15.「普通」の慈善活動(6)
アナは警戒心を最大値まで引き上げ、目の前の男を見つめた。
「……ご冗談を。バルコニーの四階から地上まで伝い下りて無事な女なんて、普通おりませんわ」
「それはどうだろう」
平静を装って紡いだ返答に、なぜだかルーカスは愉快そうに笑った。
「俺が身近に知っている女性は、普通に崖から飛び降りて無事だったりするので、判断に悩むな」
初対面のアナに、砕けた様子で笑いかける彼は、たしかに色男としての魅力にあふれているに違いない。
だが、彼の仄めかす「女性」の正体を察して、アナはいよいよ顔を強張らせた。
崖から飛び降りて無事な人間が、そうほいほい存在されたら、堪ったものではない。
「……エルマ様から、なにかお聞きに?」
「なにか、とは?」
覚悟を決めて一歩踏み込んでみたが、相手は軽く眉を上げるだけだった。
間合いを測りかねて黙り込むアナに、ルーカスはなんでもないことのように切り出した。
「たとえばこんなことだろうか、アナスタシア嬢。あなたが、エスピアナのロドリゴ聖侯爵の養女であることや、貴族の養女としては珍しく、辺境の流刑地出身であること。それとも、ルーデン入りの初日に暗器を山ほど所持していたことかな?」
「…………っ」
完全に情報が筒抜けになっている。
この分では、しらばっくれることができる段階は、とうに過ぎてしまっているだろう。
アナは、憎しみを込めて目の前の男を睨み付けた。
『やっぱり、エルマ……あの女は、最初からあたしを騎士団に突き出す気だったんだね』
恐らく、最終日にまで残ったことで、彼女の用は済んだのだ。
だからこうして、アナの情報を騎士団に差し出した。
(ちくしょう……っ)
それは、よくわからぬ敬意より、よほど合理的で「普通」の行動のはずだ。
それならアナだって、戸惑うことなく理解できる。
だというのに、裏切りを突きつけられた今、心の底がひりつくように痛む。そんな自分の弱さが忌々しかった。
だが、
「今、いまいち聞き取れなかったが、エルマが騎士団に突き出そうとした、と言ったか?」
首を傾げたルーカスの、次の言葉で、アナは大きく目を見開いた。
「ならば誤解だ。エルマは、むしろ積極的にあなたの良い噂を流してまわっている」
『……なんだって?』
咄嗟に母国語のまま呟き、その後我に返ったアナは、ルーデン語で聞き直した。
「どういうことですか?」
「どうもこうも。彼女はあなたをなんとしても立后させたいらしい。方々で人を捕まえては、相手が当惑するくらいに、あなたのことを褒めてまわっている。もちろん、弟バルドを褒め称えた後にだが」
いわく、廊下で侍女仲間に会えば「アナ様の抱っこスキルは人類史に刻まれてしかるべきレベル」と語り、騎士団に顔を出しては「アナ様の根性の据わり方は不動如山の極致なので、ぜひ見習うべき」と熱弁する。
そのほかにも、すれ違う人全員に、「おはようございますバルたんの可愛さは唯一不変。本日も気持ちのいい天気ですねアナ様の変顔すごい」と、まるで語尾のように褒め言葉を混ぜてくるらしい。それも、うっとりとした様子でだ。
「……いえそれは、選考を有利にするための情報に、まったくなっていないのでは……」
「まあ正直、印象操作をする工作員というよりは、孫自慢をする祖父母の言動に近い、というのは事実だ。だが、あまりに好意を垂れ流すエルマにつられて、周囲は徐々に『バルドくんはすごい。そしてアナスタシア嬢とやらもすごいらしい』と認識しはじめている」
『なにそれ!?』
再び母国語に戻ってしまい、アナは慌てて咳払いをした。
「信じられないことですね。それも彼女の計算通りということでしょうか」
「いや、計算なんかではないだろう。程度がぶっ飛んでいるからこちらが見誤るだけで、彼女は……エルマは、あれでかなり単純で、思ったことをただ行動に移しているだけだ」
だからこそ、疑って己を疲弊させるより、覚悟を決めて信じ切ったほうが楽だぞ。
目の前の男は、なぜだか自分に言い聞かせるようにそう付け加える。
彼がなにを思っているかはともかく、不思議なことに、その言葉はすとんとアナの腑に落ちた。
おそらくエルマは、臆面もなく、バルドやアナのことを褒めてまわったのだろう。
その想像は、アナの心を妙にそわつかせたが――しかし、今は、そんな話をしている場合ではなかった。
「仮に、本当に彼女が私を密告しなかったのだとして、それなら、なぜあなたは私を疑うのです?」
「もちろん、独自に調べたからだ」
「あなたが? 一人で?」
アナの問いに、ルーカスはおどけるように肩を竦める。
