17.「普通」の美貌(1)
「信じられない!」
アナは、緩やかな眠りに落ちそうになっていたところを、少女の元気な声によって引き戻された。
「あなたたち、性懲りもなく徹夜していたの!? エルマ、あなたはともかく、普通の人間のアナ様を巻き込んでは、だめじゃないの!」
ぷりぷりと、友情の感じられる怒声でエルマを詰るのは、たしかイレーネという侍女だ。
デボラという巨乳の侍女とともに、様子を見に来たらしい。
朝食なのか、パンと果物の詰まった籠を持っていたが、イレーネはその籠を振り回しそうな勢いでエルマに詰め寄っていた。
「いくら最終選考直前とはいえ、追い込みすぎよ! 肝心なところでアナ様が倒れでもしたらどうするの?」
「いえ、私ももちろんアナ様のご様子を見ながら、あくまで大丈夫と思える範囲で――」
「大丈夫じゃないから、アナ様は今、刺繍道具と数学の教本を持ちながら、変なポーズで白目を剥いてるんでしょう!? 彼女を殺す気!?」
叫びの内容を聞き取って初めて、アナは自分が、ヨガの「立木のポーズ」を決めていることに気付いた。
朝陽が差し込む部屋の真ん中で、丹田に軸を据えながら凛と片足立ちする彼女は、この瞬間、一本の木だった。
(いけね。うっかり美のサットヴァに同化してたわ……)
もはや、こうした瞑想をしながらの鍛錬に慣れ過ぎていて、この体勢に違和感がなくなってしまっている。
ぽつりと抱く感想まで、すっかり「普通」を逸脱しはじめていたが、本人はそれに気付いていなかった。
(これまでに比べて、今日は最終選考直前ってことで、かなり手加減してもらったのにな。ちょっと気ぃ抜きすぎだわ、あたし)
さりげなく足を戻しながら、アナはこっそりと口元を歪める。
結局今日は、十冊ほど教本を読み、解剖を五十回ほど繰り返し、顔料を百色に分類し、精油を二百種類精製し、その他、刺繍裁縫左官工事といった女性の嗜みを復習しつつ、合間に一般教養を確認していただけだ。
これまでの猛特訓に比べれば、破格の優しさと言っていい。
アナ自身も、始まる前は悲鳴を上げて逃げようとしていたが、いざことを成し終えてみれば、こんなものかという気もする。
合間に、美容講座の一環として、エルマにエステや酸素カプセルなるものを体験させられたので、それもあって負荷が少なく感じるのかもしれない。
それに、
(集中してれば……変なことを考えなくて、済むしな)
ふとした瞬間、脳裏によみがえる花の香り。
それが示すかもしれない不吉な事実から逃げるには、うってつけの環境だった。
アナが体勢を戻し、「まだいける」と目で訴えると、エルマが小さく頷く。
彼女はどこからか数学の教科書を取り出し、くいと眼鏡のブリッジを上げた。
「では、朝食の時間となりましたので、数学を一冊分学んでから一度終了としましょう。解説はルーデン語の方が相性がよいので、ルーデン語で失礼します。まず、基本中の基本ですが、1+1は?」
「2です」
「素晴らしい。基本はばっちりですね。さて、これを応用すると、1/π={(2√2)/(99^2)}∑(n=0⇒∞){(4n)!(1103+26390n)/(4^n×99^n×n!)^4}となります」
「なるほど、さっぱりわかりません」
基礎から応用までがぶっ飛びすぎなエルマの講義スタイルにも、もう慣れた。
思うに、エルマは有能だが、有能すぎるのだ。
だから、1+1と、よくわからない公式が、地続きに繋がってしまえる。
自分が大いに飛躍していることにも気づけない。
けれどアナは凡人だ。
それも、生まれ持った教養高さなど、けっして持ち合わせていない類の一般人。
けれど、だからこそ、彼女は臆面もなくエルマに問いかけることができる。
「まず、πと√と!の意味、それから()の種類について教えてもらえますか?」
「あ、失礼いたしました」
こうして、何度も何度も問いかけて、エルマが一回で飛んでしまうその空間を、ちまちまと埋めていくしかないのだ。
「πというのは円周率を表す記号で――」
「円周率とはなんですか?」
おかげで、一回で済むはずの実験は五十回になるし、講義はエルマの思い描くものに比べれば亀の歩みだろうが、仕方ない。
