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異世界無双には向かない国民性 作者:中村 颯希
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0.プロローグ

「ターロ、伏せて!」


 巨大な満月が浮かぶ夜の森に、少女の鋭い声が響く。


 俺は考えるよりも早く、「ひっ」と声を漏らしながらカエルのようにその場に五体投地した。

 同時に、ごっ、という風の唸りとともに頭上を熱が通過する。


 生臭い炎。

 目の前の巨大な獣が吐き出したそれが、間違いなく殺傷能力を持っているのだと理解すると、全身から冷や汗が噴き出した。


「な……な、なな……なんだよ、これ……っ」

「だからフェンリルだって言ってんでしょ! ほら、息を吸いだしたわ! また来る、避けて!」


 震える問いを一喝するのは、燃えるような赤銅色の髪が特徴的な美少女――アメリアだ。


 小麦色の肌に、猫のような釣り気味の翠の瞳。

 鉄製の胸当てが、むしろ艶めかしい体つきを強調しているかに思える彼女は、これが二次元の話ならきっと俺の好みのタイプだが、現実の彼女は、物騒な長剣を握りしめたまま、一切の萌え要素を粉砕する勢いで舌打ちするだけだった。


「かなり大きいわね……真珠(パール)級どころか、珊瑚(コーラル)級かも」

「その単位、全然レベル感がわかんねえんだけど!」


 びくびくと地面にうずくまりながらも、パールだとかコーラルだとかの耳慣れない単位に思わず突っ込んでしまうと「ぼさっとしないで!」と怒鳴られた。

 ついでにアメリアはもうひとつ舌打ちをかまし、


「とろいやつね!」


 語尾の「やつ」の辺りで、思い切り俺の身体にアタックして、その勢いで湿った地面を転がっていく。

 俺は、生まれて初めてのしかかられた女の子の重みに感激する暇もなく、「ぐえっ」と悲鳴を上げた。痛い。


 が、直後に、先ほどまで俺のいた地面が音を立てて抉れていったので、きっと俺はアメリアに感謝すべきなのだろう。


「アメリア。このフェンリル、いくつかの魔術に耐性を持っているようだ。先ほどからいくら聖言を唱えても、一向に鎮静系の術が効かない」

「アメリアさん! このフェンリル、どうも様子がおかしい……! 苦しがっているみたいです!」


 みっともなく這いつくばっている俺の頭上から、さらにふたつの声が響く。


 凛と張った声の持ち主は、白っぽいローブに身を包んだ、金髪碧眼の、こちらも美少女。

 いや、彼女の場合、美少女というか女神めいた領域の美貌だ。

 陶器みたいな白い肌に、金糸のような髪。それになんと、とがった耳を持っている。

 いわゆる、エルフ。


 そしてもうひとり、少し甘い声の持ち主は、ふわふわの亜麻色の髪に、チョコレート色の瞳を持った、かわいらしい女の子。

 しかも彼女の頭上には、髪と同色の、三角形の耳が生えている。

 これがどういうことかわかるだろうか? つまりあれですよ。獣耳。


 今、俺の周囲には、強気猫目系美少女と、クールなエルフ美少女と、キュートなケモミミ美少女がいるわけだ。これってかなり、男のロマンな状況だと思う。


 命の危機でさえなければ。

 命の危機でさえなければ。


 ――ごっ!


「うわあああああ!」


 重要なことなので二度言ったが、フェンリルとかいう巨大な狼の魔物は、絶賛俺たちに向かって攻撃中だ。

 やつが息を吐けば、たちまち土は音を立てて焼き抉られ、やつが獰猛な爪を振り回せば、やはり周囲の木々は音を立ててなぎ倒される。


 日本では、いや、留学中のイギリスでだって遭遇したことのない、まぎれもない命の危機に、俺の心臓は先ほどから爆散しそうだった。


「おい、ターロ。おまえ、先ほどのスペルをもう一度使ってみろ」

「へ!? ス、スペスペスペ、スペル!?」

「昼に蛇を『制止』させたときに叫んだ言葉がありましたよね。あれです! ターロさん、叫んでください!」


 緊張のあまり盛大に舌を噛む俺に、エルフ美少女――エルヴィーラと、ケモミミ美少女――マリーが、早口で言い募る。

 俺は混乱しながらも、彼女たちが言う「スペル」とやらを、思い切り叫んだ。


「ウェ――ウェイト……!」


 Wait.

 “待て”。


 なんてことはない、単純な英語の一単語だ。

 だが驚くべきことに、こちらの世界(・・・・・・)では、異世界人の唱える英語が魔法を展開させるのだという。

 実際先ほど、この単語が猛毒を持つ蛇を「制止させ」た場面に、俺はたしかに立ち会った。


 信じられないが、本当にここ(・・)は、そういった魔法とやらが実在する世界なのだ。

 かつ、俺は発話ひとつで、その奇跡の力を行使できる、「スペル使い」という希少な存在らしいのだ。


「ウェ……ウェイト! いや、ウェイ!? ウ……ウェーイ!」


 ただし、そのスペルが発動するにはひとつだけ厄介な条件があって、それというのが……「ネイティブな発音でなくてはならない」。

 なんとジャパングリッシュなカタカナ発音では、世界が「wait」のスペルを認識してくれないというのだ。スマホの音声認識機能かよ!


