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シャバの「普通」は難しい 作者:中村 颯希

シャバの「恋」は難しい

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19.「普通」の美貌(3)

「あああっ、そうだった……! むしろあの子、すっぴんのほうが破壊力が凄まじいんだった……!」

「はぁあああん! ほどいた髪がしっとりと濡れた頬にかかる様子がまた、天才画家の無造作な線で描かれた絵画のように、えもいわれぬ無限の美を醸し出している! 聖母子! 聖母子がいますわぁあ! 五億点満点!」

「よせデボラ! プラカードを上げるな!」


 脊髄反射で力強くプラカードを掲げようとしたデボラを、ルーカスがすんでのところで食い止める。

 デボラは慌てて応援グッズを引っ込め、


「エ……エルマエルさまの、す、すすすっぴんなんて、ぜ、全然大したこと、ないひゃなひのォ……っ?」


 盛大に声を裏返しながら野次を飛ばす。くっきりと刻まれた苦悶の表情は、まるで踏み絵を強いられる信徒のようだった。

 が、そんな努力も虚しく、観客はエルマの素顔の麗しさに釘付けになっている。


「もうさ……化粧する前からこれって、反則じゃねえか?」

「ああ、ぶっちぎりだ……。ぶっちぎりで彼女がナンバーワンだ……」

「もはやどんな存在も、この美しさを邪魔することはできない……っ」


 だが実際には、その圧倒的美貌をもかすませる物体は存在したのである。


「はっ!」


 掛け声一閃、エルマがひらりとその場で回転すると、先ほど手放したはずの眼鏡がすちゃっと装着され、解いたはずの髪もお団子頭に戻っている。

 白磁の肌はいつの間にかくすみ、墨で汚れたメイド服は、真新しいそれに取って替わられていた。

 ついでに、相変わらず抱っこしているバルドまでも、洋服とスタイ、そして髪の分け目が変えられている。


「おお……っ」


 観客たちはどよめいた。


 まるで、眼鏡が顔面に飛び込んでいったような、あるいは時間を巻き戻したかのような、不思議な光景。

 結果として、かなり地味というか、冴えない仕上がりだが、ビフォーを知っている観客たちからすれば、その仕上がりの悪さはむしろ完成度の高さを窺わせる。


 美女になったわけではなかったが、高度な身支度を誰よりも速く整える、という意味では、やはりエルマがナンバーワンであった。


「あのおバカ……。ここからどう巻き返すつもりなのよ……っ」


 イレーネがこめかみを押さえていると、ふと舞台上のエルマと――というか眼鏡と目が合った。

 彼女は、イレーネの横にルーカスがいるのに気付くと、少し驚いたような素振りを見せる。

 それからなぜか、誇らしげな表情を浮かべてなにかを告げた。


 唇の動きを追ったイレーネは、紡がれた言葉を考え、眉を寄せた。


「隊長受け、ほの暗い、夢中です……?」

「大丈夫、このくらい、普通です、だろ」


 即座にルーカスによる素早い訂正が入る。

 彼は、エルマが指し示す先を視線で追い、静かに呟いた。


「アナスタシア嬢に注目しろと言っているようだ」


 アナは、濡れた布でメイクを落としきったところだった。


 現れた素顔は、辺境国出身というわりに随分と綺麗に手入れされているようだ――もちろんエステの効果である。

 ただし、エルマのような、見るだけで魂を奪われそうな美しさはなかった。


「ふん……可憐、と言ったら聞こえはいいけれど、地味ねえ」

「仕方ないだろ、辺境国の娘なんだから。田舎臭さは抜けないさ」

「まあ、素朴さが好きって男も一定数いるだろうよ」


 観客たちも、エルマの天才的顔面を見た後ということもあり、物見高くアナの素顔を見下ろしている。 まあ、早々に個室に引っ込んでしまったカロリーネと比べれば、その潔い態度は評価したい、とでもいったところか。


 辺境の弱小国出身であるはずの彼女は、意外にも場の空気に呑まれてはいない。

 ただし、やる気に満ちた感じでもなく、どこかぼんやりと、顔を拭った布を眺めていた。


(……早く、化粧をしなきゃ)


 アナは、舞台の真ん中で、布を見つめながら自分に言い聞かせた。


(課題をこなして……それで、王に接近して……やつに、毒針を打たなきゃ)


 何度も思い描いてきた彼女の任務。

 ロドリゴに恩を返し、彼の念願を叶える、誇らしい仕事のはずだった。


 だが――。


(ロドリゴ様は……ずっと、あんな顔で、あたしを見てたの?)