これが自分の精一杯なのだから。
いつの間にか爆速となった書き取りをしながら、エルマを質問攻めにするアナの姿を見て、イレーネはあんぐりと口を開けた。
「……なんだか、アナ様って……」
「努力の天才でいらっしゃいますわね」
デボラまでも、アナの凄まじい根性の据わり方に、第一使徒の座の危機を感じたのか、唸り声を上げている。
「普通、圧倒的な謎に相対すると、人はすぐに諦めてしまいます。けれど彼女は、自分がなにがわからないかを、きちんと捉えている。エルマ様と比べて、ご自身を至らないと思い込んでいらっしゃるようですが……こんなにも根気強く、エルマ様に付いていく人間を、わたくし、自分以外に初めて見ましたわ」
見れば、三日前まで、エルマに昆布一つで身動きを封じられていたはずの彼女は、今やエルマに鋭く質問を飛ばし、恐縮させている。
背筋は伸び、体幹は揺らがず、瞳にはきらめくような知性が滲んでいた。
なにより、ふとした拍子に染み出るようだった、世を拗ねた雰囲気が、今は欠片もない。
エルマという異常な少女に、全力で食らいついていく様子は、ただ健全な熱意に溢れていた。
もしかしたら、と、イレーネは密かに喉を鳴らす。
(もしかしたら、……本当に彼女が、王妃になるかもしれない)
窓から差し込む朝陽が、まるで希望の光のように胸を照らした。
王宮の外れにある鐘楼が、澄んだ音色で朝を告げる。
長く余韻を引く音は、どこか鈴の音にも似て、聞く者を軽やかな気持ちにしてくれる。
最終選考が、いよいよあと数時間で、始まろうとしていた。
***
最終選考は、初日と同様、鐘楼のすぐ隣の屋外演劇場で行われることになっていた。
候補者が三人にまで減った今、関係者席は随分減っていたが、それ以上の観客が押し寄せたらしく、客席は初日以上にびっしりと埋まっている。
混雑と危険を避けるために、アナたち候補者は早めに舞台袖に通され、そこで時間を過ごすことになった。
すり鉢状の客席から、まるで渦を描くようにして注いでくるざわめき。
言葉としては聞き取れないそれに、アナがぼんやりと耳を傾けていると、横から話しかけてくる者があった。
「ねえ、そこのあなた」
くるくると髪を巻いた、細身の女性。どこか高慢そうな釣り目が印象的な伯爵令嬢、カロリーネ・フォン・ファイネンである。
彼女はやけに寛いだ様子で、控えの椅子に腰かけていた。
「わたくしたちの出番まで、まだ三十分近く。退屈だわ。おしゃべりでもしましょうよ」
そう言う顔はにこやかで、口調も気さくだ。
だが、エルマから仕込まれた微表情を読めば、彼女がなんらかの策を巡らせていることはすぐわかる。
アナはごくわずかに眼球を動かし、いつの間にかエルマが舞台袖から離れているのを確認した。バルドにミルクをあげ、寝かしつけているのだ。
笑み崩れながら頬ずりしているところを見るに、彼女がこちらに戻ってくるまで、まだまだ掛かるだろう。
押し付けるわけにはいかなそうだ、と判断し、アナは人畜無害そうな笑みを貼り付けた。
「光栄でございます、ファイネン様。ですが私は、あなた様を喜ばせるような話題にも疎い、田舎育ちの娘でございます。エルマ様がお戻りになるのを、待たなくてよろしいですか?」
「やだわ、あんな女」
だが、カロリーネは即座に申し出を拒否する。
扇を広げ、意地わるそうな顔を隠すと、内緒話をするようにアナに顔を近付けた。
パーソナルスペースへの接近。親密感の演出だ。
「実はわたくし、あなたとお友達になりたいと思っていたのよ。だってあなたって、とても素直で、愛らしくて、しかも度胸のある方だもの。わたくし、そういう方が王妃になるべきだと、ずっと思っていたの」
媚びるような声に、アナは内心で首を傾げた。
自分を持ち上げて、カロリーネになんの得があるだろう。
油断させたいのかとも思ったが、彼女ならこうした場面、油断させるよりも、素直に恫喝するタイプのような気もする。
戸惑いの色をあえて滲ませてみせたアナに、カロリーネはくすりと笑い、さらにぐいと顔を近付けた。
途端に鼻先をかすめる香水は、エルマの表現を借りるなら、とても経済的な香りだ。
