23.シャバの「恋」は難しい(2)
「ありゃ。もうお昼だ。思いのほか時間がかかっちゃったなぁ」
少し離れた場所でフェリクスが呟いているが、それも掻き消してしまうほどの鐘の音だ。
観客たちもうるさそうに耳を押さえているのが見える。
本当は、鐘が鳴る前までに選考会を終わらせ、この場を去る予定だったのだろう。
(頭が割れそう……っ)
アナも強く両耳を押さえて、思わず体を折り曲げた。
心臓を素手で掴んで揺さぶってくるような、全身を震わせる音。
頭から爪先までを、痺れるような刺激が走り抜け、とても真っすぐ立っていられない。
頭の中が白く弾け、そこを暴力的な音が埋めてゆく。
うわん、うわん、と奇妙な音が反響する脳内で、アナはぼんやりと思考を振り返った。
(あたし……なにを、考えてたんだっけ……?)
――ガラァー……ン!
また鐘が鳴る。
正午を告げるまで、あと十回鳴るのだろう。
反復する金属音。
まるで、髪飾りに付いた鈴のよう。
けれど、あのささやかな音色よりも、もっともっと強く、重い。
(なにをって、そりゃ……そうだ、考えることなんて一つしかないじゃないか。王を、殺す……そのために、あたしはここにいるんだ)
鐘が鳴るたびに、全身を強く殴打されているかのようで、アナは無意識に呻いた。
耳を押さえていた手で、そのままぐしゃりと髪を押しつぶす。
――ガラァー……ン!
(王を……殺す。エスピアナを搾取し、ロドリゴ様を臣下の身に貶めた、忌々しいルーデン王を、殺す……)
でもなぜだろう。
いつも、鈴の音を聞きながら意志を固めるときは、あんなにも集中できたのに、今は、なにかが引っ掛かる。
それは喉元までせり上がり、膨張して、アナの心を搔き乱した。
苦しい。
汗が止まらない。
体の内側で、なにかが「違う!」と吼えている。
「……ぅ、ぐっ」
せっかく整えた髪が、化粧が、乱れてゆく。
この数日で体幹を鍛え、見違えるほど美しくなった立ち姿も、体を折り曲げた今では見る影もない。
十二時を告げる鐘の音に蹂躙され、手に入れた輝きを手放してゆく様は、まるで魔法の解けた灰かぶりのよう。
だが、それを自覚する余裕も、今のアナにはなかった。
――ガラァー……ン!
なにが引っ掛かっているのだろう。
なにに引き留められているのだろう。
胸の内で暴れる殺意。
これに身を委ねてしまえば、きっと楽になれるのに。
静かな賛辞を紡ぐ誰かの唇。まっすぐな眼差し。
何度もこちらを握り締めてきた、ほっそりとした手。
そんなものが、途切れ途切れに浮かんでは、アナの心を搔き乱す。
(殺、す……違う、間違っている……いや、殺す……殺す……!)
鐘の音が重なるごとに、フェリクスに襲い掛かる衝動は強くなってゆく。
アナは、相反する意志に引き裂かれそうになりながら、必死に己の身体を抱きしめていた。
「もしこの婚約話の根拠が昨夜の訪問ということなら、まったくの筋違いというものです。俺はカロリーネ嬢に、あくまで騎士として手袋を届けに行っただけなのだから。……くそ、鐘の音がうるさいな」
「ほんと、よく聞こえない。でもまー、君みたいな男が未婚の女性の部屋に忍んでいったらさ、やることなんて一つなんじゃないのー? まあ、やるっていうか、ヤるっていうか」
「下世話な。女性の前です! もう少し言葉を慎んでくれませんか!」
もだえ苦しむアナの背後では、そんな彼女をよそに、引き続き侃々諤々の口論がなされていた。
ルーカスは苛立っているし、鐘の音はうるさいしで、ほとんど叫びあっているような形ではあったが。
ルーカスが声を荒げると、フェリクスはそれをせせら笑った。
「気にしなくていいんじゃない、別にー? だってエルマ、全然気にしてなさそうだし!」
彼が指さす方向を見れば、たしかにエルマは腕の中のバルドをじっと見下ろしたまま、相変わらずつんつんと頬を
眼鏡で覆われてしまい、表情は読み取れないが、その行動を見る限り、心ここにあらず、といったようにも受け取れる。
ルーカスは無言で天を仰ぎそうになったが、それをぐっとこらえ、「おい」とエルマに声を掛けた。
「誤解されても困るわけだが、なにかリアクションするなり、せめて議論に加わってくれないか。なぜおまえは、そう無関心なんだ」
「はい……? すみません、少々聞こえづらくて……」