 エルマから教わった微表情を読む術は、アナにある事実を気付かせてしまった。


 彼は、アナを「蔑んでいる」。


 緩く弧を描いた目は穏やかだったし、口角の上がった唇は優しげだったが、ごく微細な筋肉の強張りは、こちらに対する不信と軽蔑を露わにしてしまっていた。

 恐らく彼にとって、アナとは大切な養女でもなんでもなく、使い勝手のよい駒――いや、それどころか、流刑地出身の卑しい小娘でしかないのだ。


 恐らくは、白い花の香りがする髪飾りも――。

 アナは、喉元まで迫ってきた感情と思考を、慌てて飲み下した。


(……それがなんだ。そんなの、当たり前のことじゃないか。それに、ロドリゴ様があたしたちの村に手を差し伸べてくれたことは事実だ)


 ぎゅっと布を握りしめる。

 そうとも、元王族であったロドリゴが、流刑地出身の娘に気を許せないのなんて当然のことだ。

 アナが任務をためらわぬよう洗脳を施すのも、きっと「普通」のこと。


 どんな感情を持っているのであれ、あのとき彼は、飢えたアナのもとに、パンを携えてきてくれた。

 その恩に、自分はただ報いるだけだ。


 アナはきっと顔を上げ、遠くの席に座すフェリクスを見た。


(重税を課して、あたしたちを苦しめたのはあの男。あいつを倒すこと自体は、なんら間違っちゃいない)


 たしかに自分はロドリゴの性質を見誤っていたのかもしれない。

 けれど、彼への恩は変わらない。

 悪辣な宗主国の王を倒すこと自体は、きっとアナのためにも、村で飢えていた弟妹たちのためにもなる。


(殺すんだ、ルーデン王を。あたしの力で、あたしのために)


 そう思いきると、アナは短く息を吐きだした。

 フェリクスが好む美女にでもなんにでも、なってやろうではないか。


 ずらりと並ぶドレスや化粧品を見つめる。

 まずは着るものを決めなくてはと、大量に連なる布たちに指を滑らせた。


 これまでのアナであれば、真っ先にフリルの付いた愛らしいドレスを手に取っていただろう。

 小柄で可憐で無害な女は、たいていの男の眼鏡に叶うと侯爵家で教わっていたから。


 だが、今、彼女は桃色だとかフリルだとか、そんな柔らかさを強調するものを選びたくはなかった。

 同時に、身の丈に合わない上等な服も、やたらと可愛いデザインの、あの白い花の髪飾りも。


 では、自分に似合うもの、そして自分が着たいものとは、なんなのか。

 じっと考え込んだアナの脳裏で、ふと響く声があった。


 ――さすが、長年の鍛錬を感じさせる、粘りのある足腰をお持ちですね。


 ほんの少しだけ低めの、耳に心地よい声。エルマだ。


 ――まさに血肉を伴った知識……すべてがご経験としっかり結びついていて、素晴らしいですね。


 彼女は、ただの一度だって、アナの出自を馬鹿にしたりはしなかった。

 褒めるときだって、「寒村の民のわりに」と驚くのではなく、それどころか、「さすが」と言ってアナを称えた。


 ――常人にはなかなかなしえない、貴重なご経験をされてきたのですね。


 彼女にとって、アナは卑しき娘などではなく、子守りのうまい、知識と経験豊富な素晴らしい人材だった。

 稀有で、うらやむべき境遇にある存在だった。


(ああ……そうか)


 今、唐突にわかる。

 エルマの前でだけ、アナは「普通の」人間だったのだ。


 アナは不意に、ドレスの山から指を離した。

 ここに、選ぶべき服はないと思ったからだ。


 きらびやかな衣装で、ごまかすことなどしない。

 だって、――流刑地出身の、泥にまみれて過ごしてきた娘。それが、まぎれもない自分だ。


(きっと……本当は、あたし自身が一番、囚われてたんだな)


 新しい衣装を選ぶ代わりに、墨にまみれたままのドレスに手を這わす。

 裾から丸めて、揉みこむようにして擦れば、墨はじんわりと広がって、黒へのグラデーションを生み出した。

 元は深緑色だったドレスは、裾に向かってさらに色を濃くし、やがて黒へと溶けてゆく。

 それはさながら、大地と一体となりながら広がる、豊かな森のような色彩だった。


(……泥にまみれて過ごしてたあたしには、お似合いの色だね)


 くすりと笑って、次は化粧に着手する。

 墨を洗い落とした手で選び取ったのは、高価な白粉でも、目に鮮やかな色粉でもない。

 女性の装飾品としてではなく、単に舞台を飾るために撒かれていた、数枚の花びらだった。


「彼女はなにをしているの……?」

「床掃除か……?」


 化粧品に手を伸ばさず、舞台に屈みこんだアナに、観客が戸惑いの呟きを漏らす。

 だが、それを無視して、アナは赤い花びらを、掌の中で丁寧に揉み、やがて滲んできた紅色をすいと目じりに塗り込んだ。


「…………!」


 意図を悟った観客たちが息を呑む。

 ほんのひと塗りしただけで、ぐっと大人びた眼差しをもった少女が、そこにいたからだ。


 工業品より、むしろ色は淡い。

 自然な色付き方なのに、劇的に雰囲気が変わっていた。

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