24.シャバの「恋」は難しい(3)
アナの身体は、陽光を弾きながら、清々しいほどに吹き飛ばされてゆく。
ちなみにその際、ルーカスもまたノールックで己のマントをアナの軌道上に投擲し、舞台に落下する彼女をフォローした。
そのさりげなさときたら、もはや伝説級だ。
鐘が鳴り終わり、しんと静まり返った舞台上で、両者は何ごともなかったように見つめ合っている。
エルマは、風圧でずれた眼鏡の位置を直そうとして、しかしそれを、ルーカスに奪い取られた。
「あ……っ」
「おい、おまえ――」
「見ないでください……っ」
エルマは素早く顔を逸らそうとする。
けれど、ルーカスの力強い指が、その顎を捉えた。
「よく、見せてみろ……」
低く掠れた、静かな声。
色気を含んだ甘い命令に、会場の空気が一気にそれっぽいものへと変わってゆく。
それを肌で感じ取ったイレーネは、冷や汗を浮かべた己の額を、無意味に撫でた。
「え、ちょ、なんか、今ラブロマンスを演じてる場合じゃないようなことが、起こった気がするんですけど……っ? なんかこう、国家危機的なアレが、起こったような気がするんですけど……っ! 流しちゃっていいの!?」
「大丈夫。国家危機は、エルマエル様のワンパンによって回避されましたわ。それにしても、理想的な軌道を描いて、爽やかに吹き飛んでいったアナスタシア嬢もお見事……。第三使徒の座に、彼女を迎え入れてもよいかもしれませんわね」
「ねえ、あなたそれでいいの!? っていうか第三使徒ってなに!?」
「しっ、お静かに、第二使徒のイレーネさん。ここが正念場ですわよ」
ツッコミどころ満載な制止をされ、イレーネは目を白黒させたが、結局は彼女も口を引き結んで見守り態勢に戻った。
見れば、観客たちも皆、
彼らは今、国王暗殺よりも数段緊迫した事態を前にしたかのように、全神経を集中させて、舞台上のエルマたちを見つめていた。
「見ないでください……。今、私、……きっとひどい顔をしています」
「なぜ?」
密やかに囁きながら、くい、とルーカスがエルマの顎を持ち上げる。
彼女の夜明け色の瞳は潤み、頬は淡く紅潮していた。
「だって……、私、……おかしいのです。殿下にパーソナルスペースを侵されると、いつも涙液が過剰分泌され、心拍および血流速度が上昇し……大頬骨筋や上唇挙筋の制御も乱れ……、まるで……」
「まるで?」
間違いなく恋の表情を浮かべているエルマに、ルーカスの全身が期待で沸き立った。
長い指で、露わになった頬骨のあたりを、そっと撫でる。
エルマはびくっとして身をよじりかけたが、彼は腰に腕を回してそれを引き戻した。
「エルマ。まるで、それはどんな顔だ……?」
「まる、で……」
エルマはぐっと唇を噛み、いよいよ耳まで赤く染めて俯いた。
「まるで、イヤラシい涙を流す発情した
「おい今度はこいつに誰がなんの本を読ませたあああ!」
ルーカスがばっと振り向いて絶叫したので、イレーネとデボラは、さっと視線を逸らした。
「違う! 違うだろう!? そこはそうじゃないだろう!?」
「違うのですか……?」
「いや! 最終的にはアリだが、アリなんだが、……アリなんだが……っ」
ルーカスはがっとエルマの肩を掴んだまま懊悩する。
騎士であっても、百戦錬磨であっても、彼もまた男であった。
言葉に詰まってしまったルーカスを見て、エルマはますます途方に暮れたように肩を落とした。
「教科書の表現を借りても間違いだというなら……私……もう、なにもわかりません……」
「なんだと……?」
頼りなげな言葉に、ルーカスが眉を寄せる。
エルマはすっかり俯いて、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「私……、最近、おかしいのです。監獄で、殿下に母を救ってもらったあたりから、なぜか、殿下のことばかり想起してしまい……。育休中も、毎日二十時間ほどバルたんを抱っこしていたわけですが、ふと殿下のことを思い出すと、手が震えたりもして……。もしやこれがいわゆる、会いたくて震える現象かと思ったのですが……」
