21.「普通」の美貌(5)
「陛下がわざわざ化粧品やドレスを用意してくださったのよ! それ以外を使うなんて、反則だわ! エルマも、そこの辺境国の女も、失格よ!」
カロリーネは個室から腕だけを出したまま、必死に声を張る。
「そうだった、彼女もいたんだったわ」
「だが、なぜ腕しか出してないんだ?」
「まだ身支度が済んでいないのでしょうか。ずいぶん時間が掛かりますわね」
突如としてきゃんきゃん喚きだしたカロリーネに、イレーネたちも困惑を隠せない。
「こんな、反則だらけの選考会などあってはなりません。仕切り直しを要求いたしますわ。速やかにこの課題は打ち切りとし――」
「ねえ、君なんで隠れてるのさ」
だが、のほほんとした顔のまま、ぐいとフェリクスがカロリーネを引っ張り出したのを見て、観客たちはようやく、彼女の意図と、惨状を知った。
「あ……っ!」
青褪めたカロリーネは、慌ててその場にしゃがみ込む。
それでも、ドレスからはみ出したままのコルセットや、絡まってしまったリボン、ぐちゃぐちゃに崩れた髪は、誰の目にもはっきりと見えてしまった。
そして、手元が狂ってしまったのだろう、無残にアイラインが伸びた顔も。
「あー……」
あまりに大胆な、かつ他人事とも言えない惨めさに、女性陣は微妙な顔つきで黙り込む。
どっと笑ったのは、やはりその手のことに無理解な男性の観客たちだった。
「おい見たか今の!」
「なんだありゃ、新種の呪術か!」
「初夜の寝台であれが出てきたら、腰を抜かすなァ」
無遠慮な笑い声に、舞台上のカロリーネが打ち震える。
恐らく彼女は、ドレスを一人で身に着けるのも、化粧筆を己の手に握るのも、生まれて初めてのことだったのだろう。
そして、それがいかに難しいことかを、この場で一番噛み締めているのも、彼女のはずだった。
「失礼」
――ふぁさ……っ
蹲るカロリーネに、涼やかな声とともに、柔らかな布が降ってくる。
驚いて顔を上げた、その視線の先に立っていたのは、エルマであった。
「このような気候下、肩を剥き出しにしていては冷えますので。ひとまずそちらをお羽織りください」
「あなた……」
思いもかけぬ情けに、カロリーネが一瞬、途方に暮れたような顔をする。
だが、彼女はすぐに我に返ると、しゃがんだまま、きっとまなじりを吊り上げた。
「恩を売ろうとでも言うの!? こ、こんな布一枚で――」
「そう、こんな布一枚で、暑さ寒さ紫外線にPM2.5まで防げる、実に優れたおくるみなのです。素晴らしいでしょう?」
「お、おくるみ……!?」
こんな布一枚で恩を売った気になるな、という挑発は、しかし妙な方向に躱され不発に終わる。
言葉を詰まらせてしまったカロリーネを、エルマはしげしげと見つめる。
そして、「なにやら」と呟き、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「バルたんのおくるみに包まれた人間が震えているのを見ると、速やかにお着替えをさせなくては、という逆らいがたい衝動に襲われますね……。このまま私めが、カロリーネ様のお着替えを完了させてしまっても?」
「えっ?」
「はーい、それではいい子にしていてくださいね。三秒で終わりましゅからねー」
「えっ? えっ?」
突如として口調を崩壊させ、両手をゆっくりと伸ばしてくるエルマに、カロリーネは硬直して冷や汗を浮かべる。
「い、いったい、なんですの……っ!?」
育児モードだ。
だがそうと知らないカロリーネは、蛇に睨まれた蛙のように、その場で目を見開くことしかできない。
徐々に、徐々に、こちらへと伸ばされてくる細い腕。
これに触れられてしまったら、自分はもう、元には戻れない――。
『ちょい待ち』
だがその時、呆れたような声が掛かった。
アナだ。
彼女はげんなりとした顔でエルマの腕を掴むと、それを押し戻した。
『なに堂々とほかの候補者に協力してんだよ。あんたが手伝ったら、単なる着替えどころじゃ済まないだろ?』
『そんなことは。普通に、カロリーネ様にお似合いになるドレスにお取替えし、簡単なお化粧を施そうとしているだけです』
『だから、あんたがそれをやると、間違いなく、絶世の美女を爆誕させちまうだろっつってんの。ってか見ろよ。全身を作り変えられる恐怖に、本能的に震えてんぞ、この人』
早口のエスピアナ語は、カロリーネには理解できない。
ただし、がくがく震える彼女を見て、アナがかすかに笑ったのはわかった。
「――お立ちください、カロリーネ様」
やがて、ルーデン語に切り替えたアナが、やれやれといった様子で口を開く。
彼女は、カロリーネが腰を抜かして動けないのを見て取ると、腕を取って強引に引っ張り上げた。