「なぜ、そう、無関心なんだと、聞いている!」
鐘の音に負けないようルーカスが怒鳴ると、エルマはむっとしたように口を開いた。
「べつに、無関心などということはございません」
「なんだと? よく聞こえない!」
「無関心! なんかではないと! 申し上げました!」
思えば、エルマに怒鳴り返されるなど、滅多にないことだ。
だがそれで弾みのついたルーカスは、珍しく相手に深く踏み込んだ。
「そうか! なら、いい加減に弟を撫でまわすのをやめろ! ちゃんと、俺のことを見てくれ!」
どこまでもストレートな、そして余裕のない物言い。
色男としての権威を保ちたかったルーカスにとって、平時であればまず口にしない言葉だ。
びっくりして顔を上げたエルマに、ルーカスはなかばやけになって続けた。
「もう少し俺のことも考えてくれ! 視野に入れろ! もう何度おまえに気持ちを伝えたと思っている! 少しは学習してリアクションをしてくれ、ばか者!」
「ば、ばかって……!」
「こんな状況で告げるつもりはなかったが、もういい、壊滅的に鈍いおまえのために、もう一度だけ言うぞ! 目を見て、耳の穴をかっぽじってよく聞け!」
愛の囁きからはかけ離れた雰囲気だったが、腹を決めて、表情を隠している眼鏡を取り去ろうと手を伸ばす。
「いいか、俺は――」
「お待ちください!」
だが、その腕を、エルマ本人によって素早く掴まれた。
「……な、ぜ、だ!」
「なん、でも、です!」
ぐぐ、ぐぐぐ。
それでもなお眼鏡に触れんとするルーカスと、それを防ぐエルマの攻防。
両者の膂力は均衡し、結果、二人の手は触れあったまま空中でぶるぶると震えた。
「ナチュラルに眼鏡を外そうとしないでください! というか、無関心ってなんですか。なんだって殿下は、いつもいつも私のことを鈍いとかばかとか、そのようにおっしゃるのですか!」
「事実を端的に述べているだけだろう! というか待て、おまえはその認識のすり合わせを優先するのか? この場で? 今!?」
「とても重要なことです!」
珍しく、エルマが強く言い返している。
鐘の音に耳を塞いでいた観客たちは、二人が醸し出す緊迫した空気に、いつの間にか手を離し、身を乗り出しはじめた。
なにやら、王妃選考会よりもよほど重要な局面が突如訪れたようで、皆、無意識に喉を鳴らしてしまう。
汗を浮かべて蹲るアナの姿は、そのため、誰の視界にも入らなかった。
「お言葉を返すようですが、壊滅的に鈍いのはどなたですか!? その精悍なお顔に付いていらっしゃるのは、バルたんと同じく世にも美しいサファイアのような色をした節穴ですか!?」
「けなしているのか褒めているのかどっちだ!?」
「レトリックにいちいち囚われないでください!」
「おまえがなにを言いたいのかさっぱりわからん!」
両者の口調は、いよいよ激しくなってきている。
観客たちは、鼓膜を守る努力をすっかり放棄し、鐘の音の隙間から、なんとか二人の会話を拾おうと必死になった。
「これでも懸命に教科書を読み勉強しているのです! 頭ごなしにばかだとか、わからないだとか、心を折るようなことをおっしゃらないでください!」
「いったいなんの『勉強』だ!? おまえ、今度はなにを読んでどこに向かおうとしている!」
「ですから――」
応酬が苛烈さを極めるのと同時に、最後の鐘の音が高らかに鳴り響く。
エルマがバルドを抱く腕に力を込め、なにかを言い返そうとしたそのとき、
「――……っぁ、あああああああああ!」
とうとう、血走った目を見開いたアナが立ち上がり、素早くフェリクスに躍りかかった!
「…………!」
あまりに突然のことに、観衆たちは言葉も出ない。ただただ、目の前の光景をぎょっと肩を揺らした。
まるで時間を引き延ばしたかのように、ゆっくりと身をしならせる少女が見える。
髪はほつれ、目は爛々と光り、その姿はさながら、獲物に襲い掛かる獣のよう。
なにか針のようなものを握りしめた腕が、空気を切り裂くようにして、迷いなくフェリクスの喉元に掴みかかる――
「恐れ入りますが、今重要なお話をしておりますので、大人しくしていていただけます!?」
「あぶばっ!?」
――ドゴォ……ッ!
掴みかかると思いきや、バルドを抱っこしたままのエルマにノールックで振り払われた。