それは単なる腱鞘炎ではと思ったが、誰もがそのツッコミを差し控えた。
「殿下のことを考えると、なぜか顔が強張り、呼吸が不自然になり……。自然でいよう、普通でいようと思えば思うほど、うまくいかず、結局、ぎこちない顔になってしまう……」
ルーカスが静かに息を呑む。
やたら平坦だった彼女の口調。表情を出さなかった彼女の顔。
それがもし、動揺を必死に押し殺した姿だったのならば。
「あ……」
同時に、二人を見守っていたイレーネも、あることに気付いて呟きを漏らした。
ぎゅう……と、強く弟を抱きしめ、その頬を
その瞳が潤み、眉が所在無げに下がっていると知った、今だからこそわかる。
彼女はルーカスを前に退屈していたのではない。
むしろ、心細くなった子どもがぬいぐるみに縋り付くように、あるいは母親の髪を引っ張るように、心の均衡を必死に取り戻そうとしていたのだ。
思えば、エルマがそうした行動を取るのは、いつもルーカスに冷ややかにあしらわれたときだった。
(鈍感なんかじゃない……むしろ――)
イレーネは、世界が反転したような衝撃を受け、無意識に胸のあたりの服を両手で握りしめた。
今、繊細で不器用な親友を、思い切り抱きしめてあげたいと思った。
視線の先では、エルマがバルドに縋り付いたまま、懸命に言葉を紡いでいた。
「なのに、殿下はといえば、半年ぶりに会っても平常運転……いえ、冷ややかというか……。むしろ開口一番、戻ってきてほしくなかったとばかりに怒鳴りつけられましたし」
――おまえ、今回の任務内容を知っていてなお戻ってきたのか!?
たしかに、二人が半年ぶりに再会したとき、ルーカスが一番に向けたのは笑顔でも抱擁でもなく、険しい顔での怒声だった。
「いや、それは、だな……」
素直に引いたほうがいい場面とはわかっているが、多少言い訳したくもなる。
ルーカスは苦し紛れに、過去のエルマの塩対応を持ち出した。
「冷ややかと言えば、おまえだって、『おまえがいなくて寂しい』という俺の手紙に対して、『承知しました』の一言しか返さず、弟の話ばかりだったではないか。俺があの時、どれだけショックを受けたと思う?」
「殿下が寂しいと仰るから、無聊を慰めるつもりでバルたんの秘蔵エピソードを披露したのではないですか! なのにそこから手紙も途絶えて、私こそ大ショックです!」
「そ、そうか……」
そして完璧なすれ違いを悟り、今度こそ撤退を決めた。
気勢を弱めたルーカスに、エルマはますます顔を俯けた。
「途絶えた手紙。会うなり怒声。しかも、再会して真っ先に殿下が触れたのは、私ではなくバルたんでした。それはもちろん、バルたんの可愛さを愛でるのは、全人類に備わった本能ではあるものの……。でも、イレーネの貸してくれた
それは明らかに教本が間違っているが、しゅんと肩を落とす今のエルマを、ルーカスはとても責める気にはなれない。
代わりに、彼は絶望の表情でイレーネを振り返った。
「イレーネおまえ……!」
「すみませんごめんなさいすみません! だってまさかこんなことになるなんて!」
「それで、やはり私は、殿下にとってあくまで『友人』でしかないと、確信した次第です」
イレーネは舞台の床に額をぶつけんばかりに頭を下げたが、それをよそに、エルマは「ですが」と拳を握った。
「このまま引き下がっては、母と【嫉妬】のお姉様の沽券にかかわります。諦めたらそこで試合終了。となれば、ここは粘るしかないと、数日前の私は考えました」
「は……?」
突然風向きの変わった話に、ルーカスが目を点にする。
エルマはそれをどう受け取ったか、拗ねたように視線を逸らした。
「ですから、まずは殿下を尋常に、その……、デート、に、誘おうと思ったのです」
「デート」
「ええ。なにせ私ども年頃の娘は、隙あらばデートをしなくてはならないそうで。『王都の見どころガイドブック』なる本によれば、エストワ庭園なる場所で想いを誓い合うのが『普通』なのだそうです」