「他人に一発で美女にしてもらおうなんて気に食わない、……もとい、魔王に全身を改造されてしまう危機を、良心ある人間として見過ごせません。私がアドバイスを差し上げますので、あなたがご自身でなんとかなさってください」
「そんなアナ様、魔王扱いなさらなくたって……」
『あんたは黙る』
エルマが悲しそうに漏らした独白については、エスピアナ語でぴしゃりと封じる。
やりとりを見ていたカロリーネは、遅まきながらはっとして、か細い声でアナを詰った。
「だ……騙されなくってよ。アドバイスだなんて言って、変な方向に誘導する気でしょう。だいたい、田舎の娘ごときが、わたくしに指導だなんて――」
「カロリーネ様の肌は、少々黄味がかっていますね。ボリュームのある栗色の髪も、同色の瞳も、深みのある色をしています。なので、あなた様には、本来こうした浮ついたピンク色など似合わない。オリーブや、よく耕された土のような、深い色のほうがお似合いです」
だがアナは、小声の反論など聞こえないかのように、さっさとドレスを押し付け、個室に追いやってしまう。
カロリーネのために選んだのは、渋い葡萄のような色のドレスだった。
「こんな地味な色――」
「まずはコルセットです。一人で結べる前開けタイプ。腰に巻き付けたらお声がけください。結び方をお教えします」
不平を吐く口には、コルセットを投げつけて黙らせる。
有無を言わせぬ迫力に、カロリーネがすごすごと個室に引っ込んだので、アナはその前に仁王立ちをして陣取った。
「できましたか?」
「ま、まだよ!」
「どうせ紐を通す順番がわからないのでしょう。穴の横に番号を振っておきましたので、その順に通してください。赤の数字は上から、黒の数字は下からですよ」
「…………!」
懇切丁寧な指導に、カロリーネが絶句する。
そして、実際にその通りにしてみて、見事にコルセットの紐が結べたので、思わず「まあ……」と感嘆の声を漏らした。
『さすがでございます。アナ様は教授の天才でいらっしゃいますね』
『ええ、ええ。どこぞの師匠が、教えるのが壊滅的に下手だったから、反面教師って言うのかね』
一緒になってエルマが感動したように拍手するのを、アナは半眼になって受け流す。
というのも、エルマの授業スタイルというのは、
『それではコルセットの着け方を確認しますね。こちらは、編み紐が百本あるタイプです。はい、すべて結び上がりました』
『手順と手順の間が短すぎんだろ!』
とこんな感じで、すべてが「1、用意します」「2、完成しました」の2ステップで完結してしまう、絶望的にわかりにくいものだったからだ。
なにしろ、1+1=2という基礎から、一足飛びに最難関公式までを理解できてしまえる御仁なので、途中をどう分解していいものかわからない。
それをアナは、何度も何度も何度も何度も何度も反芻し、切り分けていくことで、なんとか習得に成功したのである。
(あたしはこいつと違って、天才じゃない。でも、だからこそ、なにがわからないか、よくわかる)
そして、その努力型の才能は、「人に教える」というこの場面でこそ、いかんなく発揮されていた。
コルセットを締め終えたカロリーネに、ドレスのサイズの選び方、裾の合わせ方、リボンの結び方までも丁寧に指導する。
着替えを終えると個室から連れ出し、今度は化粧の仕方、香水の利かせ方まで。
自分で髪を結い終えた頃には、カロリーネはすっかり真剣な顔つきになって、素直にアナに従うようになっていた。
そうして、約三十分ほど。
「できた……」
鏡の前で己の姿を確認し、カロリーネは泣きそうな顔で呟いた。
そこに映っているのは、先ほどまでの彼女とは打って変わって、落ち着いた色合いのドレスをまとった少女。
くるくると巻いていた髪は緩く下ろされ、甘いピンクを塗りたくっていた顔には、今やわずかな彩色しかない。
けれど、そうすることでかえって彼女本来の髪色が引き立ち、きつい印象でそこだけ目立っていた釣り目がちの瞳も、しっとりとした知性を帯びていた。
数十分前の自分では考えられないほど地味な装いのはずなのに、これまでに見てきたどの瞬間の自分より、美しい。
「…………」
カロリーネは無言でアナを振り返る。
言葉は無くとも、その瞳がすでに、降参を告げていた。そして、悔しさの内側に滲む、感謝も。
彼女は、落ち着いた色を乗せた唇を噛み締めると、エルマに畳んだおくるみを突き返す。
それから、アナを見つめて、一歩後ろに下がった。
「やあ、こちらで評価する前から決着がついてしまったようで、なにより」
とそこに、相変わらず朗らかなフェリクスの声が掛かる。
彼はカロリーネを上から下まで眺めると、愉快そうに笑った。
