信濃国の秦氏 その17
信濃国の秦氏旧和田宿での検討を終え、長久保宿方面へと中山道を下ります。(実際には江戸方面に向かうことになり、上りと書くべきでしょうが、道は下っているので下りとします)
宿場の町並みが途切れ、しばらく走るとこんもりした森が見えてきます。若宮八幡神社です。これは羽田家が祀る神社です。
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若宮八幡神社の位置を示す地図画像。
社名は表示なし。鎮座地:小県郡長和町和田1215 位置は中山道沿いの上組の下あたりです。
社殿。
解説板。以下のように書かれています。
若宮八幡宮
祭神は、仁徳天皇である。
本殿は、一間社流造の間口1.5m、奥行1.7mの大きさで、棟札には享保六年(千七二一)建立とある。正面と側面に廻縁をつけ隅組擬宝珠柱混用の高欄をめぐらし、脇障子には、輪違文に六辨花が彫刻された各部分の調和がとれた建築である。
天文二三年(一五五五)和田城主大井信定と武田信玄が矢ケ崎で合戦、信定父子を始め、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。
元禄六年(一六九三)その回向の為、信定寺第六世来安察伝和尚が、当境内に墓碑を建立した。
墓石です。
和田領主が大井信定、羽田家先祖が秦(羽田)幸清です。羽田家が祀る神社の中に和田領主の墓が羽田幸清の墓と並んである…。大井氏が羽田氏に見守られているように見えてしまいます。領主と家来(家老ですが)の墓が並ぶなど、通常ではあり得ないことのように思え、大井氏の大井は大堰ではないかと勘繰りたくなります。同族なら並んでいてもおかしくはありませんから…。
若宮八幡神社からさらに下ると、また家並みが見えてきます。正確な場所はわからないのですが、柳又のバス停付近かと思います。実はこのあたりに羽田本家のお宅があると和田宿本陣でお聞きしました。どれが本家宅なのでしょう?もちろん地域で最も立派なお宅のはずです。
多分こちらでしょう。
もう一枚。
羽田本家の玄関には「秦陽館」と書かれた額が掲げられているそうです。それが今もあるかどうか…。少なくとも門には見当たりません。
その額です。やはりこちらが羽田本家でした。
もう一枚。
写真は羽田分家の方のご厚意でご案内いただき、中で撮影させていただいたものです。またここには書きませんが、色々なお話もお聞かせいただきました。改めて深くお礼申し上げます。そんな訳で、通常この額の撮影はできないことお含み置きください。
羽田孜氏の本家が秦氏であったことを証明するかのような「秦陽館」の額を拝見できたのは、正に感動的でした。波田町における民宿のご主人のお話やお借りした資料などもそうですが、こちらが求めるものが図らずも出現するのは秦の神の導きのようにも思えてしまいます。本当に不思議ですね。
邸内に立つ改築記念碑です。
羽田貞義撰文とあります。この人物に関しては「その15」で書きましたが、後でも出てきます。碑文の一部分を抜粋します。
天文年間此ノ地ノ領主大井信定武田信玄ト戦ヒテ敗ルルヤソノ家老羽田幸清亦殉死シ其子武久居ヲ此土ニトシ居宅ヲ構エシ以来三百有餘年云々とあります。
碑文も天文年間とするのみで、何年と特定してはいません。問題は其子武久です。「その15」では以下のように書いています。
戦国時代
秦幸清:天文年間に武田氏との戦闘で討死。
秦幸清の長男羽田筑後守竹久:武田氏に従い、武田の滅亡後は真田家に仕え大坂夏の陣で討死。
次男の羽田六右衛門房幸、三男の羽田右近之介幸正:真田家に仕え大坂夏の陣で討死。
四男羽田信久、五男羽田吉久:徳川方に与した。長和町和田の羽田氏は羽田吉久の後裔に当たる。
碑文の武久が羽田幸清の長男竹久を意味しているのであれば、大坂夏の陣で討ち死にしているはずです。よって、五男の羽田吉久が羽田本家の先祖になると思っていたのですが、碑文を見る限りでは羽田吉久ではなく羽田武久のようです。五男吉久は単なる書き間違いで、正しくは五男武久なのかもしれませんが、現時点では確認のしようがありません。この問題は棚上げとして、羽田本家を離れ長久保宿に向かいます。
矢崎城跡の写真です。
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矢崎城跡を示すグーグル画像。