「ねえ、あなたの殿方の好みって?」
「はい?」
突然目先の変わった話題に、アナは素で眉を寄せた。
だが、カロリーネは、まるでこの話題運びに酔ってしまったかのように、芝居がかった笑みを浮かべている。
こちらが乗らない限り、話を進めないのだと悟ったアナは、内心でげんなりしながらそれっぽい言葉を紡いだ。
「そうですね……。ええと、やはり、尊敬できる方で、包容力や指導力があって……」
男の好みなど考えたこともない。
必然、思い描くのはロドリゴ侯爵だ。
「穏やかで、いつも笑みを湛えている……とかでしょうか」
だが、昨日からずっと、その笑みが本物であったかどうか、そればかりが頭をよぎる。
ここから一番近い観客席には、いつもの温かな笑みを浮かべた彼が、関係者として座っているのだろう。
ずっと心の支えにしていたのに、初日はそれどころではなくて姿を見られず、二日目は観客の立ち合いが許されなかった。
三日目の今日、ようやく養父の顔を見られると言うのに、今、それがひどく躊躇われる。
「そうなの。おとなしい男性が好みなのね。でもわたくしは違うわ」
思考の闇に引きずり込まれそうになったところを、カロリーネの声によって引き戻された。
見れば、彼女はにぃと唇の端を吊り上げていた。
「わたくしはね、華やかな男性が好き。ユーモアがあって、手馴れていて、スマートで。美形ながら勇ましい、ルーデン一の色男」
どうやら、こちらの好みに興味などなくて、単に自分語りがしたかっただけらしい。
そして、やけに詳しい彼女の好みが、誰を指しているのかは明らかだった。
ルーカス・フォン・ルーデンドルフ。
昨日アナと遭遇した、あの王弟である。
「ねえ、知っていて? 選考会ってね、べつに優勝して王妃にならずとも、最終選考にまで残ればメリットはいっぱいなのよ。女として格が上がる、縁談が有利になる、
カロリーネはそこでふふっと笑うと、秘密を分け合うように目配せをした。
「わたくしは、むしろここで敗退して、ルーカス殿下に近付きたいと、そう思っているのよ」
表情を見るに、それは本心からの言葉なのだろう。
だが、カロリーネの希望というよりも、やけに確信めいた口調であったのが、少し気に掛かった。
じっと見返すアナに、カロリーネは意を迎えるように微笑みかける。
「だからね、あなたにはぜひ頑張ってほしいの。あんな、エルマとかいう庶民の娘なんかよりもよほど、あなたのほうが王の妻にふさわしいわ」
「……エルマ様をお嫌いなのですか?」
「大嫌いよ。わたくしは、『美と芸術を司る』とまで評されたファイネン家の娘。なのに、あの女はそんなわたくしを、かつてこれ以上ないほど
そう言い切るカロリーネの自信家ぶりにびっくりした。
どうやら、アナのダンスは、「エルマが歌で観客を催眠状態に陥れていたゆえの高得点」と解釈されているらしい。
これほどまでに、自分に不都合な事実を無視して生きられるなら、人生楽しそうだ。
カロリーネは、扇についた羽を揺らすように、くすくすと笑った。
「その点、あなたは、他国とはいえ、侯爵令嬢でしょう? わたくし、美や芸術、そして家格については絶対に譲れないけれど、逆に言えば、それ以外のことについては寛容な女なのよ」
つまり、家格以外ではアナのことも認めていない、ということにもなる。
白けた思いで見守っていると、カロリーネはその視線にも気付かず、にんまりと目を細めた。
「だから教えてあげる。今回の最終選考、きっと課題はくだらないもののはずよ。例えば、制限時間内にげっぷを何回できるかとか、一度で何個パンを頬張れるかとか。それに勝っても、むしろ女の品位が下がるようなものばかり」
これもまた、やけに確信に満ちた物言いである。
そういえば、昨日の養護院では、準備よく手袋を取り出していたことをアナは思い出した。
「カロリーネ様は、なぜ――」
だが、問おうとしたその時、
「なぜ。なぜなのでしょう。なぜバルたんの寝顔はこんなにも愛らしいのでしょう。寝顔が見たいと渇望する心と、起こして笑顔が見たいと逸る心に、人類はどう折り合いをつけてゆけばよいのでしょう」