「想いを」
あまりに信じられない単語が次々飛び出てきて、ルーカスはぽかんとそれを繰り返す。
すぐ足元まで押し寄せてきている喜びの波。
だが、あまりにも自分に都合がよすぎて、それに身体を浸してよいものかどうか、慎重になっているかのようだった。
イレーネもまた、「エストワ庭園」の名を聞いて、あっと声を上げた。
「そう。そういうことだったの。だから――」
その横で、デボラは「ようやくわかったか」と言わんばかりに、小さく肩を竦めていた。
「ただ、その庭園でデートを実践するためには問題があって、……エストワ庭園は貴族専用の庭園であるので、貴族の身分が無いと、入場できないのだそうです」
「…………!」
「なので、我ながら馬鹿らしいとは思いつつ、どうしても、どうしても、……騎士爵位が欲しかった。公式で、『普通』の身分が。バルたんのためはもちろん、……自分のためにも」
――私、きっと立派に任務をこなしてみせます。こなしたいのです。
――今度は、自分自身の欲しいもののために。
あのとき、真剣な様子で告げていたエルマの姿が蘇る。
ルーカスは、それに対して自分がどんな態度を取ったかを思い出し、己の頬を全力で殴ってやりたいような衝動に駆られた。
(ばかか、俺は……!)
いや、さすがにあの流れですべてを読み取れというのは無理難題とも思えるが――それでもあのとき、彼の欲しかったものは、すぐ目の前にぶら下がっていたというのに。
「なのに」
とうとう、エルマがくしゃりと顔を歪めた。
「私がそれに向けて努力すればするほど、殿下は冷たくなられます。ここ数日、視線も合わせてくださらなかった」
「す、すまない――」
「ただでさえ、殿下の前では『普通』でいられなくなるというのに……。『普通』の表情も繕えず、『普通』のデートも実現できず、この感情を、教科書に従って『普通』に表現することすらままならずに……『さっぱりわからない』とか、……『鈍感』……挙げ句、そうこうしているうちに、カロリーネ様との婚約話……」
「すまない。すまなかった!」
もはやルーカスは青褪めている。
エルマは込み上げるなにかがあったのか、夜明け色の瞳をじわりと潤ませた。
「も、……つらい」
「なにもかも俺が悪かった! だから泣かないでくれ!」
エルマが放った「つらい」のたった三文字の前に、ルーデン一の色男は、その場で勢いよく無条件降伏した。
好いた娘、それもこんなに可憐な少女に弱々しく涙を浮かべられて、平気な男などいるものだろうか。いやいない。
少なくともルーカスは、史上最大の罪悪感に打ちのめされた。
なんだってあの眼鏡は、こんなに素直で愛らしい感情を、こうも見事に覆い隠してしまっていたのか――いや、それを読み取れなかった自分が悪い。もうそれでいい。
ルーカスはそう結論付けて、俯いたままのエルマに顔を寄せた。
「頼む。説明させてくれ。俺が昨夜カロリーネ嬢に接触したのは、選考会で不正を働いているのではないかと疑ったからだ」
「な……っ」
早口の弁明には、エルマではなくカロリーネが反応する。
彼女は動揺を隠せぬ様子で、口をぱくぱくさせた。
「たとえば二日目、彼女は手袋を持参するなど、やけに用意周到だった。最初はそれこそ義兄上の差し金……サクラだからかと思っていたが、義兄上は知らなかったという。では、独自に課題を事前入手しているのかと踏んで、伯爵家を密かに探り始めた」
その内容に、観客がざわつく。
選考会課題の入手。
それ自体が重大な違反であるし、いかにも贈収賄やほかの余罪にも繋がりそうな、大事件だ。
もしやこれを機に、伯爵家についての長期の取り調べが始まることになるかもしれない。
しかし、当のエルマはといえば、それにはさして興味を示さず、顔を俯けたままだった。
「ファイネン家が、一部の商家を手駒にして、ときどき王城の機密書類を拝借していることくらい、伯爵のお顔を拝見すればすぐわかるではありませんか。そんな調査を言い訳になさるなんて……」
