ミュージシャンのコーネリアスこと、小山田圭吾ですけど。
雑誌のインタービューによりますと、彼は、和光大学付属の小・中・高校時代に、いじめる側の生徒だったようです。
「ロッキンオン・ジャパン」(1994年1月号。編集長は山崎洋一郎)の小山田圭吾2万字インタビューによると、
「あとやっぱりうちはいじめがほんとすごかったなあ」
●でも、いじめた方だって言ったじゃん。
「うん。いじめてた。けっこう今考えるとほんとすっごいヒドイことしてたわ。この場を借りてお詫びします(笑)だって、けっこうほんとキツイことしてたよ」
●やっちゃいけないことを。
「うん。もう人の道に反してること。だってもうほんとに全裸にしてグルグルに紐を巻いてオナニーさしてさ。ウンコを食わしたりさ。ウンコ食わした上にバックドロップしたりさ」
●(大笑)いや、こないだのカエルの死体云々っつってたけど「こんなもんじゃねえだろうなあ」と俺は思ってたよ。
「だけど僕が直接やるわけじゃないんだよ、僕はアイディアを提供するだけで(笑)」
●アイディア提供して横で見てて、冷や汗かいて興奮だけ味わってるという?(笑)
「そうそうそう! 『こうやったら面白いじゃないの?』って(笑)」
●どきどきして見てる? みたいな?
「そうそうそう!(笑)」
●いちばんタチ悪いじゃん。
「うん。いま考えるとほんとにヒドイわ」
とのこと。
このインタビューを読んだ村上清というライターが、その後、雑誌『クイック・ジャパン』vol. 3号(1995年8月・51-72頁)にて、「村上清のいじめ紀行」という記事を書きます。記事によれば、”いじめってエンターテイメント”ということらしく、
いじめた側の人がその後どんな大人になったか、
いじめられた側の人がその後どうやっていじめを切り抜けて生き残ったのか、
という興味から、いじめた人と、いじめられた人との対談を企画します。しかしこの対談は実現せず、小山田圭吾への個人インタビューとなります。
リンク先には「村上清のいじめ紀行」の全文が掲載されていますが、虐待の生々しい描写や差別的言葉があるため、閲覧には注意してください。
小山田の発言から、うかがえるように、いじめられているのは、何らかの障害のある生徒ですね。
黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』には、障害のある子供とトットちゃんの心温まる交流が描かれていましたが、現実とはこういうものかも知れません。
和光大学付属というのは、障害児教育に熱心な学校のように思いましたが、表に出てくるのは美しき理想ばかりで、実際はクソガキどもの、おろかな偏見を取り除くこともできず、そういう意味ではこの記事は障害児教育を考え直す貴重な資料となるでしょう。
こういうことを悪びれることもなくしゃべる、小山田圭吾という人物の品性とは何か、と思うわけですが、性格破綻者の芸術家というものは、たしかに存在するだろうが、私生活がどうであれ、アーチストにとって作品がすべてだというそういう考えも、一応は了解しますが。
本当にそうなのだろうか。
こういう人物が作る音楽が、本当に、人を感動させることがあるのだろうか。
それでも彼の音楽が、多くの人を感動させているのだとするなら、そもそも、音楽とは何か? 芸術とは何か? ということを、おれは問うてみたいわけです。
【追記】
これは私がやっていた旧ブログの中でもっとも反響のあった記事である。内容は雑誌『クイック・ジャパン』3号(太田出版)掲載の小山田圭吾インタービューを紹介したものである。
べつに知られざる逸話や稀書の発掘というものでもないし、この雑誌はそこそこ売れていて現在も入手可能であるから、なぜこんなに反響があるのか不思議に思っていた。小山田圭吾のファンなら当然このインタビューを知っていて、彼がこういう人格であることを知ったうえで、なおかつ彼の音楽を愛聴しているものだと考えていたからである。であるから、マスコミが「渋谷系」などといい、おしゃれで知的な音楽というイメージを振りまくのを私はずっと冷笑してきた。
世の中には、自分の悪趣味や鬼畜ぶりを誇示したい人間もいるらしく、旧ブログには、小山田を擁護するコメントが寄せられた。私もできる限りそれに応答してきた。しかし書き込みをする敵の数は多いがおしなべて知的レベルが低いのであまり実のある議論とはなっていない。
教養もないくせにプライドだけは高い者ほど、芸術や音楽について訳知り顔に語りたいらしい。しかも「感性」だの「センス」だのと言えば、こちらが恐れ入ると思っているのだから始末が悪い。
私はなにも高尚な芸術談義をするために、この記事を書いたのではない。私はただ当たり前のことを述べているだけである。それさえ理解できないというのは、相手の知的レベルの問題だけではなく、本質的にはおそらく芸術観、人間観のちがいであろう。彼らには、音楽よりも大切なものがある、ということさえ理解できないのだ。
最後に、G・K・チェスタトンの言葉を引用しておく。
koritsumuen.hatenablog.com平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。
人間そのもののほうが個々の人間よりはるかにわれわれの畏怖を引き起こす。権力や知力や芸術や、あるいは文明というものの脅威よりも、人間性そのものの奇蹟のほうが常に力強くわれわれの心を打つはずである。
あるがままの、二本脚のただの人間のほうが、どんな音楽よりも感動で心をゆすり、どんなカリカチュアよりも驚きで心を躍らせるはずなのだ。
G・K・チェスタトン『正統とは何か』(春秋社・73ページ)安西徹雄訳
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