エルマが眠ったバルドを抱きかかえたまま、真顔で席に戻ってきたので、つい口を噤んでしまった。
「教えてください、アナ様」
「いえ知りませんけど」
「そうですよね。バルたんの示す悠遠なる命題を、平凡な我々が解き明かすのはあまりに難しい……同感です」
なにに同意されたのだろう。
だが、その辺りを拾ってしまうと、延々と問わず語りというか、バルたんトークが始まってしまうことはもうわかっている。
アナは沈黙を守ろうとしたが、よせばいいのに、カロリーネがエルマに向かって身を乗り出した。
「あらぁ、エルマさん。あなたって、本当にずっと弟君を抱っこしていますのねぇ。所帯じみたその仕草が、とっても板に付いてますわぁ」
「え、そんな……」
「そこで照れないでくださる」
エルマがもじもじとしだしたので、ついカロリーネの声がどすの利いたものになる。
だがすぐに彼女は体勢を立て直すと、嫌味っぽく片方の眉を上げてみせた。
「まあ、あなたはそうやって、おままごとに夢中になっていればよろしいわ。赤ん坊の世話に没頭して、女としての勝負も投げ捨てて、そのまま年老いてしまえばいい」
随分な言い草だ。
が、たしかに今の状況を見る限りでは、毛先まで丁寧に巻き、上等なドレスをまとったカロリーネと、ひっつめ髪に眼鏡姿、そして徹夜明けの少しばかりくたびれたメイド服姿のエルマでは、前者のほうが輝いている。
きょとんと見返したエルマに、カロリーネは失望したように鼻を鳴らした。
「馬鹿にするのもいい加減にしてちょうだい。こんなダサい女に、かつてわたくしが打ち負かされたなんて、記憶に残したくもないわ。よくって、わたくし、あなたにだけは絶対負けなくってよ」
椅子を蹴るようにして立ち上がり、彼女は舞台へと足を向ける。
「女としての序列も、……殿下の隣の座も、ね」
振り向きながら、低く一言付け足した。
聞き違えようのない、宣戦布告。
エルマはどう受け止めたのかと隣を見てみれば、相変わらず彼女は、優しい手付きでバルドの頬を
(無反応。脈無しってかい)
あーあ、と肩を竦めそうになった直前、アナはふとあることに気付いた。
眼鏡でほとんどを覆われたエルマの顔。
なにを考えているのかわかったものではないが、ここ数日で急激に鍛えられた微表情解読スキルが、エルマのとある感情を告げてくる。
わずかに見える眉はほんの少しだけ持ち上がり、唇は微細な緊張を湛えて口角が後方に引かれる。
これは――
(もしかして、こいつ……)
だが、アナがある仮定を思い浮かべるよりも早く、観客席がわあっと盛り上がるのが聞こえた。
「いやー、盛大な歓迎の拍手をありがとう。それじゃあ、今日も堅苦しい挨拶は抜きにして、ちゃきちゃき選考を始めようと思います」
反対側の舞台袖から登壇し、気の抜けた宣言をするのは、フェリクス。
いよいよ最終選考が始まるのだ。
フェリクスの間延びした声で名を呼ばれ、アナたち最終候補者三人は、同時に舞台に上った。
半円形を描いた舞台の中央には、なぜか間仕切りが設置されて小さな個室ができている。
そして前方、舞台の外周をぐるりと埋め尽くすのは、大量の服や靴、帽子や香水、化粧品といったものたち。
「…………?」
これは何ごと、と眉を寄せたアナたちに、フェリクスはにこやかに頷いた。
「ここに残った君たちは、才能に溢れ、肝の据わった素晴らしい女性たちだ。だからねえ、あとはやっぱり、美貌と忠誠心のあたりを、試しておきたいかなぁと思って」
「えっ」
初日から一発芸大会のようだったので、ここにきてストレートなビューティーコンテストとは予想外だ。
カロリーネも当てが外れたと言わんばかりに、小さく叫んでいる。
美や芸術以外のことなら他者に譲ると言っていた彼女も、こんな、美のど真ん中を競い合うような内容では無視できないだろう。
戸惑いの表情を浮かべたカロリーネだったが、フェリクスの次の言葉を聞いて、さらに顔色を失った。
「僕としては、妻となる女性には、自分で自分のケツを拭くっていうか、まあ、身支度くらい自分で整えてほしいんだよねぇ。……というわけで、一同、すっぴんになってから、身支度をしてみてくれる?」