「ええっ!」
取り調べどころか、三秒で真相を解き明かされて、観客たちが再度ざわめく。
だが、ルーカスはまるで動じず頷いた。
「おまえの言う通りだ。ただ、その時の俺は、背後関係まで明らかにすることで、選考会を操作、あるいは中止できるかもしれないと思った。そこでカロリーネ嬢には、手袋を口実に訪問して、最終課題をどう予想しているかを聞きに行ったんだ」
しかし、カロリーネは最終選考の課題を正しく把握できていなかった。
それを見てルーカスは、すでに伯爵家は商家と決裂していること、少なくとも伯爵家が実行犯ではないことを理解したのだ。
決裂の原因は恐らく、選考会二日目で、商家の娘が落選してしまったことだろう。
つまり主犯は、二日目まで残った商家のほうだったのだ。
「ファイネン伯爵家の件はそれでいったん調査終了としたが、そのとき思ったんだ。王妃選考会で残った少数の候補者の内、二人もが不正に関与していたのは偶然だろうかと。もしや義兄上は、選考会の場を使って、怪しげな家臣を一斉にあぶりだすつもりではなかろうかと」
「ええっ!?」
突如として政治ドラマの様相を帯びてきた選考会の真実に、観客たちは戸惑いの声を上げた。
だが、エルマはやはり驚きもせず、弱々しく首を振るだけだった。
「それは私だって、弱小属国であるエスピアナの候補者を迎賓館に招き入れている時点ですでに、ロドリゴ聖侯爵あたりを怪しんでいらっしゃるのだろうなとは思いました。ですが、それが殿下のここ最近の冷ややかさと、どう関係があるというのでしょう」
「えっ!?」
「ああそうだな。ロドリゴ聖侯爵は王位を簒奪された恨みで、フェリクス義兄上の暗殺を企む反逆者のようだが、たしかにそれは俺の態度とはなにも関係ないな。悪かった」
「ええっ!?」
「そうですよ。いくら聖侯爵が、安価に暗殺者を仕入れたいがために、寒村から少年少女を誘拐洗脳してきている大悪党だからといって、殿下の仕打ちが軽減されるわけでもございません」
「えええっ!?」
「ああ。いくら聖侯爵がルーデンへの憎悪を植え込もうとするあまり、ルーデンの本来課した率より過大な重税を寒村に強いて搾取しているとはいえ、それとこれとは別問題だ。どうか、許してくれないか」
「ええええっ!?」
観客たちは、ルーカスとエルマから次々もたらされる重大情報に、ラリーを見守るかのように首を左右に振った。
フェリクスですら、さすがに顔を引き攣らせている。
「こ、こんな痴話げんかの片手間みたいに解き明かされていい事件じゃない気がするんですけど……! 進行が雑すぎるわ!?」
「殿下も、だいぶいい感じに仕上がってきましたわね……」
イレーネが冷や汗を浮かべれば、さしものデボラも神妙な顔で唸る。
対エルマで最も常識的であったはずのルーカスは、今や、二国間の国交を揺るがすような重大事件すら全力で擲ち、エルマだけを見つめていた。
「なあ、頼む。顔を上げてくれないか」
「…………」
「おまえにまだ、きちんと伝えられていない言葉があるんだ」
囁く声は、低く、甘い。
観客たちは、良識に則り「そんな場合じゃないだろ!」と突っ込むべきか、本能に従いこのまま二人の恋路を見届けるべきか、大いに悩んだ。
ルーカスは再び腕を上げ、エルマの滑らかな頬にそっと掌を添わせた。
「なあ、エルマ。五秒でいい。選考会だの、聖侯爵の頭の悪そうな陰謀だの、弟だのをすべていったん横に置いて、俺だけを見てくれ。いいか、俺は――」
唇が、吐息がかかりそうなくらいの距離に近付いてゆく。
観客のうち、ある者は頬を紅潮させ隣人の肩をばんばん叩き、またある者は目を覆った両手の隙間から爛々と目を輝かせた。
人々の喉を鳴らす音が会場中に響き渡る、それほどの緊張感――。
しかし、
「い……言いがかりですぞ!」
極めて重大な言葉が紡がれるより早く、しわがれた男性の声が一同の耳を打った。