この場所で大井信定と秦幸清が武田軍と激闘を繰り広げ、討ち死にしたのでしょうか?いつか具体的な戦闘状況・年月日を示す資料が出ればと期待しています。では、もう少し羽田氏に関して見ていきましょう。羽田家の家系図によると、祖先は秦の始皇帝です。信濃秦氏の流れからすれば、秦川勝の子である秦広国の子孫が羽田本家になります。
元首相の羽田孜氏は始皇帝と徐福が祖先だとしていますが、徐福に関してはあり得ない話だと思われます。「新撰姓名録」を見る限り、始皇帝を祖先とする秦氏はいても、徐福を祖先とする秦氏は書かれていないからです。
多分、徐福子孫と自称する徐福系秦氏が存在することから、それを取り込んでしまったのでしょう。これから500年の歳月が経過すれば、羽田家の徐福伝説も固定化するかもしれません。
驚いたことに、後醍醐天皇の忠臣である秦武文(はだのたけぶん)も羽田家の祖先だそうです。寝屋川市の秦川勝墓所には正六位上兼右近衛府生秦武文と刻まれた石塔があるので、彼も秦川勝の流れに連なった人物とわかります。
以前にも書きましたが、後醍醐天皇の一宮である尊良親王は元弘の乱の失敗で土佐に流され秦武文は一宮の御息所(みやすどころ)を土佐へお連れしようと尼崎から船出しようとします。しかし、御息所を松浦五郎によって奪われ、武文は腹をかき切って自害する羽目に…。親王の没年は1337年なので、この伝説的な話はそれ以前のものと思われます。だとすれば1330年代前半の、武文が自害する以前にできた子供の子孫が秦幸清になったと考えられます。
他にも信濃国には土佐と関係する秦氏系の人物がいます。信濃にいた秦川勝の後裔秦能俊(家系がどう秦川勝に繋がるかは不明)は、保元の乱(1156年)において崇徳天皇に味方して敗北。敵の追及を逃れるため信濃から土佐長岡郡宗部(そかべ)郷(現南国市)へ移住しました。能俊は長岡郡宗我部村岡豊山に城を築き、長岡郡宗我部村の地名を取って長宗我部と名乗るようになったのです。
新開氏の一派はいつの頃か四国に移住し細川氏の配下になります。三好氏が細川氏を倒すと新開道善は三好方につき、牛岐城(うしきじょう)を拠点としました。彼は阿波を狙っていた長宗我部元親に敵対したのです。秦氏の子孫同士が戦うとは何の因果でしょう?ちょっと不思議ですね。
長宗我部元親は三好氏の勝瑞城を陥落させ、和議と称して新開道善を丈六寺に誘い出し、道善を謀殺。丈六寺の血天井が当時の歴史を物語っています。まあ、本当かどうかはわかりませんが…。
丈六寺に関しては以下を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%88%E5%85%AD%E5%AF%BA
四国における新海姓をチェックしたところ以下のようになりました。
阿波国の徳島県:全体数98人。徳島市21人、秦姓が多い美馬町16人。
香川県:全体数106人。高松市36人、讃岐市28人、多度津17人。
他県の人数は少ないので記載しません。徳島と香川が拮抗しているのには何か意味がありそうです。
ここまで書いてあれっと思ったのですが、信濃秦氏の系統は四国と縁が深いようです。その理由を追及すると何かが出てくるかもしれません。でも、四国まで行くのは難儀ですね。
長久保宿の近くには、京都の松尾大社の分霊を勧請した松尾神社が鎮座しています。祭神は大山咋命。こんな場所に松尾神社が鎮座しているのは秦氏の関係としか考えられません。所在地:長和町長久保字宮所791
神社の詳細は以下を参照ください。
http://aidu.konjiki.jp/nagano/nakasen/nagakubo/matu.html
信濃国における秦氏は次のように纏められます。
始皇帝…弓月君…秦酒公…秦川勝―秦広国
波田町の秦氏:秦広国…巨勢氏と婚姻?→波多腰氏
長和町和田の秦氏:秦広国…秦武文…秦幸清―羽田武久or羽田吉久?…羽田貞義―羽田武嗣郎(三男)―羽田孜―羽田雄一郎
佐久の秦氏:秦広国…新開荒次郎忠氏…阿波国へ…新開道善
長宗我部流秦氏:秦広国…秦能俊(長宗我部能俊)詳細は以下のホームページ参照。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tyoso_k.html
以上、秦の始皇帝から弓月君、秦川勝、秦広国へと続き、様々な変遷を辿った信濃国秦氏の動きを書いてみました。まだまだ内容に不十分な点もあり、訪問していない場所も多くあります。いずれもっと詳しく調べたいと思っています。
「信濃国の秦氏」はこれにて終了とします。
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