22.シャバの「恋」は難しい(1)
「ルーカスとカロリーネ・フォン・ハイネンの婚約を、阻止してくれる?」
「…………は?」
エルマもアナと同じく、言葉を捉え損ねたようである。
彼女には珍しく、「も……もう一度、仰っていただけますか?」と言葉を噛みながら問うと、フェリクスはうさん臭い笑みを貼りつけたままそれに応じた。
「うん、だからね。ルーカスとカロリーネ嬢に、婚約話が持ち上がってるんだ。というかまあ、持ち上げたのは僕なんだけど」
観客たちがざわめく。
ルーデン一の色男、王弟でありながら騎士であるルーカスは、貴族平民を問わず人気者だ。
そんな彼の婚約話は、下手をすれば、王妃が誰になるかよりも関心の的だった。
「カロリーネって……え、今敗退したばかりの……?」
「彼女が殿下の大ファンだっていうのは有名だけど、殿下の方には全然そんな素振りなかったじゃない……!」
「政略結婚ということ!? ひどい! 聞いてないわ!」
特に女性陣は衝撃を隠せない。
一斉に、ルーカスが座っているあたりに向かって、視線と質問、怒声が嵐のように飛び交った。
「本当なのですか、殿下!? てっきりエルマを狙っていて、かつ相手にされていないのだと思っていたのに!」
「さては、口説けないからと言って安牌に逃げたのですわね。試合は諦めたらそこで終了ですわよ」
イレーネはルーカスの胸倉を掴みあげかねない勢いで叫び、デボラも軽蔑したように吐き捨てる。
すかさず背後で、「そうよ、そうよ!」と女性陣が合唱したのを聞いて、ルーカスはわずかに顔を引き攣らせた。
どうやら周囲の反応は、「憧れの騎士が結婚してしまう」という嘆きによるものではなかったらしい。
「……俺の知覚品質は、いつの間にこんなに下がっていたんだ……」
「それで、実際のところどうなんです?」
「わたくしどもも初耳ですが、まさか本当にファイネン様との婚約に走ってしまわれたので?」
悲しげな声で呟くルーカスに、イレーネたちが息ぴったりに問い質す。
が、
「そんなわけがあるか。俺も初耳だ」
ルーカスはそう言って鼻を鳴らすだけだ。
ただ、初耳というわりには、なぜかその態度には余裕がある。
不思議に思った二人が口を開くよりも早く、ルーカスはさっと席を立ってしまった。
「義兄上がまたよからぬことを企てているんだろう。被害が拡大しないうちに、行ってくる」
そう告げて、すたすたと舞台へと降りてゆく。
そのあまりに堂々とした、そして滑らかな足取りに、観客たちはつい自然に道を開けてしまった。
「やけに落ち着いているけれど……殿下、のこのこ出て行ってしまって大丈夫なのかしら。これって飛んで火に入っているところではないの?」
「少なくとも、陛下は冗談を口にされているようでは、ありませんわねぇ」
イレーネたちはやきもきしつつ、付いていくのはさすがに憚られ、その場に踏みとどまる。
見れば、エルマは引き続きフェリクスの話に耳を傾けている。
どうやら、ルーカスの婚約話の詳細を聞いているようだが、相変わらず彼女の表情に変化はなかった。
「んもう、またバルドくんのほっぺをつんつんして遊んでるし……! この局面で、どれだけ弟ラブなのよ。やって来た殿下に向かって、さらっと婚約祝いとかしはじめないでしょうね……」
壇上のエルマを見守るイレーネは、そわそわと両手を組み合わせる。
しかし、それを聞き取ったデボラは、「あら」と片方の眉を上げた。
「ほっぺをつんつん? ならば、殿下には喜ばしいことですわね」
「は?」
意味を捉え損ねたイレーネは、眉を寄せて同僚を振り返る。そして、やけに訳知り顔で頷く相手を見て、ふとある事実に思い至った。
フレンツェルの娘、デボラ。彼女は、ヴァルツァー監獄の「ご近所さん」として、頻繁に育児中の獄内に訪問していたという。
つまり――ここ最近のエルマの様子については、彼女の方が詳しいのだと。
「ねえ、それってどういう――」
