んでいった。
「って、フェンリル、すんごい縮んでるけど!!」
「あ、そうですね。黒魔力の暴走が収まって、元のサイズに戻っているみたいですね。あれなら危害は加えてこないので、もう大丈夫ですよ」
「質量保存の法則はどこいった!? 特に排出されたほう!」
思わず突っ込んでしまうが、マリーは「まあ、魔物ってそういうものですから」とのほほんと返す。
その隙に俺の手を完全に払ったアメリアが、「で」と口を開いた。
「あの完全体のドロップ。……どう回収しよっか?」
くいと顎を向けた先は、当然、源力の結晶だ。
淡く光る、宝石としても鑑賞に堪えそうな、魔力の塊。
冒険者としては当然ほしいのだろうそれを、しかし彼女たちの誰一人として、進んで取りに行こうとはしなかった。
ひとえに、それが浮かんでいる場所の問題だろう。
結晶は、フェンリル産の堆肥からかろうじて数センチ浮かんでいる程度……いや、かすっている?
もしかしたらかすっているかもしれない。
どうすんのこれ、みたいな空気が漂うこと数秒。
沈黙を破ったのは、意外にも俺たちではなく、フェンリルのほうだった。
「くぅーん」
すっかり穏やかさを取り戻した様子で、彼は前足でちょいと源晶石を蹴り上げ、俺にそれをパスしてきたのである。
「え……っ!?」
ぱしっ。
親が投げたみかんを受け取る。級友の投げたパンの袋を受け取る。
同様の脊髄反射で、俺はついその結晶を受け止めてしまった。
同時に、ざっと音を立てて女子三人が俺から距離を取る。
俺はとっさに叫んだ。
「つ……付いてない! 付いてないから!」
「……わぁ。フェンリルから友好的な気配を感じます。友情の証ということかも。すごいですね、ターロさん」
「優しい口調で顔を逸らさないで! 鼻摘ままないで! 信じて!!」
心の底から訴えたが、マリーからは「はい……」とぎこちない笑みが返るだけだった。
「ドロップはすべて、自由区に放置せず持ち帰るのが規則だ。ターロ、おまえがそれを運ぶといい」
「そうね。正直、そんな上玉の源晶石なら、あたしだって喉から手が出るほど欲しいけど――さっきの詫びの印ってことで、特別に、あんたが握りしめてていいわよ」
エルヴィーラやアメリアも、目が合うのを避けながらそんなことを言う。
「それって単なる運び屋じゃんか! みんなこれに触りたくないだけじゃんか!」
素早く突っ込んだが、ふたりとも素知らぬ顔をキープするだけだった。
臭くないから! 清潔だから! と主張する俺をよそに、マリーは「それにしても」と首を傾げる。
「滅多に人を襲わないはずのフェンリルが、どうしてまた、あんなに黒魔力を暴走させてしまったんでしょうね」
それが鑑定能力というのだろうか、パーティーの中で唯一フェンリルの異常を察知していた彼女は、そこが気に掛かっているようだった。
「ずいぶん苦しがっていたし……その割には、白魔法が掛かるとあっさり回復してましたけど――」
考えるようにゆらゆらと揺れていた尻尾が、ぴたっと止まる。
チョコレート色の瞳は、半焼したテントの奥、なにか鉢のようなものが置いてあるあたりを、じっと見つめていた。
「――……アメリアさん?」
その声は、妙に平坦だった。
「まさかとは思いますけど……また、『アレ』を作りました?」
「え?」
アメリアがぎくっとしたような顔になる。
さーてなんのことやら、と異様にうまい口笛を吹く彼女に対し、マリーはきっとまなじりを釣り上げ、背伸びして突っかかった。
「もう! もうもうもう! さっきから微かに残ってる腐卵臭、おかしいと思ったんですよ! しかも、調理に使った鉢ごと、テントの外に放置したでしょう! 臭いが広がるからやめてくださいって、私、何度も何度も言ったのに!」