「本気を出せば、それなりに有能なのでね」
敵の規模を知りたいがための問いだったのだが、そんな答えが返ってきたので、アナはますます眉を寄せた。
「……それで。私をどうなさるおつもりなのですか?」
「どうとは?」
「それは……あなたたちが決めるのでしょう。拷問するなり、殺すなり」
ここに来て、いまさら無事で帰れるとは思わない。
苛々しながら尋ねると――それでもルーデン語だと丁寧な口調になってしまうのが忌々しい――、相手は意外な返答を寄越した。
「ああ、そういう意味なら、なにもしない」
「は?」
「これでも騎士だ。弱り切った相手を、痛めつける趣味はないものでね」
意味がわからない、と反論しかけたアナを、ルーカスは視線で封じた。
「弱っていただろう? バルコニーにいたときから、途方に暮れたような、今にも逃げ出しそうな顔をしていた」
「…………っ」
思いきり最初から見られていたのではないか。
「己の『任務』に疑問を覚えはじめたか、逆に首謀者が恋しくなったか、はたまた、エルマによる修行にうんざりしたか。心境は測りかねるが……ただこちらとしては、今あなたに逃げられるわけにはいかないんだ」
間近に迫り、耳元で甘く囁く様は、いかにも女たらしそのものだ。
だがアナは、その熱が、自分に向けられているものではないということを、本能的に悟った。
「あなたに逃げられたら、エルマが異母兄の妻になってしまうかもしれない。その可能性は、なんとしても潰しておきたいのでね」
「……それが、あの女が準優勝にこだわる理由ですか」
「鋭いな」
ひっそりと笑うルーカスの手を振り払いながら、アナは少し考えた。
「まさかあなたたちは、恋人同士なのですか? それにしては、彼女の方は、一度もあなたのことを口にしたことはありませんでしたが」
「……鋭いな」
ルーカスの笑みがわずかに強張る。
鋭いのは、観察眼というより、言葉が含む内容のほうということだろう。
それだけで、アナは二人のおおよその関係を把握した。
「おい待て、なぜ急に俺を哀れみの目で見る」
「いえべつに」
アナは意識的に表情を抑え込むと、忙しく思考を巡らせた。
話を総合するに、やはりエルマにアナへの害意は無いようだ。
自分の正体に気付いているのは、ルーカスの言葉を信じてよいのなら彼一人。
そして彼は、暗殺者が王妃となるリスクを冒してでも、エルマの立后を阻止したいと考えている。
(あたしのことを見逃すのは、あたしのことなんていつでも無力化できると過信するがゆえだとしても――結局、このまま見逃してもらうほかにないってことか)
無理矢理結論付けると、少し気が楽になった。
相手にも思惑があり、かつアナのことを侮っているからこそ、彼らはこうして暗殺者の存在を許容している。
掌の上だと思うと腹立たしいが、ほかに選択肢がない以上、晴れの場に備えて、粛々と爪を研ぐしかない。
遥か高みの玉座にあるルーデン王フェリクス。
彼を殺害できるほど接近できるのは、今日枕問いがなかった以上、あとは最終選考後の表彰の場だけ。 王妃内定者に首飾りを授けるという、その機会を利用するしかないだろう。
(ここまで来たら、やってやるさ……!)
皮肉にも、エルマの教育のおかげで、今の自分ならほかの候補者に負ける気などしない。
唯一、師匠であるエルマには敵わないだろうと思うが、そのエルマ本人が
アナは拳を固めると、真っすぐにルーカスを見つめた。
「手足が冷えてまいりました。『明日に向けて万全を期したいので』、そろそろお
言葉に含ませた意図は、しっかりと伝わったようだ。
ルーカスは端整な顔をほころばせて頷いた。
「もちろん。引き留めてしまい、失礼。あなたの優勝を、心より祈っている」
そうして、どうぞ、とバルコニーを掌で指す。
アナはもう言い訳もせずに、ひらりと柱を伝い、部屋に戻った。
(ふん、すかした男だね。香水の匂いまで漂わせちゃってさ)
すっかり冷え切った二の腕をさすり、顔を顰める。
いつの間にか、彼がまとっていた香りがこちらまで移ってしまった。
『趣味の悪い香りだねぇ……ん? 女物?』
くん、と改めて嗅いでみて、アナは首を傾げた。
恐らく、いや、確実に、これは女物の香水だ。
ここ数日の猛特訓に含まれていたビューティー講座で、エルマに叩き込まれたからわかる。
(……と、いうことは)
色男が女物の香水を漂わせている場合、考えつくのはひとつしかない。
彼がやってきた方角、そしてアナがバルコニーで佇んでいたところから見ていたという話も総合し、表情まで見て取れる距離を算出するに――
(さては、迎賓館の誰かと逢引きしていた……?)