だがちょうどそのとき、舞台と繋がった鐘楼が高らかな音を奏でたので、イレーネは咄嗟に口を噤んだ。
いつの間にか、もう昼の鐘が鳴る頃だ。
普段は少し離れた王城の中から、澄んだ鈴の音のように心地よく聞いていた音色も、これだけの近距離だと、びりびりと心臓が震えるようである。
イレーネは顔を顰めてやり過ごし、それからようやくデボラを問い質そうとしたが、結局それはかなわなかった。
なぜなら、舞台の上では、それ以上の出来事が起こっていたからである。
「いやー、なにせ初めての王妃選考会だからさ、ぜひ初回にふさわしい盛り上がりをと思って、実はある程度、サクラっていうか、華やぎ要員を確保しておいたんだよねぇ。だって、王妃を募ったら応募ゼロでしたとか、照れるじゃない?」
舞台上では、フェリクスがエルマへの説明を続けていた。
「会の水準を引き上げる、
「……至極当然の結果かと」
「うーん、それでまあ、いい線まで残ったらルーカスと婚約してもいいよって言っちゃったんだよねー。そしたら、カロリーネ嬢ったら頑張る頑張る」
どこまでも緩い口調で語ってから、フェリクスは「でもさー」と軽く首を傾げる。
「よく考えたら、君とルーカスって、結構いい感じだったじゃない? 勝手にそれを引き裂いちゃうのって、ちょっとアレかなぁって。ほら、僕ってそういう部下の心の機微にも配慮する名君だからさ。そこで考えたんだよね」
狐を思わせる緑の瞳が、ふと光った。
「なら、エルマ。君にチャンスを上げようじゃないか、ってね」
「チャンス、ですか?」
「そう。君がルーカスの婚約話を気に食わないなら、阻止してしまえばいい。その機会を与えてあげるよ。妨害のやり方も、君が決めていいよ。どう、すごく優しいでしょう?」
だが、ルーカスとカロリーネの婚約を阻止してみせたとしたら、その時点で「王命を全うした」として、エルマにはフェリクスの妻となる未来が待っているわけだ。
かといって、王命を拒むつもりでなにもせずにいたら、ルーカスはカロリーネとまとまってしまう。
まるで悪魔がするような提案。
フェリクスの笑みは、エルマの反応を楽しんでいるかのようだった。
「さあ、エルマ。君の意志は?」
「――その前に、俺の意志はどこに行ったのでしょうね、義兄上」
とそのとき、低く耳触りの良い声が舞台に響いた。ルーカスだ。
客席から下りてきた彼は、長身を生かすようにして異母兄を見下ろし、目を細めた。
「婚約には、両親族と本人の承認が必要。少なくとも俺は、カロリーネ嬢との婚約話を聞いたことも無ければ、彼女へ好意を抱いたこともありませんが」
女性にけっして恥をかかせないと評判の彼にしては、かなりストレートな物言いだ。
好意を抱いたことがない、と言い切られて、舞台の隅に下がっていたカロリーネが顔を歪めるのが見える。
だが、ルーカスはそれを認識しながらも、あえて声を掛けることはせず、話を続けた。
「本人もあずかり知らぬ婚約話を、この選考会の最終課題とするのには、かなりの無理があるのではないですか? いえ、はっきり言います、迷惑だし不快なのでおやめください」
「なかなか言うようになったねぇ。でも承認ということなら、僕も君の親族だろう? その僕が承認しているからそこは問題ない。本人の承認という点については――」
突然の闖入者であるルーカスに動揺もせず、フェリクスは口の端を持ち上げてみせた。
「君が昨夜、迎賓館に寝泊まりするカロリーネ嬢のもとに訪れた、という情報を掴んでいる。未婚の女性の部屋を夜更けに訪ねる……それは、この貴族社会においては、婚約に前向きと受け取られても不思議ではないだろう?」
ルーカスは不服そうに片眉を持ち上げるが、否定はしない。
少なくとも、カロリーネの部屋を訪れたのは事実だということだ。
「昨日の養護院訪問時に落とした手袋を、届けに行っただけだとしたら?」
「うっかりで夜に女性の部屋を訪ねる君ではないはずだ。目的があると考えるのが当然だろうね」
「……まあ、それはそうですね」