「ずいぶんきれいになったじゃない。自称・美と芸術の守護神たるファイネン家の名に懸けて、もうひと踏ん張りしなくていいの?」
「……もう、十分ですわ」
「そ。じゃあまあ、君にはそれなりのご褒美を上げよう」
フェリクスはあっさり片付けると、今度はエルマとアナの二人に向き直った。
「となると、残るは君たち二人だねぇ」
王妃となる女性に贈る首飾りを、雑にくるくると指先にぶら下げながら、ふむと首を傾げる。
背後に見える審査員は、それぞれエルマとアナスタシアの名が掛かれた札を手に持ち、困った表情で宙に浮かせていた。
貴族票は絶対的な美を見せつけたエルマに、市民票は成り上がりの可能性を見せつけたアナスタシアに、と票が割れかけ、しかし決めあぐねているといったところだ。
「うーん、そうだねえ。僕としては、偉業を成し遂げる
「…………! では――」
その言葉に、両者が大きく身を乗り出す。観客たちもどよめき、特にイレーネなどは、喜びにガッツポーズを決めかけた。
フェリクスはアナスタシアのほうを評価した。
となれば、エルマは見事「決勝で惜しくも敗退」となったわけで、この忌々しい任務からようやく解放される――
「とは言うもののー」
だが、気の抜けた次の言葉が、一同を硬直させた。
「絶対値として誰が一番美しいかと言えば、それはやっぱりエルマかなと思うから、次の一騎打ちで最終戦かな」
「は?」
最終戦。
その言葉にエルマたちはぽかんとする。これが最終選考ではなかったのか。
だが、戸惑いの気配を感じ取ったフェリクスは、こともなげに手を振るだけだった。
「僕、今のが最終選考なんて一言も言ってなかったでしょ。ちゃんと言ったよ、美貌と忠誠心を試したいって」
「美貌と……忠誠心?」
「そう。えへへ、こんなこと語るのは照れちゃうけど、実は、僕の理想を一言で表すなら、それは『犬』って感じなんだよね」
「犬……?」
女性を語るには到底適さない単語に、アナたちの顔が強張る。
だが、フェリクスはうっとりとしたように目を閉じて、滔々と語るばかりだった。
「いいよね、犬って。芸が達者で退屈しない。そのへんの人間よりもよほど肝が据わってる。目はくりくりしていて愛らしいし、なによりけっして裏切らない」
一芸披露、養護院訪問、美容審査。
突飛に思えたこれらの選考課題が、まさか「犬」という理想に沿って用意されたものだったとは。
アナは大いにドン引きしたが、努めてその表情を打ち消した。
自分が真にこの男の妻であったなら、この発言をもって回し蹴りの刑に処しているが、しょせん自分は、毒を注ぐために近付こうとしているだけである。
殺してしまえばおさらばだ。
(こいつに飼われちまうところだった哀れな女を、一人救済してやったんだ。その子には感謝してほしいくらいだね)
この場合、それはエルマであったということか。
アナがなんとなくエルマを見ると、彼女もやはり、内心の感情を押し隠すような様子で佇んでいた。
彼女の場合、狙うのはここでの敗退ということだから、これからフェリクスがどんな無理難題を突き付けようと、「できません」と一言告げればそれで終了となる。
ゴールは目前――となれば、エルマも内心では密かに喜んでいるのかもしれない。
「というわけで、最後は君たちの犬度、もとい忠誠心を試そうかなと。ぜひ、君たちには渾身の忠誠を示してほしい。つまり、なにをも優先して、僕の命令を聞く。できるかなぁ?」
フェリクスはやはりのんびりとした口調で、かなり傲慢なことを告げている。
だが、ここでアナが命に従い、エルマが逆らえば、互いの目的が遂げられるのだ。
アナは内心で笑った。
(来いよ、ばか王。どんなばかげた命令にだって、わんと鳴いて従ってやろうじゃないか)
しかし、その余裕は、フェリクスの次の一言で打ち砕かれた。
「まず、アナスタシア・ドン・ロドリゴ。君には、君の一番大事な人間……君の養父を、切り捨ててきてほしい」
「…………は?」
一瞬、脳が理解を拒む。
呆然としたアナに、フェリクスは出来の悪い生徒を見るような顔で、「ロドリゴ聖侯爵だよ。わかる?」と繰り返した。
「……あの――」
「さて、次にエルマ。君なんだけどねぇ」
アナは反論しようと口を開くが、フェリクスはさっさとエルマのほうへと向いてしまった。
ちなみにエルマはといえば、フェリクスがなにかを言う前から、すでに断りを入れようと身構えている。
「陛下。大変心苦しくはございますが、私、陛下の命令に従うことは――」
「ルーカスとカロリーネ・フォン・ハイネンの婚約を、阻止してくれる?」
だが、エルマもまた、最後まで言い切る前に、その爆弾発言を聞いて硬直してしまった。