「やー、久々に作ったら、分量間違えて余らせちゃったのよね。テントの中に留め置くには耐えがたい臭いだったから、つい。嗅覚が鋭いマリーに配慮したのよ?」
「結果、嗅覚が鋭くて好奇心旺盛なフェンリルを呼び寄せちゃったじゃないですか!」
あげく、フェンリルの腹を壊させたらしい。
なるほど、かの獣は、アメリアの凄惨テロ料理に惹かれてやってきたと。
それを口にして腹を壊したと。
でもって、俺のスペルによって強制的にそれから解放されたと。
……もうなんていうか両手を合わせて詫びるしかなかった。
「……アメリア、おまえ……」
やり取りを見守っていたエルヴィーラからも、ブリザードを思わせる冷気が漂う。
さすがに旗色悪しと読んだのか、アメリアは豊かな赤銅色の髪をがしがしと掻きながら、「悪かったわよ」とぶっきらぼうに謝った。
ちらりと俺にも一瞥を向け、
「……後悔はしてないけど、反省はしてる。……悪かったわね」
口をへの字にして、小声で繰り返す。
それが彼女なりの、俺を試したことの謝罪のようだった。
それからアメリアは降参したように両手を上げ、溜息をついた。
「オーケー。これは借りだわ。みんなからの要望を一個ずつ叶える。好きに言って」
どうやら、「小銅貨一枚たりとも借りは作らない」という彼女の流儀は、本当であったらしい。
エルヴィーラやマリーも慣れているのか、さほど考え込むこともなく、
「肩もみ一時間。テントは幸い半分残っているから、寝そべった状態で頼む」
「アーレントのギルドの近くにできたケーキ屋さんで、苺がたっぷり載ったケーキ、おごってくださいね」
そんな他愛もない要望を口にする。
この三人は仲がいいんだろうなと、そんなことをぼんやり思った。
「で、あんたは?」
振り向かれて、きょとんとする。
へ、と間抜け顔をさらしていると、アメリアはむすっと腕を組んで付け足した。
「あんたは、なにがいいの」
「……俺も、『みんな』の内訳に入れてくれるの?」
「……まあ」
たった二文字のその返事に、我ながら呆れるほど嬉しくなってしまう。
受け入れられた。
たぶん。
「じゃ、じゃあ……」
どきどきと胸が躍る。
こんなとき、小説の主人公ならどんなセリフを決めるのだろう。
きっとこう、俺のことも認めてくれよ、とか、これからよろしくな、とか、そういう、恩に着せない感じの格好いい――
「…………」
しかしちょうどそのとき、ぷぅんと野性味あふれる
……そうだ、このデラックス松。
これを放置しとくのって、人として、どうなんだろう……。
「その……」
俺はぐるぐると素早く思考を巡らせ、やがて覚悟を決めた。
放っとけばいいんだろうけど、でもこれって、俺とアメリアが引き起こした事態だ。
悪臭ってたしか公害のひとつだよな。
なによりエルヴィーラの発言を聞くに、彼女たち、このままこのテントを使って寝る気みたいだし……。
「このフェンリルの
日本人として正直、むき出しのデラックス松の横で寝る勇気は、とてもなかったのである。
こんな感じで、俺はアメリア、エルヴィーラ、マリーの三人と行動を共にすることとなった。
ちなみに。
ぽかんとし、次に全力で拒絶したアメリアを宥めすかして共に「ソレ」に土をかぶせてから、一晩。
もしかしたらすごく豊かな土壌になるかもよー、とやけくそ気味に薬草を一株投げ入れておいたところ、翌朝には「畑かよ!」とつっこみたくなるほど薬草が異常発生していたことだとか、マリーが薬草を鑑定して「エメラルド級の品質に、進化してます……!?」と震えていたことだとか、ギルドに薬草を提出したら激震が走ったことだとか、ドラマはこの後もいくつか待ち受けていたのだけども――。
ひとまずは、このへんで。