「ウェイト……! くそ! ウェイトだっつってんだろ! ウェイトゥ! ウェーイ! ウェイ、ウェイ――Waitッッッ!」


 発音を探りながら、必死に叫びつづける。

 そのうちのどれかが満足水準にかすったようで、フェンリルの身体に光の輪がしゅんっと絡みつき、毛むくじゃらの巨体が一瞬、動きを止めた。


「やった!?」

「いや……だめだ。やはりこのフェンリル、すでに制止系の魔術も破った経験があるようだ」


 どうも魔術というのはウィルス的なものなのか、一度それを克服すると、魔物のほうに免疫のようなものができるらしい。

 フェンリルがぶわっと体毛を逆立たせると、それに圧し負けたように光の輪がぱきんと粉々に砕ける。

 凶暴な魔獣はますます巨躯を伸びあがらせて、大きく息を吸い込んだ。


 ――ごおおおおっ!


 先ほど以上に激しい炎が、周囲の木々を焼き払っていく。


「ひいいいい!」

「ち……っ!」

「きゃあっ!」


 俺は情けない絶叫を、アメリアとエルヴィーラは悪態を、そしてマリーは可憐な悲鳴を上げ、おのおのじりっと後退した。


「私の剣じゃ対フェンリルには向かない。エル、思いつくすべての魔術をぶつけて、足止めして! マリーはその鈍くさい異世界人を立たせて。全力で退却!」

「鎮静も制止も効かない魔物に、これ以上私が唱えられる呪文などない!」

「に、逃げるといっても、どっちの方向に……!?」


 リーダーのアメリアが声を張り上げるも、即座にふたりから反論と問いが返る。

 ひとたびフェンリルが息を吐き出せば、その方角は余すことなく焼き払われる現状。逃げ場などなかった。


「ひ……っ!」


 ぐる、と唸りを上げて近付いてくるフェンリルに、俺は思わず腰を抜かしてしまう。


 一抱えもある巨大な頭。獰猛な爪に、鋼のような体毛。

 目の部分にはゆらりと黒い炎が踊り、鋭い牙の並ぶ(あぎと)からは、ぼたぼたと悪臭を放つ涎が滴る。


 単純な殺意と、危機。

 それだけを感じた。


「ちょっと、ターロ! 腰を抜かしている場合!? 立ちなさい!」

「だ……だって……!」


 東京育ちの現代日本人は、通常サイズの狼どころか、野良犬にさえ遭遇したことがない。

 それをいきなり、こんなよくわからない世界に放り込まれて、わけのわからない魔物とかいう存在に襲われて、しゃんと立っていろだなんて無理な話だ。


 俺は血走った目を見開き、冷や汗をだらだらと流しながら、ただ、石のように固まってフェンリルを見上げていた。


「た……助けてください……っ」


 口をつくのは命乞い。

 いや、英語のほうが「効く」可能性があるのだと気付いて、思いつく単語をとにかく並べた。


「ヘ……ヘルプ……! ヘルプ・ミー。ドント、キル……ドント・キル・ミー!」


 心臓がうるさい。

 フェンリルが激しく尻尾で地を叩き、ぐおおおおっ咆哮を上げる。


「ひっ、止め……! ス……ストップ!」


 どうすればいい。

 どうしたら助かる。


 俺は泣きそうになりながら発音を探った。


「ストーップ! ス……スタップ! スタァップ!」


 って、これじゃ細胞の名前だよ!


 stopはどうやら俺にはうまく発音できないらしい。

 ならば、なにならいい。


「ウェイト……ストップ……ハ、ハウス!」


 犬かよと我ながら思うが、そんなことを突っ込んでいる時間すらない。

 まるで獲物をいたぶるように、炎を吐くのをやめ、ゆっくりと顔を近づけてきたフェンリルに、俺は狂ったように叫びつづけた。


「ハウス! フェンリル、ハウス!」

「ちょっと、なにしてんのよ! スペルは諦めろっつってんでしょ! 立て、そして走れ!」

「ハウス……ハウスもだめ……くそ、お手はなんだっけ……違う、それよりお座りだ……」

「ターロさん!」


 アメリアやマリーが呼びかけるが、それすらも耳に入らない。

 俺は恐慌状態に陥ったまま、声を張り上げた。


「お座り! シ……シット! シットだ!」

「ちょっと!」


 魔術の行使には、想像力が不可欠らしい。

 それなら俺の得意とするところだ。


 フェンリルがその牙を納め、従順にしゃがみこむところを思い描く。


 頼む。

 どうか、殺さないでくれ。お座りしてくれ。


 どうか――!


「シット・ダウゥゥゥゥン!!」


 俺が渾身の力で叫んだとき、



 ――予想もつかない事態が起こった。

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