一瞬、エルマかとも思ったが、彼女は一切香水の類を付けない。
男のために装うことはあっても、バルドの子守りがある以上、強い香りは避けるだろう。
となると残るは、今まだ迎賓館に残っている候補者、――カロリーネ。
アナに対するのと同じように、逃亡を阻止しに行ったとも考えられるが、こんなに香りが強く残っているとなると、やはり思いつくのは「そういう」可能性だ。
『おやおやまあ……いい男だこと』
アナは半眼になって皮肉った。
エルマを気にする素振りを見せながら、これとは。
するとすぐ背後から、
『本当にいい男ですよね』
静かな相槌が返ってくる。もちろんエルマだ。
アナはぎょっと飛び上がった。
『な……っ、なななっ、なんであんたがここにいるんだよ!』
『それはもちろん、寝かしつけが完了しましたので、次はアナ様のお世話をと。今、バルたんを褒めてくださったのですよね? 夜を徹してのバルたんトークでもします?』
『断固拒否する! ってーか世話とかいらないから! 普通に、ガキと一緒にそのまま寝てろよ!』
『…………』
『いや、だから、いちいちそんなことで感動の視線を向けないでくれる!?』
やはり、エルマと話していると、冷静な思考力がどこかに行ってしまう。
すっかりペースを乱されたアナが、肩で息をしていると、甲斐甲斐しく水を差し出していたエルマがふと視線を上げた。
『アナ様。随分と経済的な香りの香水を召されていますね』
『……安っぽいって素直に言えよ。あたしだってこんなの――』
趣味じゃない、と言いかけ、アナは口を噤んだ。
これが移ったものであることを告げると、誰に会っていたかも説明しなくてはならない。
芋づる式に、ルーカスの女の趣味にまで話が及びそうで、それが少々躊躇われたのだ。
言いよどんでいると、エルマは沈痛な面持ちで頷いた。
『……私が愚かでございました』
『は?』
『アナ様、考えてみればこの三日間、私があなた様にご指南申し上げたのは、どちらかといえばイザーク・ギルベルトライン……武闘部門の内容ばかりでしたね。王妃の資質を磨かねばならないこの期間、リーゼル・マリーライン……即ち美容部門を、あまりにも
『は?』
その、なんとかラインというのはなんなのだ。
嫌な予感を感じ取って硬直したアナに、エルマは手を取りながら優しく微笑みかけた。
『大丈夫。最終選考開始まで、まだ十二時間以上もあります。香水の選び方の復習から、バイオテクノロジーを用いた生け花、爆速カラー診断、ケミカルメークアップ術。今この瞬間から、私の持てるすべての美容知識を、あなた様に捧げますね』
『ところどころ不穏な単語混ぜるの、ほんと止めてほしいんだけど!』
アナは全力で手を引こうとしたが、離してもらえなかった。
『早速香水についてなのですが、香水というのは単に芳香を楽しむだけでなく、極めれば精神操作や洗脳といったことも可能でして、そのためにはまず化学式で香りの分類を――』
『滑らかに応用編に入らないでくれる!?』
にこやかに授業に移行しようとするエルマを、アナは必死で遮る。
だが、エルマは『いえいえ』と、こともなげに反論した。
『応用編だなんて。私たちの身の回りにも、こうしたものは平然と紛れ込んでいるものですよ』
『は?』
『例えば……そうですね、今日の養護院の畑に咲いていた白い花、ご覧になりましたか?』
質問の意味が、一瞬理解できなかった。
養護院の畑に咲いていた白い花。
それは、アナの村にも咲いていた、可憐なあの花のことだ。
『え……?』
『寒く荒れた土地で咲く、ありふれた雑草の一種です。咲いているときはほぼ無臭なのですが、花弁を潰すなどして加工すると、甘い香りがするのですよ。香りは鎮静作用を持ちますが、長期間嗅ぎつづけると、精神の働きが鈍り、洗脳が容易になります』
エルマの説明が、頭に入ってこない。
いや、脳内でなにかが繋がってしまうのを、アナは無意識に拒否していた。
村でよく見かけた白い花。
地味だけれど、加工すると、不思議とよい香りがする。
「無毒の」植物が歌声によって異常生育していた中、かの花は、たった一輪だけ、小さいままで揺れていた。
つまり。
アナはぎこちなく首を巡らせ、寝台脇の机を見た。
ここ数日身に着けていない髪飾り、それをしまっていた引き出しを。
かつて養父から贈られた、白い花を模した髪飾り。
先端に付けられた鈴の音は軽やかで、鼻先を近付ければ、本物の花と同じ香りがする。
(つまり……?)
『アナ様。特訓に集中してくださいませ。香水の話がお嫌でしたら、先にそれ以外の美容部門について徹夜で講義を進めますが、それでよろしいですね?』
『あ……ああ……』
気もそぞろに返事をする。
恐ろしい言質を取られてしまったと彼女が気付いたのは、数分後のことだった。
この後の幕間が短いため、今日中にもう1話投稿させていただきます。