「ほら。でしょー? こりゃもう婚約まっしぐらだ。ね、エルマ?」
旗色はルーカスの方が悪く見える。
エルマはといえば、フェリクスに水を向けられてなお、腕に抱えたバルドの頬をただくすぐるだけだ。
バルドが甘い声で「あうー」と笑うのを聞いて、それまで呆然とやり取りを見守っていたアナは、ふと我に返った。
他人の修羅場を眺めている場合ではない。
「――あの」
声を上げれば、フェリクスはぱっとこちらを振り返る。
「なあに?」
数年前とは異なり、かなり間近で見るその瞳は、意外にも翡翠のように美しかった。
だが、にこにことしたその顔は、仕込まれた微表情解読スキルをもっても読み取りづらく、彼を前にしていると全身に警戒感が満ちる。
言動は緩く見えても、その実、隙がない。
やはり、彼の急所に毒針を打ち込むには、今少し距離を詰める必要があるだろう。――そう、直接首飾りを授かるくらいにまで。
「私にも、そのような王命を下された理由を、ご説明願えますか?」
ここでしくじるわけにはいかない。
ロドリゴに危害を加えるなどという不愉快な命令を回避しつつ、いかにフェリクスにおもねるか。
アナは必死に思考を巡らせた。
「忠誠心を見せる――私が躊躇う課題を与える、ということでしたら、ほかにも選択肢はありえるはずです。髪を切るとか、この場で裸になるとか」
「え、君、そういう趣味なの? どうしよう、ドキドキしてきちゃった……」
「そんなわけはありませんが!」
ついペースを乱されかけて、声を荒げる。
アナは必死に感情を押さえこもうとしたが、フェリクスはその努力を踏みにじるような発言を寄越した。
「なぜ侯爵かって聞かれたら……んー、それはまあ、気に入らないから? 言うこと聞いてくれないしー」
あんまりな理由だ。
気まぐれで、身勝手。人を人とも思わない。
そのようなルーデン王の在り方に、アナは心底呆れた。
(ロドリゴ様はあたしを見下しているかもしれないけど、こいつはそれ以下だ)
やはり、こんな男を宗主国の王に戴いている限り、アナたちにけっして平穏は訪れないのだ。
拳を握りなおしたアナだったが、しかし、フェリクスの次の言葉を聞き、思わずその力を緩めた。
「特に、貧困対策とか、超無能ー。弱りきったところにパンをばら撒くんじゃ意味ないから、長期的かつ計画的に支援してねって何度も言ってるのに、貧困地域の洗い出しすらしないし」
「え……?」
つい、まじまじと、目の前の男を見つめてしまう。
間延びした口調の、惰弱そうな彼は、げんなりした表情で肩を竦めていた。
「もっとさー、いろいろあるはずじゃん。耐寒性の強い苗を開発するとか、三年おきに属国軍に全国行脚させて肥料を撒いてまわるとか。学校と養護院を整えて、無計画に子どもを産まないように教育したりとかさー」
紡がれる「貧困対策」は、やけに具体的である。
アナは強い違和感を覚えた。
(おかしい……)
だって、彼の話によれば、フェリクスは、
「なんのために、税率を軽減してやってるんだか。僕が即位したら、なるはやでテコ入れしたいと思ってたんだよねー。理由は以上。で、エルマ、君たちの話に戻るんだけど――」
フェリクスは説明を果たしたとばかりに、さっさととエルマたちの方に向き直ってしまう。
それと同時に、アナもまた、弾かれたように養父を振り向いた。
そして、彼の顔を見て、言葉を失った。
眉と下瞼を緊張させ、唇を左右非対称に歪めたその顔が告げるのは、不快、苛立ち、嫌悪。
一見した限りでは、フェリクスの発言が偽りだとして、非難の表情を浮かべているようである。
ただし微表情を叩きこまれたアナの目は、そこにもうひとつの感情を読み取った。
――焦り。
(なぜ、焦るの……?)
じわりと、心臓にいやな感触が広がった。
自分は今、とても重大ななにかに、気付こうとしている――。
しかしそのとき、
――ガラー……ン!
唐突に、すぐ近くから轟音が降ってきて、アナは思考を中断させた。
隣の鐘楼が、十二時を告げているのだ。